Car Life Stories

米 八矢

第1話 想い出【スバル レガシィB4 Spec.B [TA-BL5]】

「なぁ、唯依。明日は鈴菜の結婚式だ。早いもんだよな。あんなに小さかったあいつが、もう25歳だ」


 夏の虫の音が静寂から俺を守ってくれる。ついこの間までは娘の鈴菜の存在が、寂しさを埋めてくれていた。


「あいつが選んだ相手だ。心配なんかしてないさ」


 線香を点け忘れていた。マッチを擦り、線香の先に翳す。白く細い糸が天井へと舞い、空気に溶けていく。


「もう25年も経つんだな。お前がいなくなってから」


(今日はやけに饒舌ね。あなたらしくもない)

 そう、聞こえた気がした。


「そう笑うなよ、唯依」


 たとえ俺の幻聴でもいいんだ。今は夫婦が揃って愛娘の門出を祝うべき刻なのだから。


「鈴菜はさ、出会った頃の唯依にそっくりなんだ。頭が良くて、可愛らしくて……」


(泣かないで。あなたは立派に育ててくれたわ。私たちのたった一人の娘を)

 また、幻聴が聞こえた。でも、それが嬉しくてたまらなかった。

今まで一人で鈴菜を育ててきたのは、鈴菜のため。あいつが誰かに劣等感を抱かないくらい幸せに暮らせるように、俺は努めてきたつもりだ。誰にも相談できなくて悩んだ日も、雨の日くらいある。

 それでも、俺が挫けずいられたのは唯依とのたった一つの繋がりだったから。


「唯依。明日は一緒に鈴菜の晴れ姿を見に行こう」


 一枚しかない家族がそろった写真を、ゆっくりと手に取る。

鈴菜が生まれた日の写真。産婦人科の駐車場で撮ってもらった。大事そうに鈴菜を抱く唯依。そんな唯依を微笑舞しく見つめる俺の姿。そしてその後ろには、初めて買った愛車が映っている。


「覚えてるか、レガシィのこと」


 幻聴は聞こえてこなかった。

 唯依はこの車をえらく気に入っていた。白いレガシィ。唯依と一緒に車屋を回って選んだ車だ。色んな所に行った。海も山も川も。太陽の差す台地も、風の吹き荒れる谷も、雪の降り積もる山岳も。ウィンストンとボスのブラックコーヒーの匂いが車内に立ち込めていたが、唯依はそれを嫌がらなかった。

喧嘩したときも、仲直りは決まってドライブの最中だった。俺が左折と右折を間違えて焦っていたら、唯依が笑った。プロポーズをしたのも、この車の中だ。夜のドライブで立ち寄った海辺の道の駅。その駐車場。あいにくの雨で車内は騒々しかった。そう言えば、禁煙し始めたのもこの車の中だったな。なんで禁煙することになったのかは、覚えていたいけど。

