第2話 過去と未来の記憶

 榎本が過去に戻るきっかけになったのは、はづきのことが大きな原因だった。

 はづきは元々、坂田助教授が未来において、実験台に選び、自分の実験台にふさわしい女に仕立て上げたのだった。

 はづきの記憶喪失の女だった。はづきの中に形成された記憶は、すべてが坂田教授によって作られたものであり、いわゆる、

――架空の記憶――

 だったのだ。

 元々記憶のなかったはづきが、どうして記憶を持っていなかったのかということを、坂田教授なりに考えたのは、

――彼女は他の人にあるものがなくて、他の人にはないものがあるのだ――

 それが記憶を格納する場所であった。

――ただ、他の人と違う場所にある――

 というわけではなく、他の人にある場所にはなく、他の人にない場所にあると考えたのは、本来あるはずの記憶を格納する場所が、他の人の意識する場所にあったからである。

「では、本来意識するはずの場所はどこにあるのか?」

 と聞かれると、

「それはやはり同じ場所にあったのだ」

 と答えることだろう。

 記憶しようとする場所に意識するための場所があるのだから、当然、意識が優先されることになる。そのまま記憶しようにも、同じ場所なので、記憶しようとした時、すでに次の意識をしてしまうことで、その時の記憶は飛んでしまうのだった。

――はづきにとっての記憶する場所が意識している場所と同じなのは、いつからのことだったのだろう?

 本来であれば、可哀そうな娘で、何とかしてやりたいのは山々だったが、坂田教授には何とかしてあげることはできなかった。

――それならば――

 と考えたのが、

――はづきを実験台にして、記憶と意識の関係を研究することにしよう――

 もし、他にもはづきのような人がいて、結局助けられないのであれば、彼女には申し訳ないが、自分の実験台になってもらうことで、これからの心理学や精神科の研究に役立てることで、少しでも世の中のためになればいいと思ったのだ。

 しかし、その思いが自己満足に過ぎないことを坂田教授には意識がなかった。もっとも、大学教授というのは、大なり小なり、自己満足によって研究が勧められるものだと言っても過言ではないと、坂田教授も感じていた。

 ただ、自己満足というのは、学者に限ったことではない。人間誰しも持っているもので、そのことを、その時の坂田教授には分からなかった。それは、

――自己満足は悪いことだ――

 という意識があるからで、何とか正当化させたいという思いを抱いているのがその証拠だった。ちょっと考えれば自己満足がそんなに悪いことではなく、むしろ、

――人間が欲する欲というものがあるから、自己満足も必要なのだ――

 という考えを持つことができれば、余計な正当化など考える必要もないはずだった。

 それにしても、はづきを実験台にしようなどという大それたことを考えるようになったのは、時期というタイミングも悪かったのかも知れない。

 当時、坂田は教授になってから、十五年が経っていて、教授としての経験は豊富だったが、それに伴った研究という実績には欠けていた。そろそろ後輩は助教授たちに自分の立場を継承させることに従事しなければいけない時期になってきたのに、肝心の研究が追いついていないということで、坂田教授にも焦りがあった。

――ここで起死回生のホームランをかっ飛ばさねば――

 と思ったとしても、それは無理のないことだった。

 坂田教授も、さすがに悪魔に魂を売り渡すような非道な人間ではない。はづきを見ていて、

――このままでも十分に不幸のどん底なのだから、自分に従順な女に仕立て上げて、研究結果を得られれば、それが彼女の幸福にも繋がる――

 と、自分に言い聞かせていた。

 実際のはづきは、自分に記憶がないことを悩んでいることはなかった。意識も普通の人ほどハッキリとしているわけではない。何しろ、坂田教授と出会った時は、

「私は一体どこから来て、どこに行こうとしているのか、まったく分からないの」

 と、飼い主に捨てられて、ノラになってしまった猫のような状態だったのだ。だから、教授にとってはづきという女は、

――知り合ったのではない。拾ってきたのだ――

 という意識が強かった。

 最初は誰にも知られないように、自分の部屋に匿っていた。しかし、研究をするために、大学の研究室に連れてくるようになると、助手である榎本を始めとして、限られた人間には、はづきの存在が知られるようになった。坂田教授は別にそれでもいいと思うようになっていた。

「彼女は、河村はづき。記憶を失っているので、彼女の治療を兼ねて、私は彼女を研究しようと思っています」

 坂田教授の話を助手たちは、そのまま鵜呑みにしていた。数人いる助手の中であまり目立たない存在の榎本も、教授の言葉を一番に鵜呑みにした口だった。

――坂田教授は、彼女の記憶を取り戻させようとしているんだ――

 と、教授の優しさに触れることができたような気がして、嬉しく思ったほどだった。

 しかし、日が経つにつれて、少しずつ様子が違ってくるのを感じた。最初は何となく何かが違うという感覚だったが、実際に違いを感じたのは、

――最近、教授の目の色が変わった――

 と感じた時だった。

 もはや、その時の教授の目は、榎本が尊敬していた坂田教授とは違っていた。自分の中で無意識に持っていた許容範囲を幾分か逸脱していたのである。

――教授は一体何を考えているのだろう?

 疑いの目で教授を見るようになると、今度は教授が考えていることが手に取るように分かってきたのだ。

――まさかそんなことが――

 榎本にも、坂田教授がはづきを自分の実験台に仕立て上げようという気持ちになっていることが分かってきた。だが、その時はまだそれがいいことなのか悪いことなのか、判断がつかなかった。何しろ今まで信じて疑わずに、黙ってついてきた相手に対して感じた「悪」である。そう簡単にそれを認めることなどできるはずもなかった。それを認めてしまうということは、

――俺も悪の仲間入りしていたことになるからだ――

 と感じたからだ。

 坂田教授は、自分の若い頃のことを思い出していた。自分の最も信頼のおける助手である榎本に、

「私は、いつの頃だったか、記憶を失っていた時期があるんだ。その時というのは、後から思い出してはいけないことだったのか、今の記憶が戻ってから、少しの間だけは覚えていたはずなのに、ある日を境に完全に記憶の中から消えてしまったんだよ。ちょうどその頃からだったかな? 私が何を研究しなければいけないのかということを悟ったのは……」

 坂田教授は、榎本助手を前に思い出しながら、噛み締めるように話をした。

「記憶を失った人を僕も今までに何人も見てきましたが、一度失った記憶が戻ってからは、その間に記憶していたものを忘れてしまう人が多かったように思います。少しの間だけでも覚えていられたのを、僕はよかったと思うべきではないかと思います」

 と言って、悲しそうな表情をした。

 この時の榎本の表情を、坂田教授はしばらく忘れることができなかった。

――どうしてこんな顔ができるんだ?

 榎本のしている表情は、相当自分に関わりの深い相手に対して感じたことを顔に出した時に示す表情に思えた。坂田教授が榎本に出会ったのは最近のことで、自分が記憶喪失だった頃、榎本はまだこの世に生を受けていなかったのではないかと思うほどだったのだ。

 榎本は、坂田教授のことを悲しんでいるのではなく、過去に自分の知り合いが、同じように記憶喪失になっていて、記憶喪失が解消してから、記憶を失っている間にできた新たな記憶に何か思い入れがあったのかも知れない。

 坂田教授は、榎本のことを何も知らなかった。

 というよりも、榎本に最初に出会った時、

――本当に初めて会う相手なのだろうか?

