〈東の魔女〉とメガネの少女
焼魚圭
第1話 魔女と私
月のきれいな夜、遥か遠い向こうの黒く果てのない海に漂う泡のような星を眺め歩く少女。眼鏡をかけ、黒い髪を左に流し、右に現れた白い額は黒い髪の間でよく目立つ。
少女の心は不満で満ち溢れていた。
「会えないよ……会いたいって、こんなに願ってるのに」
そう囁かに呟く頼りない声は風に揺られた木々のざわめきにかき消された。
少女の白い手には栞が優しく包まれていた。幸運を思わせるあの葉が貼り付けられた栞が。
☆
学校での同級生による執拗なイジメ、掃除の時間にバケツの水をわざとかける生徒を見ていたにも関わらず見なかった事にして偽りの平和をでっち上げる先生、「抵抗しないから悪いの、そもそもあなたにも原因があるんじゃないの?」ただそう言って少女に責任の全てをぶつけて守りもしてくれない親、全てに嫌気が差していた。やたらと明るい太陽も、彼女にとっては眩し過ぎた。
あまりの辛さに何処か遠い所へ逃げてしまいたかった。
木の橋の側、川辺の石段に腰掛け、そこで蹲り頭を抱えていた。中学校に入学したてのきれいな制服は少女の心が痛め付けられると共に汚れてしまっていた。白く薄い夏服は少女の体の細さを一層際立たせる。
もう自分の為に流せる涙など残されてはいなかった。
「もう……嫌」
ただそう呟いた。優しく吹くそよ風が揺らす雑草が奏でる音はその言葉すら消す事は叶わなかった。
「どうしたの?」
聞き覚えのない声が少女に訊ねる。
座り込んでいた少女はゆっくりと立ち上がり、振り返った。
そこにいるのは全身黒づくめの怪しい女だった。黒い帽子に黒いローブ、そして手に持つ箒。
その姿はいかにもな魔女。それ以外に考える事など叶うはずもなかった。
「どうしたの? 聞かせてごらん。何か出来るかは分からないけれども」
魔女の言葉には魔力が宿っていた。いや、ただの言葉に少女が勝手に魔力を感じていただけなのかも知れない。
魔女は桜を思わせる美しい唇を動かす。
「ねぇ、凄く、凄く、ツラそうだけど、我慢するだけじゃあ……いつの日か壊れてしまうわ」
ただひたすら閉じていたはずの少女の口から言葉が溢れ出す。悲しみに満ちた日々に苦しみに溺れる今、そして憎む相手の事も。親ですら味方にはならなかった事も。全て全て全て、何もかもを吐き出した。
魔女はただ、「ツラかったね、苦しかったね」そう言って抱き締め、「何も出来なくてごめんね」そう言っただけだった。それだけで充分だった。
それから十数分の時が風に流された事を魔女は懐中時計のふたを開き、その時計の中を回り続ける針の指す数字を見る事で確認した。
「あら、そろそろいい時間。ごめんなさいね。高校生の魔女も少しだけ忙しいものだから」
立ち去ろうとした魔女のことが知りたい。そんな想いを込めて少女は訊ねた。
「えぇと、あなたの名前は何ですか? 私は……唐津那雪と言う者です」
自分の事を、大人でも救えない自分の支えだけにでもなってくれた心の底から美しいと思った女子高生の名を、那雪はどうしても知っておきたかった。
「私は東院奈々美、この極東の地の中で〈東の魔女〉なんて呼ばれている者よ」
奈々美は微笑んでみせた。少し明るめの茶髪を左に流し、右側の広く可愛らしいおでこが印象的だった。大人のように冷たそうでありながらも奥に優しさを秘めたガラス玉のような瞳は見る者を安らぎで包み込み、肩ほどまで伸ばした髪は少しうねり、それもまた柔らかな印象を与える。ローブによって隠されたその身体はきっとそれなり以上に整っているのだろう。どこを取ってもどこまでも平凡以下な那雪とは違って紛れもない美少女だった。
奈々美は手を振って誓った、愛しい約束の言葉を美しい声に乗せて。
「それじゃ、また明日ね。なゆきち」
☆
那雪は夜空の星々に線を引いて結び、想い出を描いていく。
二人でなんでもない、それでもかけがえのない会話で笑い合った事、魔法を使って当たりを出すと言って棒アイスの外れを毎日のように引き当てては疑問に思い続けた事、竹林を見下ろしながら箒に二人乗りで飛び回りいつもより近くにある月を眺めた事、海に行った時、奈々美が中々水着着替えてくれなかった事。