 唯依との想い出はレガシィと共にある。レガシィがいなければ、唯依とこんなにも愛情を深めることはなかった。唯依も同じ様に思ってくれていたはずだ。

だから唯依は、この子も家族だからと一緒に写真を撮ったのだ。


「唯依が死んですぐのことなんだ。俺はレガシィを見ると唯依のことを想い出して涙が止まらなくなった」


 本当はずっと。ずっと………。


「あいつが頼れるのは俺だけだ。だから俺が泣いてちゃいけないと思ってさ。レガシィ、売ったんだ。唯依には申し訳なくて、ずっと言えなかった」


 今なら、自分のために唯依に語ることが出来る。この25年間の孤独と、哀しみと、鈴菜がくれた喜びを。でも、それを語る場所は、やっぱり……。


「唯依、俺さ。車、買ったんだ。きっと、唯依も気に入ってくれるはずだ」


 写真を手に俺は、駐車場へと向かう。心拍数が上がるのを感じる。こんな気持ちいつぶりだろうか。

 車屋さんに頼んで、駐車場に車を置いてもらっている。その車を見た時、俺は涙が流れた。


「こんにちは」


 車屋さんが鍵を差し出してきた。


「これは、あなたのクルマです。これからの人生を最高の物にしてくれる相棒です。それは私が保証します」

「ありがとうございます」


 鍵を受け取る。手に収まった時代遅れの物理キーが懐かしくて、あの時間に戻れる気がして、唯依との想い出がたくさん蘇ってくる。

 流石に古い車だったから、同じ色を見つけることは出来なかった。


「なぁ、唯依。俺さ。またレガシィ買っちゃったんだ」


 まず、俺はボンネットを手の甲で撫でた。そしてそのままサイドミラーに手を振れる。


「また、隣に乗ってくれないか? 唯依」


 そう言った俺は助手席の扉を開けた。その瞬間、懐かしい匂いがした。

俺が助手席を開けて唯依を乗せたのは一回だけだ。鈴菜が初めて家に来た日。最初で最後の家族三人でのドライブのときだけ。


「また、いろんなところに行きたいんだ。唯依と一緒に」


 やはり返事は聞こえない。それが少し寂しかった。


「かっこいい車だね、お父さん」


 一瞬、唯依の声かと錯覚した。慌てて後ろを振り返ると、微笑んだ鈴菜がそこにいた。


「どうして……」


 鈴菜は今日、結婚する相手と最後の打ち合わせをしているはずだ。


「最近、お父さんの様子がおかしかったからね。こっそり探ってたの」

「探るって、そんな物騒な」


 涙を見られない様に袖で急いで拭う。


「でもよかった。お父さんが嬉しそうで」

「嬉しそう?」

「うん。だって、その写真の中のお父さんと同じ顔をしてるよ」


 そう言われて、写真の中の自分を見る。確かに笑っているように見える。けど、だいぶカッコ悪い顔をしている。涙で目元が晴れて、上手く笑えていない。


「ねぇ、お父さん。もしよかったらさ。私をドライブに連れてってよ」

「え?」

「その車には、お母さんとの想い出が詰まってるんだよね。その想い出は私にとっても大事なものなの。お母さんの記憶がない私にとって、お母さんとの繋がりはお父さんの中にある想い出」


 俺は鈴菜にあまり唯依との想い出を話してはいない。俺がつらくなってしまうから。


「私はずっと知りたかったの、お母さんのこと。でもお父さんを悲しませてしまうかもしれないと思って、聞けなかった」


 鈴菜は、俺が思っているよりも大人だった。こんな弱い父親のことを気遣ってくれるくらい優しい子なのだ。


「その車を買ったってことは、またお母さんに会いたくなったんでしょ?」


 鈴菜は俺の知らない俺のことを知っているんだな。子から学ぶこともある。


「……あぁ。俺はまた唯依に会いたいんだ。また、唯依と想い出を増やしていきたいんだ」

「お母さんとの想い出だけ?」

「??」

「私たち家族の想い出じゃだめ?」

「あ、あぁ……だめじゃ、ないよ……」 


 今まで抑えてきた涙が溢れてきた。鈴菜の前では泣かない様にしていた。威厳のある父親でいたかった。弱いところなど見せたくなかった。

 でも、もう隠さない。


「鈴菜……」

「なぁに、お父さん」

「俺はさ…唯依が死んでから全てがどうでもよくなった。このまま唯依の所へいきたかった。そうしなかったのは、俺の傍に鈴菜がいたからだ。唯依との唯一の繋がりが鈴菜だったんだ」