 と感じたのを思い出した。それが過去にも同じ思いを抱いたことがあり、それが榎本であることを知る由もなかった。若き日の坂田は、タイムマシンも信じられなければ、自分の研究も信じられなかった。ずっと迷走していたと言っても過言ではないだろう。

 坂田教授が榎本と出会ったのは、榎本がちょうど失恋した時のことだった。

 その時の榎本は、まるでこの世のものではないと思うほどに憔悴しきっていた。今にも自殺しかねない様子に、坂田教授はずっと気にしていたのだ。

「榎本君は、そんなに神経質になるほどではありませんよ」

 と、その時の助手に、自分が榎本のことが気になることを告げると、他の人はさほど気にしていない様子だった。

「いやいや、今にも自殺しそうな様子に、皆気付かないのかい?」

 というと、

「えっ、そんなことはないですよ。それに榎本君は失恋したくらいで自殺しようなどという弱い人間でもないですよ」

 と言われた時、坂田はハッと思った。

――自殺を考えている人間というのは、弱い人間なんだよな?

 と思い立ったのだ。

 考えてみれば当たり前のことのはずなのに、坂田教授は自殺しかけているように見える榎本が決して弱い人には見えなかったのだ。

「弱い人間じゃないかも知れないけど、私には危険に感じるんだよ」

「先生のおっしゃていることがよく分かりません。何か直感で、彼が自殺しそうな気がするんですか?」

「いや、直感というわけではないんだ。もちろん、最初は直感があったからこそ、彼が気になったんだけど、冷静に考えても、結論としては彼が自殺をしそうに見えるように思えてならないんだ」

「ということは、教授は彼が自殺をしようとしているのは衝動的な行動ではないと言いたいわけですよね?」

「そういうことになるね」

「でも、それだったら、計画して自殺を考える人というのは、人間的に弱くないということを言いたいように聞こえるんですけど、いかがですか?」

 そう言われてみれば、自分の観察眼の前には矛盾があった。

「自殺を企てる人というのは、いくつかのパターンがあるということになるのかな?」

「教授の言われていることを考えると、そういうことになるのかも知れませんね」

 榎本が本当に自殺を考えているのかどうか、話をしていると、分からなくなってきた坂田だった。

 榎本を観察していると、いつの間にかそれまで感じていた自殺をする雰囲気が消えていた。

――彼に何があったというのだ――

「榎本さんは別に今までと変わりませんよ」

 坂田教授は、榎本から自殺の雰囲気が消えたことを、その時の助手に話すと、榎本に変化がないという返事しか返ってこなかった。

――私ばかりが一人、榎本君のことで、右往左往しているような気がするな――

 まるで手玉に取られているかのようだった。

 それから坂田教授は、パッタリと榎本助手のことを気にしなくなった。少々のことがあっても、

「ああ、榎本君なら大丈夫だよ」

 と、他の人が心配することでも、榎本に対して、心配をしなくなった。

――きっと免疫ができたんだろうな――

 一度、大きく心配してから、心配がないことに気付くと、今度は全幅の信頼を置くようになる。それは、最初の心配が、本当に心の底からの心配だったということを示唆しているに違いない。

 教授は、同じ思いをした相手が榎本だけではないことを自覚していたが、それが誰だったのか覚えていなかった。

――そういえば、はづきを拾ってきた時、心底心配になった気がしたな――

 はづきを実験台にまでしようとしたにも関わらず。心底心配したというのも、坂田の中の、

――心の矛盾――

 だったのだ。

 心の矛盾とは、今に始まったことではなかった。今まで半世紀近くも生きてきて、いろいろな経験をしたのだということを顧みると、今度は、

――あっという間だったような気もする――

 と感じる。

「心の矛盾」とは、心の中にある二つのことを比較して、その結びつきが物理的におかしいと感じられることである。少なくとも心の中に二つの比較対象があり、それぞれをいつも気に掛けているのだということを悟らせる。なぜなら、普段はその二つを意識することもないからだった。

 坂田教授は、榎本助手がはづきを好きになったことに気付いていた。なぜなら、坂田教授もはづきのことを実験台にすると言いながら、本当は彼女のことが好きだったからである。その理由は、最初に彼女に感じた、

――彼女は他の人にあるものがなくて、他の人にはないものがあるのだ――

 という想いだった。

 最初はそれを、記憶に対してのことだと思っていたが、それだけではなかった。はづきという女性の性格そのものを表していたのだった。

 そのことを、坂田教授は気付いたのだが、もう一人そのことに気付いている人がいた。それが榎本助手である。榎本助手のことをずっと気にしてきた坂田教授には、その思いが手に取るように分かるのだ。

 はづきは、他の女と違って見えた。もちろんその理由は、記憶を失っているからであるが、記憶を失っていることで、他の人に見られる「穢れ」を一切感じることはない。しかし、はづきのことに興味を感じない人にとって、穢れを感じさせないのは、

――人間らしさのない、冷たい女だ――

 という思いを起こさせるようだった。

 もし、はづきが男ならそこまで人間らしさがないとは思わないのだろうが、どうしても女性というのは、感情の起伏が激しく、しかもその感情には計算が含まれていて、嫉妬に狂ったりするのを見ると、

――これは本心なのか、計算なのか――

 と男性に思わせるくらいが人間らしさだと思っている人も決して少なくないだろう。

 はづきにはそんな雰囲気は一切感じられない。

 最初、はづきを発見した坂田教授は、はづきに対して、吸い込まれるような思いを感じた。それがまさに、

――彼女は他の人にあるものがなくて、他の人にはないものがあるのだ――

 という想いだった。

 第一印象だったので、その時は彼女の記憶が欠落しているなど、すぐに分からなかった。そんな様子に、記憶の欠落を理解すると、はづきの大半を理解できた気がした。

 しかし、理解できるところまでは結構早く、

――理解しやすいタイプなのかな?

 と感じたほどだが、一歩その先を見ようとすると、完全に濃い霧に包まれたかのように、前が見えなくなってしまっていたのだ。

 他の人にないものを見つけるよりも、他の人が持っていて、はづきに足りないものを探すのは困難ではないように思えた。

 少なくとも記憶を失っているのだから、物理的にはづきには記憶という、他の人にはあるのに、はづきにはないものというのをすぐに発見できた。しかし、それだけではないような気がするのだが、それを発見することは困難だった。

――もっとはづきのことを知らなければ――

 という思いを坂田教授は抱いた。

 その思いを坂田教授は、

――自分の研究を達成するための手段――

 だと思っていたが、どうもそうではないようだ。

――「思い」は「想い」に繋がる――

 という考えを持つようになったのは、榎本助手がいたからだった。

 坂田教授は、榎本助手の考えが手に取るように分かる。あれだけ苦しんでいた榎本教授が、はづきの登場で吹っ切れるのであれば、それは喜ばしいことだった。

 しかし、坂田教授の中で自問自答が繰り返された。

「お前はそれでいいのか?」

 とである。

「いいじゃないか、これで榎本助手に気を病む必要もない。安心して研究に打ち込めるだろう?」

 と答えたが、今度はもう一人の自分は答えてくれない。しばらくして、

「何もかも分かっているくせに」

 と呟いて、消えてしまった。その答えは時間を置いたことで、もはやもう一人の自分の返答ではなかった。もう一人の自分が消えてしまったと思ったのは、実はその言葉を発する前だった。つまりは、自分で自分に言い聞かせたことになるのだった。

――僕は、榎本助手に嫉妬しているのかな?

 と感じると、自分が分からなくなった。心理学を極めるほどに研究を重ねてきたのに、一番分からないのが自分だというのは皮肉なことだ。

 本当は分からないのではなく、今まで考えてこなかっただけのことだ。

 いかに心理学という学問を究めてきたとはいえ、さすがに今まで考えたこともなかったことを即断で分かるなどということはありえない。

 逆に考えたことのないことの方が、

――こういうことこそ、深く掘り下げないと――

 と思い、時間を掛けて探る方を選択しているに違いない。

 坂田教授と榎本助手の間で、どっちが強くはづきを愛しているというのだろう?