「ねぇ、着替えてよ! 絶対可愛いから」
普段は控えめな態度でいる那雪の珍しい姿。それに対して奈々美は何かを隠すような笑みを浮かべて那雪の頬を柔らかな手で包む。
あまりにも近い奈々美の顔を見ているだけで那雪の胸は熱くなっていく。頬は赤く染まっていく。そんな那雪にわざとらしい笑顔を浮かべたまま奈々美は言った。
「良いけれども嫌いにならないで、なゆきちに嫌われる、今の私にとってはそれが何よりも怖い事なのだから」
不安のこもった言葉、加えて声も震えており感情が一切隠しきれていない。そんな魔女の忠告を添えた上で着替えに行った。
どれだけの時間が経ったであろうか。砂浜から近付いてくる奈々美の姿を捉えた。水色のビキニを着た奈々美が目の前に来た。大きく膨らんだ女性らしい胸、かろうじて魅力を感じさせる柔らかそうなお腹、そしてそこそこ大きな尻とそこから伸びる魅惑的な脚。那雪の心の眼で見た通り、それなりに整っていた。
しかし身体の所々が変色していた。過去に火に焼かれて爛れたような跡。それは奈々美の身体を完全に台無しにしてしまっていた。
那雪の視線に気が付いたのだろう。
「火傷のことでしょう? 小学校に上がる前の休みだったと思うわ。あの時生まれて初めて火の魔法を使おうとしたのだけれど、どうにも苦手だったみたいなの。失敗して、身体が燃え上がってしまったわ」
そんな苦い過去を想い、それでも明るく微笑みながらそう言った奈々美に対し、那雪は笑顔を曇らせていた。
那雪は罪悪感のあまり乱れる呼吸を無理やり整えて、詰まる言葉をようやく絞り出す。
「ごめんなさい、こんなに酷いなんて知ってたら頼まなかった、本当に……ごめんなさい」
それだけ言って俯いていた。それだけしか言えなかった。
「良いの、気にしないで。なゆきちが嫌いにならないだけで私は嬉しいわ」
那雪の白くか細い身体を抱き締めて、奈々美は色っぽい笑みを見せて那雪の薄い唇に艶っぽく程よい暑さの唇を重ねた。
「魔女の接吻よ、ほら、元気出して」
――ツラいはずの奈々美が笑顔なのに自分がヘコんでどうするの!
そんな想いで那雪は白い歯を見せて笑ってみせた。
「私の身体の事は誰に訊かれても内緒にしておいて欲しいわ」
そうして魔女との約束の握手をして、ふたりは海に入って遊ぶのであった。
そうした大切な日々が幾度と無く過ぎ、初めて出会ってから一年以上が経ったある日の夜の事だった。
未だ満月になりきれていない月の下で魔女と少女は向かい合っていた。それは建ち並ぶ家に囲まれた場所、那雪が住むベッドタウンでの事だった。
「ごめんなさい、私、少しの間遠くに行ってしまってなゆきちを一人置いて行ってしまうの。もう高校を卒業してこれから他の魔女たちの世話になる年頃だから」
そして那雪の白い手をつかみ、小さな手の平の上に柔らかな手の平を重ねた。
「これを持っていて。なゆきちの『会いたい』って言葉が聞こえたら必ず会いに行くから」
それは紛れもなく別れの挨拶だった。
魔女は飛び去り、一人残された那雪の手に残されたもの。それは可愛らしい4枚の葉、幸運の葉が貼り付けられた栞だった。
☆
星々の泡に思い出を見ていた那雪の手にはあの栞が握られていた。
奈々美との思い出が詰まった道を歩きながら追憶を追いかけて、やがて二人が初めて出会った橋の側、あの時の少女がうずくまり頭を抱えていたあの川辺の石段へと辿り着く。
どれだけの時が経っただろう。那雪はもう17歳を迎えていた。あの日があったからこそ、不思議な魔女の飾りのない魔法があったからこそ、あの日々があったからこそ、今ここに那雪は立っていた。
しばらくの間その場に立ち尽くし、浸っていた那雪の顔から微笑みがこぼれる。
闇に紛れる黒い服も、右の額の見える左に流した髪も、全てあの愛しい魔女を真似したものだった。
「会いたいよ」
魔女を呼ぶ声は川に波紋を作る風によって揺らされた木々のざわめきにかき消されて、愛しいあの人のところへは届かない。
那雪が伸ばす手は、虚しい暗闇と追憶の残像を掴む事しか出来なかった。
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