「お父さん……」

「だから、鈴菜が結婚するって聞いたとき、ものすごく哀しさが溢れてきた。だから俺は唯依のもとへ逃げようと思った。唯依との記憶が色濃く残るこのレガシィに」

「うん」

「でも、それはもうやめた」

「え? でも、車は……」

「これからは家族のもとへ逃げる。それは唯依だけじゃない。鈴菜もそうだ。このレガシィだって新しい家族だ。俺は家族との想い出に逃げる」

「お父さん…!」

「だから鈴菜。あんな男のところに行く前に、俺とドライブに行こう。いっぱい話したいことがあるんだ。唯依のこと。それから」


 俺はレガシィのAピラーを撫でる。


「初代のことも」

「うん、うん! うん‼ 連れて行って、お父さん」


 鈴菜はステップ気味に、レガシィに駆け寄る。あの日の唯依のように。

そのまま鈴菜は助手席に腰を治める。


「鈴菜、これを持っててくれるか?」

「もちろん。お母さんも初代も一緒だよ」


 幸せそうな鈴菜の笑顔は、唯依の笑顔に勝るとも劣らないほどに可愛らしかった。

 懐かしい運転席へのドアを開くと、気分は青春時代へと回帰する。

シートに座ると想像以上に低くて、妙に戸惑う。


「こんなに、低かったかな?」


 シートの位置を調整する。ルームミラーの左角の鏡が少し剥がれていた。初代と同じだった。


「ふふ……懐かしいなぁ」


 少年の心を燻ってくる。久しく運転していないマニュアルに不安はある。けれど、初めて唯依と鈴菜の二人を乗せたあの時に比べれば、なんてことはない。

 キーを差し、イグニッションを回す。こうして、二代目の心臓は目を覚ます。


「あぁ。何もかもが懐かしい」


 シートの堅さ、ステアリングの太さ、シフトノブの収まり、クラッチの重さ、音の割れたカーステ、独特なボクサーサウンド。


「初めて乗ったとき、お母さんもこんな気持ちだったのかな」


 鈴菜が写真を握り締めて呟く。


「どんな気持ちだ?」

「ふ・あ・ん」

「ふっ。かもな」


 ギアを一速に入れる。新しい旅路の始まりだ。子はいつか親になり、その子もまた、親になる。鈴菜もきっといつか。

 クラッチをゆっくりと繋ぐ。ゆっくりと車が前に進みだす。完全にクラッチが繋がる。


「出発進行~~!」


 鈴菜が楽しそうで、俺は幸せだった。

 このままどこまでも走っていけそうだった。鈴菜にたくさんの思い出話をした。唯依のこと。自分のこと。

 そうして車はいつの間にか一番の想い出の場所に辿り着く。


「あ、ここって……」

「そう。俺が唯依にプロポーズした海が見える道の駅」


 無意識にウインカーを出していた。

あの場所は空いていた。街灯の柱のすぐ下の駐車場。


「あの日もここに停めたんだ」


 今日は快晴だ。水平線の彼方まで見渡せるほどに。


「ねぇお父さん。降りて写真を撮ろうよ。家族も増えたし」


 鈴菜はちゃっかり自撮り棒を持ってきていた。


「そうだな。撮ろう」


 でも自撮り棒じゃ海も車も自分たちも入れて撮るのは難しかった。だから、俺たち二人と、リアのLEGACYの文字で写真を撮った。これはこれで趣があっていい。


「初代はシロちゃんで、二代目はクロちゃんだね」

「犬みたいな名前だな」


 ベンチに腰かけて、写真を見返す。


「流石に古い車だから、色までは選べなかったんだ。だけど年式と型式は同じだ」

「大事に乗ってあげてね、お父さん」

「あぁ。もちろんだ」


 ベンチからレガシィに視線を送る。ここから見える景色は、唯依と見た景色そのものだ。もう涙は出溢れてこない。溢れてくるのは幸せだけだ。


「そうだお父さん」

「なんだ?」

「これ、プレゼント」


 鈴菜から受け取ったのは、開封済みのウィンストンと、缶コーヒー。


「……どっから見つけてきたんだよ」


 懐かしくて笑ってしまう。


「おばあちゃん家のお母さんの部屋にあったの。お父さん、お母さんが妊娠して煙草やめたんでしょ? お母さんと何かを約束したっておばあちゃんが言ってた」

「約束?」

「覚えてないの?」

「約束か。何かした気はするけど……なんだったかな」


 鈴菜の為に煙草をやめたってことは、辛うじて思い出せる。けど、何の約束をしたか覚えていない。


「吸いたいなら吸ってもいいよ。一回くらいお母さんが好きになった時のお父さんを見てみたい」

「そう、だな。ライターが無いから車に戻るぞ」