 榎本の気持ちを意識して、対抗心を抱いている時点で、邪念が入ってしまって、自分が榎本助手に適わないことは、何となくだが、坂田教授にも分かっていた。

 分かっているからこそ、嫉妬するのだ。

――自分の方が気持ちが強い――

 と感じているなら、競争相手に嫉妬などするはずもない。

 では、榎本助手は、坂田教授がはづきをどう思っていると感じているのだろうか?

 最初こそ、

――彼女を実験台にするなんて――

 という思いから、冷徹な気持ちで見ているものだと思いこんでいた。しかも、その時には自分が深いところではづきを愛してしまったことで、他の人を意識することはなくなっていた。

 だが、榎本には教授がはづきをオンナとして意識していることに気付いていた。それは、

――「女」としてではなく「オンナ」としての意識だ――

 という想いであった。

 少なからず、淫らな思いが含まれていて、そこに人間らしさを感じた榎本は、それでも教授が淫らな思いを抱きながら、

――それを行動に移すなどということはありえない――

 と思っていた。

 しかし、一抹の不安は残っていた。それが彼女を実験台にしようとしているその感情だった。

 榎本は、教授がはづきに対して最初に感じた、

――この人と会うのは、本当に初めてなのだろうか?

 という思いを知った時から、教授に対して抱いていた思いが今までと少しずつ変わってくるのを感じたのだった。

 榎本助手は、自分がはづきのことを好きになったと感じたのは、坂田教授よりも早かった。しかも、最初に坂田がはづきを実験台にしようと思う以前から、榎本の中には、教授に対して恐怖のようなものを感じていた。

 まさか、はづきを実験台になどしようと思うなどとは思っていなかったが、坂田教授がはづきのことで、悩んでいるのは分かっていた。ただ、それが自分に対しての嫉妬に繋がり、それがはづきを実験台にするなどという発想に繋がるなど、ビックリの展開になってしまった。

 最初から、榎本は教授に対して、はづきのことでは後ろめたさを感じていた。

――はづきを助けなければ――

 という思いがあったからだ。

 その思いが強くて、

――はづきを愛している――

 という感情を自分の中で押し殺すようになってしまってのは、榎本助手の性格によるものなのだろう。

 一つのことに集中するとまわりが見えなくなってしまうのも、榎本の性格の一つだった。その性格がこの場合では、完全に裏目だった。しかも、榎本助手は真面目なところがあるので、融通が利かない。融通が利かないというところが、違う意味ではあるが坂田教授にも分かるので、坂田教授には中途半端に榎本助手の考えていることが分かった。

 それは、決していい方向ではない。完全な誤解の部分もあり、誤解は榎本助手を追いつめる形になるのだが、そんなことを榎本助手や、はづきに分かるはずもなかった。

――榎本は、はづきのことを愛しているくせに、それを表に出そうとはしない――

 この感情は、坂田教授が感じたものだが、もし坂田教授がはづきのことを好きでなければスルーしたことだろう。

 いや、逆にスル―できなかったからこそ、坂田教授は自分がはづきのことを好きになったという感情に確信を持てたのかも知れない。そういう意味では榎本助手の存在は、坂田教授が自分を顧みる上で、必要不可欠な存在だった。

――まさに助手にふさわしい――

 というのは、いかにも皮肉なことであった。

――僕は一体どうすればいいんだろう?

 何に悩んでいるというのか、確かに乗りかかった船を途中で降りるのは、これからの自分の人生で後悔を残すだけであるが、まだその時、はづきに対して自分が真剣に愛しているということを分かっていなかっただけに、それが悩みになっているのだと思った。

 榎本助手は、坂田教授の研究室に一人籠って、教授が過去に書き残した何かがあるような衝動に駆られ、夜の研究室を物色していた。

 元々、教授は自分の研究室を開放していて、助手がいつでも見れるスペースを作っていたのだ。その中に探しているものがあって、そう簡単に見つかる場所にあるなど、想像できるはずもなかったのに、なぜか、そこにはづきに対しての研究メモがあるのが見つかった。

――これは、教授が若い頃に書いたものだ――

 榎本は、こっそりとそのメモを持ちだした。綺麗に片づけられた部屋の一番奥に並べられていて、ずっと見た記憶もなかったからだ。ぎっしりと詰められた本棚にでもあれば、スカスカになった部分に違和感を感じるに違いないが、そんな雰囲気でもなかった。

――持って行っても、教授は気付かない――

 と、なぜか榎本は感じた。

 メモ帳は「ネタ帳」と書かれていて、何冊もあったのだが、書かれた時期はどうやら、坂田が助教授になる前くらいまでがほとんどだった。

 そして、「ネタ帳」の最後は、どうにも尻切れトンボになっていた。そこに書かれていたのは、当時の坂田が自分の記憶が徐々に薄れていくことを憂いていることだった。

 気になったのは、そのメモ帳が書かれた時代の割に、結構新しいことだった。

――いくら丁寧に扱ったとしても、ここまで綺麗に残っているはずなどない――

 まるで新品と言ってもいいほどの素材に、どんなに古くても、一年以上前だとは思えなかった。いた見方が物理的にそれ以上前であるはずがないことを示していたのだ。

 そのことを感じた時、榎本はそのメモ帳が、元からそこにあったのではないということを感じた。急に時代を飛び越えて、榎本が探そうとしたことを分かっていたかのように、満を持して、教授の研究室に現れたのではないかという思いである。いかにも都合のいい想像だが、榎本の中で信憑性はあった。過去から誰かが、時代を超えて、この場所に瞬間移動させたのだ。

――今の時代であれば、そんなことは可能であるが、この手帳を書かれた時に、この発明があったとは信じられない――

 時間を超える瞬間移動が可能になったのは、ここ数年だった。しかも、今でもまだ市販されているわけではない。一部の研究所で許可制になっていて、国から認められた場所で、認可されたことでなければ、行ってはいけないことになっている。しかも、それは限られた時間内だけのことで、数日のことであれば許されるが、それ以上のことで許されるなど、聞いたこともなかった。

 ただ、理論的には可能なことであって、実験も成功していた。ただ、実践で使用されたことがないというだけのことだった。だが、そこには倫理という大きな壁があり、その壁を突き崩すだけの論理が、まだ形成されていなかったのだ。

 そのメモに書かれていることは、日々の研究結果だけではなく、本人の感想も書かれていて、日記帳も兼ねているようだった。本人が忘れないようにしようと思って書き止めていたのか、それとも、時々読み返して、自分の中の戒めにしようとでも考えていたのか、その時の坂田の気持ちを計り知ることは難しかった。

――もし、俺だったら、どうなんだろう?

 榎本は、メモ帳を見ながら、そのことを考えていた。メモ帳の中には、自分の記憶が薄れていくことを憂いている内容も書かれていたが、途中から辻褄が合っていないような内容に変わっていった。

――やはり記憶が完全になくなってしまったからなのだろうか?