 鈴菜は頷き俺の後を追った。

煙草なんて久しぶりだ。吸いたいとかはないが、唯依との想い出の香りをまた嗅ぎたい。

 レガシィのエンジンをかけ、シガーライターを探す。


「あれ、シガーライターってどこだっけ?」

「え、知らないの?」

「ずっとライター持ってたから。ついてないことはないと思うんだけど」

「ここは?」


 鈴菜はシフトノブ前の灰皿の蓋を押す。ゆっくりと灰皿に蓋が開いた。


「あ、これ」

「うん?」


 鈴菜が灰皿の中に見つけたのは、古いプリクラの写真。


「前のオーナーさんのやつかな」

「……ぁ。嘘、だろ……」


 これは奇跡だ。こんなことあるわけがない。

そうだ。約束したんだ。唯依と約束したんだ。この写真を汚さない様に煙草を止めるって。


 俺は25年前の会話を思い出す。


「ねぇ、どこかにプリクラ貼っていい?」

「えー、いいけど内装を痛めない所にしてくれよ?」

「じゃあ、ここ」


 そう言って唯依は灰皿の中にプリクラの写真を貼った。さっきガソリンスタンドで掃除してもらったから、中身は綺麗だ。


「おいおい。そこじゃ見えないぞ?」

「いいの。もし車が物凄く汚れちゃっても、色が変わっても形が変わっても、中にこのプリクラを貼っていれば、私たちの家族って分かるでしょ?」


 唯依はたまによく分からないことを言う。


「でも灰皿も使えないんだけど」

「それが本当の狙いだよ」

「どうして? 煙草嫌いだったか?」

「私は大丈夫だけど……」


 唯依は言葉を止めて、お腹をさする。


「この子の為に。ね?」

「この子って…ほんとか⁈」

「嘘なんかつかないわ。プリクラを汚さないように頑張って禁煙してね、あなた」

「あ、あぁ!」


 どうして、忘れていたんだろうか。あんなにも幸せだった時のことを。

笑みと涙が同時に溢れて、感情がぐちゃぐちゃだ。


「お父さん? どうしての?」

「こいつ、二代目じゃない……」

「え? どういうこと?」


 俺はこんなにも嬉しい日をあと何度経験できるんだろうか。


「俺のもとに帰ってきてくれたんだ。家族が」

「じゃ、じゃあこのプリクラは……お父さんとお母さん⁈」

「そうだよ。鈴菜が唯依のお腹にいるって教えてもらった日に、唯依が貼ったものだ」


 本当に色が変わっても家族だって教えてくれた。凄いなぁ唯依は。

唯依との繋がりは鈴菜だけじゃない。

このレガシィも、唯依との繋がりだ。


「鈴菜。俺やっぱり煙草は吸えない」

「お母さんとの約束だから?」

「いいや、唯依だけじゃない。レガシィとも約束してる」


 俺は鈴菜に笑みを送った。


「ふふふ。ねぇお父さん。私、寄るところができたの」

「どこだ?」

「結婚式場」


 いたずらっぽく笑う。この表情も唯依に似ている。


「どうして?」

「招待状」

「招待状?」

「うん。招待状をもう一枚書かなくちゃいけなくなったから」

「誰に?」

「二代目改め、初代クロちゃんに」


 鈴菜は本気の目をしていた。


「あはは。そうか。ありがとうな、鈴菜」

「いいの。私にとっては今日が初めてくらいに記憶のない家族だけど。お母さんを感じられるから。私にとっても大事な家族よ」

「きっと唯依も喜んでるよ」

「だといいな」


 俺はプリクラを一撫でする。そうして、一速にギアを入れた。ボクサーサウンドはあの日と変わらず、鼓膜を揺らす。重たいクラッチがさっきよりも怖くない。踏みたくなる気持ちを抑え込むのはあの日と同じ。


「ねぇ、お父さん」

「なんだ?」

「私、この車好きだなぁ。なんだか暖かいの」

「そりゃそうだ。鈴菜のお姉ちゃんだからな」

「そっか、お姉ちゃんか」


 鈴菜は顔を隠す様に外に視線を向けた。その顔が微笑んでいることは、耳の赤さを見れば分かる。


海辺のワインディングロードは今も昔も変わらない。今の相棒も、家族も変わらない。時代が変わっても、唯依と過ごした想い出が変わることはない。

 ありがとう唯依。君のおかげでまたこいつで出会えた。

 ありがとうレガシィ。お前のおかげで唯依と鈴菜と四人で本当の家族になれた。


それから、遅くなったけど。

おかえり、レガシィ。

これからもたくさん走ろうな。

よろしく、相棒‼


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