 と感じたが、それだけではないようだ。日記を書いている本人である坂田は、当然のように自分を一人称で書いていたのだが、途中から、自分を「彼」という三人称で描くようになっていた。明らかに描写が変わっていたのだが、基本的な視点や書いている内容に関しては、それまでとは変わりがない。

 だが、話は続いているわけではない。途中までと、途中にしどろもどろの箇所があり、それを超えると、また視点が戻っている。ただ、その時には三人称に変わっているという違いがあり、その間に何があったのか、榎本は気になっていた。

 最初は、メモ帳の登場人物は坂田だけだった。他の人のことに触れることはまずなく、その時の坂田のまわりにどんな人がいたのかということを思わせる内容は一切なかった。ほとんどが研究結果と、その日の心境だけで、心境も一人自分が感じたことだけだった。そこに人の介する余地はなく、すべて自分中心に世の中が回っているかのようだった。

 途中、しどろもどろの内容に入ってくると、支離滅裂な内容に一見見えていたが、その理由が、

――誰か他の人の存在を考えれば、辻褄が合うような気がする――

 というものだった。

 しかも、その人が一人ではなく、二人以上に思えてならなかった。一人であれば、勝手な想像も許される範囲内にあるのだろうが、支離滅裂な内容を繋ぎ合わせようとするならば、複数の人でなければ繋がるものではなかった。複数の人の存在を感じた時点で、勝手な想像は許されるものではなく、余計なお世話にしかすぎないことを感じていた。

 そんな期間が一冊分のメモ帳に存在していて、それまでの坂田のメモ帳期間から考えれば、三か月くらいのものになるようだった。

――三か月というのは、思ったよりも中途半端な期間だな――

 と感じたが、

――その時の坂田さんが感じていたのは、正常な感覚の三か月だったのかどうか、疑わしい――

 と思っていた。

 つまり、本当は三か月だったのだが、本人の感覚としては一年以上くらいの感覚だったのかも知れない。内容が支離滅裂だということは、その時の思考回路にも時系列のようなものはなく、一度進んだと思えば、急に戻ってみたりしているのかも知れない。何しろそれ以前の記憶はすっかり失っていることをメモ帳は物語っている。悲痛な叫びとして坂田はメモ帳に書き残している。今の坂田教授からは想像できないような感じだった。

 しかし、榎本はそんな坂田に人間らしさを感じた。いつも冷静で、そのくせ、時々癇癪を起していみたりするような、

――いかにも学者肌――

 を思わせるそんな存在に、戸惑っていたのも事実だった。

 過去の坂田を覗き見ているような気持ちになっている榎本は、次第に、

――こんな坂田教授を今までに知っていたような気がする――

 と思うようになっていた。

 それと同時に、今度ははづきのことも、本当は以前から知っていたような気がしてきたのも事実だった。

――どうしてこんな感覚に陥ったんだろう?

 榎本は真面目な性格で、その基本は、自分が信じたこと以外はあまり信じないというところにあった。要するに、

――自分に正直――

 なのだ。

 得てして自分に正直な人は、自分勝手な人が多いと思われがちだが、彼は自分のことが好きなのだ。

――自分のことを好きにならずして、他人を好きになるなどありえることではない――

 と感じていた。

 そんな風に思うようになったのは、実は最初からではなかった。今まで生きてきた中のどこかで変わってしまったように思えた。それまでの自分もさほど変わっていないと思うのだが、自分に確信めいたものを持つことのできない自信を持てる人間ではなかったことは事実だった。

――一体、いつからだったんだろう?

 この思いが、榎本にとって大きなことだった。まずは、そう感じることが一番大切なことだったのだ。

 いつからだったのかという問題もさることながら、まずは、いつからなのかを考えるという思いがすべてのスタートラインだったのだ。ただ、今の榎本にはスタートラインという言葉は微妙だった。それはまるで、

「タマゴが先か、ニワトリが先か」

 という禅問答のようなものだからである。それがパラドックスの発想であり、「捻じれ」を基本に異次元を発想した「メビウスの輪」に匹敵する考えであることに違いはなかった。

 坂田教授の部屋にメモ帳があった。そして、それを取ってきたのに、坂田教授は手帳がなくなったにも関わらず、まったく様子が変わることはなかった。

 坂田教授は、神経質だった。

 部屋が散らかっているのは、

「これにはこれで理由があるんだよ。綺麗に整理してしまうと、却ってあるべきところにあるべきものがないような気がして、却って落ち着かない」

 他の人なら、整理整頓ができない言い訳に聞こえるのだが、坂田教授の場合には、なぜか説得力がある。

 榎本はそんな坂田教授が手帳がなくなったことに気付かないはずもない。しかも、坂田教授の性格では、

――気になることをすぐに表に出すところがある――

 と、自他ともに認めるところがあった。それなのに、何も言わないというのは、

――なくなったことに気付かないのか、本当は最初からそこにあったわけではないということなのか――

 としか思えなかった。

 本来なら、最初からそこになかったなどという発想はありえるはずもないので、すぐに却下するのだろうが、榎本にはその発想を簡単に却下することはできなかった。むしろ、その考えの方に信憑性を感じるのだった。

 榎本も、

――ひょっとすると、元からあったわけではなく、俺が行くことで、そこに存在しているかも知れない――

 という「ダメ元」で捜索してみたのだ。

 果たして存在していたメモ帳は、中を見ると、榎本が欲していたものに間違いない。研究内容もさることながら、坂田教授の気持ちや考えの移り変わりが、榎本には興味を引くのだった。

 坂田教授が研究していたのは、一人の女性だった。彼女の名前については、ハッキリと書かれているわけではなかった。

「部屋を乱雑にして、誰かに見られるかも知れないような状況においておきながら、名前を隠すなんて、いかにも坂田教授らしいな」

 と思いながら読み進んでいくと、その女性が次第に研究材料から、自分の所有物に変わってくるのが見て取れた。

 それが精神的なものから来るだけなのか、それとも実際に自分の所有物としてしまったのか、メモ帳からだけでは判断がつかなかった。ただ、坂田教授の性格から行くと、そこまでの度胸は感じられない。メモ帳はあくまでも妄想の中で、勝手に作り上げた世界を描いているだけなのだろう。

 そのメモを見た榎本は、自分に運命的なものがあることを悟った気がした。しかも、その運命に逆らうことはできない。坂田教授の部屋に入ってメモを持ってくることからすでに、

――贖うことのできない運命――

 であったのだ。

 そう思うとすべてが運命に思えてきた。

 はづきを好きになったのも運命、さらには自分が自殺したいと思ったことも、どこかで今の自分に繋がることが運命づけられていたのだとすれば、はづきを若き日の坂田に合わせるために、タイムマシンを使って過去に戻ることが運命だと感じなければいけない。

 ただ、その前に教授が何を研究していたのかということを分かっていなければ、過去に戻ったとしても、何ができるというわけではない。無駄足になってしまっては、何にもならないではないか。

 いくらタイムマシンが開発されているとはいえ、過去に戻るということは、非常に大きな危険を孕んでいることは分かっている。しかも、自分に関係の深い過去に戻るのだ。当然、パラドックスが頭を過ぎらないわけもない。

――自分が坂田教授の前に現れなければいいだけだ――

 と思っていたが、どうもそういうわけにもいかないようだった。はづきを一人、若き日の坂田教授に預けるなど、想像もできない。しかし、はづきをこのままにしておくと、今の坂田に作られた記憶だけの女性になってしまう。それだけは、何があっても許せないと思った榎本だった。

 榎本が最初に考えたのは、

――一体、どの時代に戻ればいいのか――

 ということだった。

 そのために、教授の部屋からメモ帳を盗み出した。だが、盗み出して見たとしても、メモには日付が乗っているわけではない。闇雲に戻る場所を模索するわけにもいかない。タイムトラベルには未知数なことが多すぎる。何度も時代を行ったり来たり、できるはずもないのだ。そう思うと、一番の問題がどこにあるのか、見えてきたのだ。

 それでも、メモ帳を丹念に読んでいくと、どの時代のことを書いているのか、想像がついてくる。大体の時代に的を絞ることができれば、メモに書いてあるその時の事件などから、大体の年月が分かってくるというものだ。ハッキリと分かっているのは、坂田が助教授になった頃だということだった。

 もう一つキーポイントになったのは、坂田教授がその頃に、記憶を失った時期があったということだった。原因は定かではないし、坂田教授から聞いた話というだけなので、どこまで信憑性があるのか分からない。それでも、今は些細な手がかりでも貴重だった。以前に聞いた教授の話を思い出しながら、当時の病院の記録を探していくことに、思っていたほどの苦労はなかった。

 戻る時代を研究しながら、榎本は坂田のメモ帳を読み返していた。少し気になったのは、時系列に書かれているはずなのに、どこか順序が違っているのではないかと思わせるところだった。物理的に違っているわけではないのだが、

――読む人が読めば分かる――

 という程度の矛盾が手帳には書かれていたのだ。

 それがまったくの無意識によるものなのか、意識してのことなのかによって、これから戻るべき時代も、若干変わってくるのではないかと思えた。日記を読み進んでいくうちに、最初には感じなかった矛盾が目立つようになってきた。そう思うと、少なからずの教授の中にある意識が働いているように思えてならなかった。

 一貫して言えることは、研究している内容として、誰か一人をターゲットにしているのは分かったのだが、それが誰なのかということは完全にボカしている。しかもまわりは教授が誰かをターゲットにして研究しているであろうことを知らないだろうと、日記の部分で書いていた。

――俺が過去に戻って、はづきを教授の前に出さなければいけないのだが、この日記に沿って考えると、二人が知り合うところを誰にも知られないようにしないといけないんだ――

 と感じた。

 その一つの方法として、はづきの記憶を消すという方法が考えられた。この時代では人の記憶を操作することは、一部の研究者の間ではそれほど難しいこととはされていなかった。失うことになる記憶も、退避しておける装置も開発されていた。ただ、倫理的に問題が山積みなため、公には研究が進んでいることは隠されていた。公になっているわけではないので、法律で規制することはできないが、極秘で監視の目が光っているのも事実だった。だが、それも現代で起こることだけなので、過去に連れていった人間の記憶まで監視できるものではない。榎本は坂田教授を欺いてまで行おうとしていることなので、監視の目を欺くことくらい、さほど大きな問題ではないように思えたのだった。問題はタイミングで、先に記憶を消した後に過去に送り込むか、過去に送り込むタイミングで記憶を消すか、しばらく榎本は悩んでいた。しかし、その考えは取り越し苦労で、榎本の計画が具体的に決まってきたあたりで、はづきは記憶を失いかけていた。急いで榎本は、残った記憶を装置に退避して、はづきの記憶がなくなるのを待っていた。

 その時、榎本には違和感があった。その違和感がどこから来るのかすぐには分からなかったが、確信はないまでも、予感としてはあったことなのだが、違和感がはづきの中に生まれた副作用であることに気が付いていた。

 副作用のことや、はづきがどうして突然記憶を失うことになったのかということが気がかりだったが、その二つが根本で繋がっていることを漠然としてだが分かっていた。過去にはづきを送り込むという計画は、すでに中止することができないほど、榎本の中で出来上がっていた。

――このまま計画を中止すれば、歴史が変わってしまう――

 という発想が榎本の中にあったのだ。

 榎本は、今の時代では坂田教授を尊敬していて、立場としては部下であった。年齢的にもかなり年上であることもあり、まるで父親のように感じていた。

 はづきの副作用には二種類あることを、その時の榎本は分かっていなかった。

――過去に戻ることで、一つはすぐに分かるような気がするな――

 と考えた。

 計画としては、まず榎本が偶然を装って、坂田助教授の前に現れて、はづきの副作用である一つのことをイメージとして植え込ませようというものがあった。タイムマシンがあるのだから、偶然を装うことは難しいことではない。特に坂田の場合、急に初めての店に立ち寄ってみたくなる性格であることを知っていたので、スナック「メモリー」に顔を出すことも分かっていて、ちょうどそのタイミングを狙うというのが、榎本の計画だった。

「誰かが生まれたその時間には、必ず誰かが死んでいることになるんですよ。その数っていつも一緒なんですかね?」

 こんなセリフを坂田に聞かせるだけでよかった。坂田はあまり記憶力がいいわけではないが、却ってさりげない会話で気になることがあった方が、覚えていないまでも、頭の中に一番残ることになるのだった。

――前にどこかで聞いたことのような気がする――

 と、すぐに思い出せるところに記憶されていることになるのだ。

 榎本のことは印象に残らないだろう。言葉が漠然としてだが、印象深いことであれば、余計にそれを口にした人間のことを覚えていることはない。言葉を印象付けられて、自分もさりげなく、坂田助教授に近づくことができた。

――一石二鳥とはこのことだ――

 と、榎本はほくそ笑んでいた。

 はづきはその時、まだ未来にいた。その間、坂田助教授のことをはづきの中に印象づけるためであった。

 はづきは戻った過去は、榎本が戻ったよりもさらに前のことで、最初にはづきが声を掛けた時、違和感がないように坂田助教授にはづきを印象付ける必要があった。

 はづきは、過去に戻ったのだから、未来の坂田教授には、はづきがいなくなったことを印象付けてはいけない。

 はづきは過去と未来を行ったり来たりしながら、同じ相手の若い頃と、年を取ってからの相手をするという難しい立場に立っていた。

 そんな時、はづきの記憶が失われていたのは、ある意味好都合だった。余計な先入観があるわけではなく、榎本に植え付けられた記憶だけを頼りに、後は彼の言う通りに行動すればいい。

――教授の実験台になっているはづきを可愛そうに思っていたはずなのに――

 自分は、はづきを助けようとしていたはずなのに、いつの間にかはづきを自分のロボットのようにしてしまっていることに気が付いてはいた。

――でも、仕方がないんだ――

 榎本は、このままはづきが坂田教授の実験台として生きることが、絶対にいけないことだという確信めいたものがあった。それをなくすためには、一時期とは言え、自分の言う通りに行動するロボットとしての扱いも、

――どうしようもないんだ――

 として、自分に言い聞かせるしかなかったのだ。

 はづきの副作用の一つである

――すぐに分かるであろう――

 と思っていたのは、

――はづきが気にして見た人が、一体誰の生まれ変わりなのか――

 というのが分かってしまうことだった。

 ただ、誰の生まれ変わりなのかということが分かったとしても、その誰かが何者なのかが分からない。指摘したとしても、詳しくは言えないので、説得力には欠ける。

 榎本も、最初にはづきに指摘された時は信じようとはしなかった。

「何、バカなことを言っているんだよ」

 と、一蹴したのだった。

 だが、はづきの力が発揮される時、必ず彼女の中にある記憶が薄れた瞬間のことであることが分かるようになると、まんざら偶然で片づけられることではないことに気が付いたのだ。

――これが副作用?

 と思うと、坂田教授の書いてきたメモ帳を再度読み返してみた。

 その中に、

――信じがたいことではあるが――

 という前置きの中で、はづきには自分の中で信憑性に欠けることであっても、一緒にいるだけで、その信憑性が次第に高まってくることが少なくないことを書いていた。

 その内容はボカして書かれていたが、

――読む人――

 である榎本が読めば、分かることだったのだ。

 坂田はメモ帳の中で何度も自問自答を繰り返している。そのたびに自分の考えが確信に近づいていることを感じていた。

――そもそもこのメモ帳は、自問自答を繰り返しながら、自分の考えが確信に近づいていくことを残したいために書いていたのかも知れないな――

 と思うようになった。

――やはり、これがないと、先には進めない――

 と、坂田のメモ帳を見たことを正当化したが、

――長所と短所は紙一重――

 という言葉があるが、メモ帳を見ることが今後のためには不可欠だということは分かっていたが、心のどこかで、

――そんなに都合のいいことばかりではないような気がする――

 という一抹の不安を抱えていた。

 ただ、その不安が大きくなることはなかった。ずっと心の中で燻っているだけだった。だから、メモを見ることを正当化できたのだし、これからの計画を進むしかないと思っていた。

 しかし、不安が大きくならないことが、本当の意味では災いしたのだ。問題意識を持たないことが静かに音も立てずに破滅への道を歩むことになるかも知れないことを、知る由もなかった。

 榎本は坂田教授ばかりを見ていたが、一つのことに集中すると先が見えなくなる性格であることを、その時の榎本は意識していなかった。

――俺は真面目な性格なんだ――

 と思いこむと、その時点で悪い方には考えることがなかったのだ。

 はづきは、平気な顔で、

「あなたは、坂田教授から生まれたんですよ」

 と言った。

「どういうことなんだい?」

「あなたが、坂田教授の子供として生まれたんだけど、すぐに亡くなったの。そして他の家庭の子供として生まれたんだけど、あなたは、自分が生まれる前に、坂田教授に会っているのよね。それが運命だったのかも知れないわ」

 その話を聞いた時、すでに榎本は当時助教授の坂田と、スナック「メモリー」で会っていた。自分と坂田が出会うのは、これから起こる坂田とはづきの間のただのプロローグでしかないはずだった。もちろん、坂田が榎本のことを気にするはずもない。ただ坂田の頭の中に、はづきの登場を匂わせる、

「誰かが生まれたその時間には、必ず誰かが死んでいることになるんですよ。その数っていつも一緒なんですかね?」

 というセリフを印象づけられれば、それだけでよかったはずなのだ。

――それなのに、俺は余計なことをしたというのか?

 はづきの話がどこまで信じられるものなのか分からないが、自分の運命よりも、自分の計画の方が気になってしまうのは、よほど榎本は自分のことに関して、他人事のように感じられるのかも知れない。

 今まで人と関わりが少なかったのは、研究に没頭していたからだと思っていたが、実際は自分のことに対しても、他の人のことに関しても興味がないのだ。自分には人間らしさというものを求めているつもりだったが、結局は人間嫌いの自分を意識させられるだけになってしまったことを認識していた。人間らしさは人間臭さでもあり、それは一番自分に備わっていてほしい部分でありながら、一番毛嫌いしている部分でもある。

――そんな俺が、人から人へ生まれ変わっているなんて――

 一度死んでもまた生まれ変われるのであれば、こんな嬉しいことはないと普通なら思うのだろうが、

――もう、人間として人生なんか繰り返したくない――

 と、榎本は考えている。

――この世に神様なんていないんだ――

 運命の悪戯などという一言で片づけられるものではない。榎本はこの思いをどこにぶつけていいのか、戸惑っている。

 榎本は、はづきのことを助けるつもりでいろいろ計画してきたのだが、そのはづきから衝撃的な内容を聞かされ、まるでミイラ取りがミイラになってしまったような複雑な心境だった。

 普段なら、ここまで神経質になることのない榎本だったが、はづきのこととなると、なぜか気に掛かってしまう。気に掛けることが自分のためになるのか、それとも自分の首を絞めることになるのか分からないが、はづきを黙って見過ごすことだけはできないことに変わりはなかった。

 はづきから離れられないようにしてしまったのは自分なのに、はづきに対して恨みがこみ上げてくる。逆恨みなのは分かっているが、それでもはづきには何も言えず、自分だけで悶々とした精神状態になってしまうことで、今度は自分を恨むことになった。

――恨みというのがどこから来るのか、それまで考えたこともなかったが、相手がはづきであれば、その原点を知りたいと思う。知らない限り、俺ははづきに対しての逆恨みや、自分に対しての悶々とした気持ちから逃れることはできない――

 と、思うようになっていた。

 そう思うようになると、自分の苦しみから逃れたいという思いが捻じれた感情を引き出して、

――何をやってもうまく行かないに違いない――

 と、すべてが悪い方にしか向いて行かないように感じてくる。

 そのことが「鬱状態」であるということに、最初は気付かなかった。何をやってもうまく行かないのは、すべて自分が悪いと思っていたからだ。自分の中にある被害妄想が、他人のせいにすることは、余計に自分を苦しめることになるということを感じさせた。それは他人のためというわけではなく、あくまでも自分のためだった。

――自分のために――

 などという考えは、被害妄想の発想の中ではタブーであった。被害妄想という発想は、すべてにおいて、

――片手落ち――

 の自分を作り上げることに繋がるのだ。

 榎本は、自分がはづきの立場だったら、同じことを言ったかも知れないと思った。冷静になって考えれば、あの時のはづきは有頂天だったように感じた。有頂天であれば、

――自分の思っていることは、他の人も感じることができる――

 と、勝手に思いこんでいた。自分が有頂天なのだから、感覚がマヒしていることに気付かない。自分中心の考えが、まわりに及ぼす影響を分かろうとしなかった。

 それは、自分が言われて初めて気づくことだった。

――はづきのために――

 と思っていたことが、有頂天になっていた自分だけの発想であることに気付かなかったのだ。しかし、

「時すでに遅し」

 狂い始めた歯車を止めることはできなかった。

 しかも、はづきの一言で我に返った榎本は、それまで計画していた考えが、頭の中から飛んでしまっていた。忘れないようにメモしておいたのだが、メモを見ても、自分が何を考えてそのメモを書いたのか覚えていない。

 榎本を取り巻く環境では、記憶を失うことがキーポイントになっている。過去から未来、未来から過去へと繋がる記憶、まるで彷徨っているかのように薄れていく記憶には、その時々で、何を優先させようというのだろう。

 ただ、榎本は記憶というものが薄れていくのを感じていると、逆に意識がしっかりしてくるのを感じた。

 榎本の記憶が薄れていくのは、今に始まったことではない。今までに何度もあったのを覚えている。しかし、そんなことを他人に言えるはずもない。何しろ教授の元で心理学の研究をしている人間が、そう何度も記憶が薄れていくというのも致命的だと思ったからだ。それなのに、坂田教授のメモを見ると、教授も自分の記憶が定期的に薄れてくることがあるのを悩んでいたようだ。

 最初の頃は、薄れいく記憶の歯止めをいかにして立てようかと考えていたが、もがけばもがくほど、自分の思い通りにならないことに気が付いた。

――だったら、自分の思いと反対のことをすればいいんだ――

 と考えるようになった。

 実際に、自分の思いと反対のことができるなどということは難しい。だが、考えているだけで、少しでも自分の思いが何だったか忘れてしまうくらいの戸惑いを感じるというのは、ある意味「ショック療法」のようで、鬱状態に陥った時に、

――やることなすこと、すべてにおいて悪い方にしか向かない――

 のと、同じような発想に至るのだった。

 かつて榎本は、

――自分には、躁鬱症は似合わない――

 と感じていた時期があった。あれは確か高校生の頃だったと思う。元々、友達は少ない方で、知らない人が見れば孤独に見えるのかも知れないが、本人は至って孤独を感じたことなどなかった。それなのに、

「お前はいつも一人で、何を楽しみに生きているんだ?」

 とよく言われたものだった。

 それに対して、言い返す言葉はない。

「俺はこれでいいんだ」

 というだけなのだが、この一言が、きっとまわりから見れば、負け犬の遠吠えのように聞こえるのではないかと思ったからだ。それこそ、被害妄想のようなものではないだろうか。

 榎本は、はづきの「悪気のない言葉」に翻弄されていることを感じていたが、落ち着いてくると、一人で右往左往していた自分がまるで別人のように感じられた。

――これも一つのことに集中すると、まわりが見えなくなる自分の性格によるものなのかも知れないな――

 と感じるようになっていた。

 落ち着いて考えると、はづきの能力、つまり、

――その人が誰の生まれ変わりなのかが分かる――

 ということは、その人の前世が見えるということに繋がっている。

 そして人の前世が見えるということは、記憶の中に潜在している意識が見せるものだという考えも成り立つのではないだろうか。

 榎本もはづきもさらにも教授も、記憶が定期的に薄れていくというのは共通しているところだった。この三人が知り合ったというのは、本当に偶然だと言えるのだろうか?

 少なくとも榎本は、坂田の若い頃に、はづきを近づけるという計画を立て、実際に引き会わせることに成功した。

 その頃ちょうどはづきは記憶が徐々に薄れている途中であり、交通事故に遭うことで、一気に記憶は消えてしまっていたが、本当の記憶は消えたわけではない。それまで持っていた記憶は、榎本がしっかりと退避していたのだ。

 ただ、一度退避した記憶を、完全に失った記憶に戻したことはなかった。薄れた記憶の中に戻したことは今までにあったのだが、記憶が薄れているというのも、感覚的なものだというだけで、さほど本人も大きな意識を持っているわけではなかった。

 ほとんど意識の中で薄れた程度にしか思っていない記憶の中に、元の記憶を戻したとしても、本人にはさほど影響はない。新たに増えた記憶も、薄れた記憶を補った程度では、消えるものではないからだった。

 しかし、完全にと言っていいほどに記憶を失ってしまったはづきに、元あった記憶を戻すということは、失ってから新たに生まれた記憶、つまりは、その時のはづきにとって、

――すべての記憶――

 と言っても過言ではないものにおっかぶせるわけにはいかない。

 もし、そんなことをして、完全におっかぶさればいいのだが、中途半端に記憶が残ったまま、過去の記憶が復元されたことで、

――記憶の矛盾――

 が生じてしまったらどうなるか、榎本はそのことが気になっていた。

 したがって、榎本は敢えて、それまで持っていたはづきの記憶を戻そうとは思わなかった。

――新しい時代、しかも過去に来たのだから、敢えて、未来に残してきた記憶を復元させる必要もないか――

 と、しばらく様子を見ることにした。そのことが今後どのような影響を与えるか未知数だったが、それほど大きな問題として見ていなかったのは事実だった。

 だが、人間には生まれながらに持っている、

――自己治癒――

 という力が存在する。いわゆる

――ケガや病気を治す力――

 であるが、記憶の回復にもこの自己治癒という力が影響していることを、その時の榎本にも、はづきにも分からなかった。もちろん、自己治癒という力がどのようなものなのか、専門外なので詳しくは分からないが、それでも、意識していなかったというのは、大きな落ち度だったことに違いない。

――俺はどこで間違ってしまったのだろう?

 と、いずれ考えるようになるのだが、榎本はこの時に記憶を戻そうとしなかったことが原因の一つであることに、違いはなかった。

 ただ、一つ言えることは、

――はづきは、この時記憶を戻されないことで、それ以降、本来なら生まれるはずではなかった特殊能力を手に入れることになる――

 ということに、まったく気付いていなかったということだ。

 はづきは、自分が気になった人の将来が見えるようになった、それは見たくないことまで見えることであった。最初は、気になった人の未来が見えることを嬉しく思っていたが、見たくないものまで見えてしまうと、今度はそれがどれほどいたたまれないものなのかを思い知るようになり、

――こんなことなら、過去の記憶なんていらない――

 と感じるようになった。

 先のことが見えて辛いのは、今思っていることが過去のことになり、過去のことが募る思いに変わっていくということが分かったからだ。

 この思いが、はづきの中で、定期的に記憶を失わせる思いに繋がり、交通事故に遭うことで、本当に記憶を失ってしまうことに成功したのだ。

 交通事故はもちろん偶然だったのだろう。しかし、潜在意識の中にある、

――記憶を失くしてしまいたい――

 という思いが、交通事故という、一歩間違えれば「死」というものまで見えていたことに繋がってしまうことに結びついていたのだ。

――潜在意識というのは、その人の「死」をも恐れぬ感情を呼び起こすのかも知れない――

 その時のはづきは知らなかったが、特殊能力を手に入れたことで、自分が余計な堂々巡りを繰り返してしまう運命に陥ってしまったのだった。それを思うと、定期的に記憶を失うことや。人の人生が分かってしまうという「副作用」は、何とも言えない皮肉な運命を背負わせることになった。

――過去に戻ってきたことが災いしてしまったのだろうか?

 榎本は、交通事故に遭ったはづきを遠くから見守ることしかできない自分が無力であることを感じていた。そして、はづきの記憶を完全にしてはいけないということの理由を作ったのが自分であると思いこんでいた。その思いに間違いはないのだが、

――見たくないものまでが見えてしまう未来と、消してしまいたい過去――

 この二つを同時に持っているのは、はづきだけではなく、他ならぬ自分であることも分かっていた。はづきがどのように考え行動するか、榎本には大いに参考になることだった。誰に隠すというわけではなかったのに、まわりの誰も榎本の苦悩に気付かなかったのは、榎本がそれだけまわりから意識されていないということであろう。それは、気配を消しているものなのか、それとも何か壁を作っているものなのか、どちらにしても、元は榎本自身である。はづきの苦悩も榎本だけが分かっているだけで他の誰にも分からない。苦悩と孤独の板挟み、セットで考えてみると、案外と組みしやすいものなのかも知れない。はづきも表に出さないだけで、榎本の苦悩を分かっているのかも知れない。そう思うと、若き日の坂田が今の榎本を見てどう感じているのか、次第に気になってくるのだった。

――はづきが自分を前に遠慮もなく、思ったことをそのまま言ったのは、はづきが僕の気持ちを分かってくれているからなのかも知れない――

 いくらオブラートに包んで話をしても、二人は定期的に記憶を失うという意味で、共通した思考の持ち主だった。相手の考えていることは、内容によってはお見通しだったりする。そのことを分かっているので、敢えて思ったことを口にするようにしたのかも知れない。

 記憶というと、普通は過去のものだと思うはずだ。未来の記憶があるなどというのは、誰が考えてもありえない。特に若き日の坂田の時代であれば、

「そんなことを神様が許すはずもない」

 と、もしそんなことが起こりそうなら、矛盾が起こる前に、矛盾を起こそうとする人間を、闇から闇に葬ってしまうという発想になりそうだ。

 はづきの行動が、もしその神様の怒りに触れたのだとすれば、やはりその原因を作ったのは榎本である。

――どうして、僕にではなくはづきなんだ――

 自分の身代りにはづきは交通事故に遭ったのではないかと思うと、後ろめたさが脳裏をよぎる。そして、この時代では、自分がはづきと接することが許されない気がした。幸いなことに、はづきは記憶を失っている。榎本に気付くことはないだろう。

 はづきの記憶が次第に戻りかけているのを感じたのは、それから少ししてからだった。

 はづきは、坂田を恐れているのが分かってきた。それは榎本が危惧していたことであったが、榎本がこの時代にはづきを連れてきたのは、坂田教授がはづきに何かの実験を施そうとしているのに気付いたからだ。

 それが何なのか、坂田教授自体の記憶が完全に失われているので、まったく分からない。ただ、何か洗脳しようとしていた形跡が感じられる。ただ、教授によってはづきは、

「失敗作」

 だったのだ。

 メモ帳をめくっていくうちに、はづきが生まれた時、それは教授の元に来る運命であることを、はづき自身分かって生まれてきたかのような書き方をしている。赤ん坊に分かるはずもないのに、そのことを感じるのは、はづきが相手を見ただけで、その人が誰の生まれ変わりであるかということが分かる特殊能力を持っていることにも関係のあることなのかも知れない。

 だが、教授が失敗作だと思ったのは、ある意味、早とちりだったのかも知れない。

 教授が求めていた力というのが、気になった人の未来が見えるという予知能力であった。ただ、そこにはどうしても、

――見たくないものまでが見えてしまう――

 という副作用が発生し、本当はそのことも含めて研究しなければいけないものを、負の要素から逃げてしまうという後ろ向きの発想になってしまったことが、今回のような事態を招いたのだ。

 何かの研究には副作用という、

――招かざるべき反動――

 が、含まれるのは当然のことであるが、坂田教授は副作用をなるべく抑えた結果を求めていた。

 究極はそれでいいのだが、最初からなくそうという気持ちで進むことで、どうしても無理を押し通そうとしてしまった。確かに、最初から無理だと分かっていることでも、意識しながら解決法を見出すのも一つのやり方だが、それにふさわしい人間というものがあるはずだ。それがその人の「器」であり、坂田教授には、ふさわしくない人間ということで、「器」が足りないレベルで、逃げ出したのだ。これでは、先に進めるはずもない。結局自分の中で「失敗作」として片づけるしかなかったのだ。

 一度「失敗作」としてのレッテルを貼ってしまった坂田教授は、もはやはづきに興味はなかった。しばらく研究から遠ざかり、他人を寄せ付けない雰囲気を醸し出していた。その雰囲気はあたかも学者肌であるが、元々人を寄せ付けない雰囲気に拍車がかかってしまうと、

――鬱状態が永遠に続いてしまうのではないか?

 と感じさせるほどになっていたのだ。

 しかも、神経質で融通の利かない性格は、孤独を呼ぶ。その孤独に慣れている時ほど、坂田のような男は、自分のそばに、従順な女を求めるのだ。

――従順な女一人がいればそれだけでいい――

 研究もさることながら、はづきに求められたのは、

――従順な女――

 としての存在だった。

 坂田がオンナを簡単に実験台にしてしまう神経は、

――自分に従順な女に対しては、何をしてもいいんだ――

 という感覚だった。

 まるで自分のために生まれてきたかのような発想が、はづきの中で、

――その人がどんな人の生まれ変わりなのかが分かる――

 という特殊能力を備える結果になった。

 坂田がいう決して「失敗作」などではない。

 では、なぜ坂田が彼女を「失敗作」と称したのか?

 それは、坂田にとって、もはや彼女が従順な女ではなくなったことがすべてだった。

 彼女は元々自分のことが分からずに彷徨っているところ、教授によって、従順な女に仕立て上げられ、研究の材料にされた。人道的には許されることではないのだろうが、

「研究のため」

 という大義名分があることで、誰も何も言えなかった。実際に、曲がりなりにも彼女は特殊能力を得ることができた。決して「失敗作」などではない。

 しかし、そのために、彼女は自分の記憶を失いかけていた。元々記憶を失った状態で坂田の前に現れたのだが、そこから生まれた短い記憶もまた失おうとしていた。

 榎本は、はづきを過去に送り込み、若き日の坂田に会わせるつもりだった。

 はづきには、今ある坂田教授への記憶を消してしまう必要があったのだが、それが中途半端になってしまった。

 榎本は、はづきから言われた、

――自分が坂田教授の息子として一度は生まれてきた――

 という話を最初こそ信じなかったが、今では信じられるようになっていた。

――ひょっとして、母親ははづきなのでは?

 という発想を抱いたが、すづに打ち消した。しかし、完全に消すことはできなかった。なぜなら、

――そのまま、完全に生まれることがなかったのは、坂田教授と、はづきの間に子供ができるということは許されないことだったのかも知れない――

 と感じたからだ。

 元々、はづきは未来の人間で、榎本が過去に送り込んだのだ。未来の人間と過去の人間の間に子供が生まれる発想は、想像を絶するものであり、理解できるものではなかった。

――生まれてきた子供に意識がないのは、ひょっとして、そのままの意識で育ってしまうことが許されない場合があるからなのかも知れない――

 生まれてきた時に、自分が誰かの生まれ変わりだという意識があり、生まれ変わる前の人間の意識が残っていてはまずいからだという考えが、次第に榎本の中で形になって固まってくるのだった。

 そういう意味でははづきの特殊能力は無理のないことであり、そのことを意識できるかできないかというだけであれば、さほどはづきの特殊能力を、そこまで、

――特殊だ――

 とも言えないのかも知れない。

 だが、榎本の中では、だいぶ発想の範囲内に入ってきたが、ここからが本当に理解するまでに大きな壁があることを、すぐには理解できなかった。

――ここまで分かることができたのだから、はづきに近づけるのも、まもなくのことだろう――

 と思っていたが、なかなか近づくことができなかった。むしろ、

――一進一退を繰り返している――

 つまりは、そこから堂々巡りを繰り返すという地団駄を踏みたくなるような展開に、しばし疲れを感じているのも事実だった。

――見たくないものまで見えてしまう――

 という副作用が生まれたのも、どうしても、榎本に近づけない気持ちがもたらしたものなのかも知れない、

 はづきの方でも榎本が気になる存在になってきたのは事実であり、それが恋心なのかどうかまで、さすがのはづきにも分からなかった。

 榎本のことが気になり始めたというのは、それまであまり感じたことのない不安感が襲ってきたからなのかも知れない。

――記憶を定期的に失っていたのは、ひょっとすると、不安が募りすぎて、無意識のうちにある現実逃避という感情がマヒしてしまったことにより、記憶喪失という究極の現実逃避に至ったのではないだろうか?

 しばらくして、榎本はそう感じるようになっていた。

 自分がはづきのことを気になっているのは、恋心だと思っているが、はづきの方に榎本を気にする何かがあるとすれば、記憶喪失を繰り返すことでの自分に対しての不安や寂しさが、はづきの中にあり、榎本を気にさせるのだと思うようにしている。自分から相手が自分に好意を持っているなどということをおこがましいと考える榎本は、やはり性格的には真面目なのかも知れない。

 榎本もはづきも、この時代にいると不安が募ってはくるが、恐怖を感じることはなかった。

 その恐怖というのがどこから来るのか、それは自分たちが元いた世界の坂田教授だったに違いない。

 この時代にいる若き日の坂田は、自分に従順な誰かを求めるようなことはなかった。

――一体、どこで変わってしまったのだろう?

 榎本は、そう感じたが、次第にそれ以上感じるのを止めた。

――自分を追いつめることになる――

 という思いが頭を過ぎった。それは一つだけではなく二つの意味をなしていた。

 一つは、自分がはづきをこの時代に連れてきたこと。そして、もう一つは自分が一瞬でも坂田の子供として生まれたことの二つだった。一つだけでもその重みに耐えられるかどうか分からないのに、二つ一緒では、どうすることもできない。

――逆に開き直るしかないか――

 としか思えなかったくらいだった。

 はづきはこの時代にやってきて、交通事故に遭った。その時のショックで記憶を失ってしまったと誰もが思っているようだったが、実際にそうなのだろうか?

――ひょっとすれば、まさか……

 と、感じている人間が一人いた。それは榎本である。

 しかし、榎本はその考えを大きく否定しようとしている。

 その一番大きな理由は、他ならぬ坂田のことだった。坂田は、はづきに対して何かの研究を施そうとしている。

 一つははづきの記憶を自分の記憶で埋めてしまいたいという征服感に満ちた考えと、さらには、はづきがなるべく年を取らないようにしたいという思いとがあった。物理的に年を取らないのは無理だとしても、自分がまわりから遮断して一人で抱えていくことで、余計な心配や気苦労冴え与えなければ、年を取ることはないという考えであった。はづきに対して従順な女性を作り上げようという考えは、その当初の目的からの派生であったのだが、そのことをどこまで自分に言い聞かせるかということも、坂田の中では大きな問題だったのだ。はづきの中に過去と未来の記憶が存在し、その中で幾人もの人たちの暗躍が渦巻いている。はづきは渦中の人ではあったが、あくまでも被害者。榎本や坂田。それぞれの時代の自分たちがいかに暗躍するかが、今後の運命に大きな影響を与えるのだ。

――先に動くのは、一体誰なのだろう?

 誰もがそう思い、自分ではないようにしようと、牽制していたのだった……。

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