矛盾への浄化
森本 晃次
第1話 記憶の喪失
「誰かが生まれたその時間には、必ず誰かが死んでいることになるんですよ。その数っていつも一緒なんですかね?」
そんなことを話している人を見かけたことがあった。あれは最近一人で入ったスナックで見かけた人だった。あまりアルコールが強くない坂田助教授が、初めて一人で入ったスナックだった。その少し前に助教授になり、まわりの人がお祝いをしてくれたが、一人ゆっくりと祝いたいという気持ちもあり、隠れ家のような店で一人祝賀の気分に浸りたいという思いだった。
一度落ち着きたいという思いがどこから来るのか分からなかったが、何か一抹の寂しさを感じていたのだった。
そこで出会った人が話していたのだが、彼は誰に話すともなく話をしていたので、坂田助教授も聞いていないふりをして、耳を傾けていた。その人は決して自分から人に話しかけようとはしなかった。
と言っても、その日スナックにいたのは二人だけで、女の子が二人に話をさせようという努力があって、初めて二人が相対することになった。
話をしてみれば、お互いに気さくな感じで、
「初めて会ったような気がしませんな」
と、坂田助教授が言うと、相手は一瞬ドキッとした素振りを見せたが、普段あまり呑まない坂田は、そのことに気付かなかった。
名前を確認したわけではない。初めてきた店で、これからもまた来ようとも思わなかったので、その日限りの出会いだと思っていたので、それからしばらく思い出すこともなかった。
だが、そのスナックにはそれから何度か行くようになり、常連にもなった。ただ、常連になるきっかけには、その時出会った男性が関わっているわけではなかった。その店を常連にするようになったのは、本当に偶然だったのだ。
ある日、大学から駅までの道のりを歩いている時、後ろから声を掛けてきた女の子がいて、よく見るとその娘とは、どこかで会ったことがあるような気がしていた。そのことを彼女に問うと、
「目立たないかも知れませんが、私は先生のゼミを選択しているんですよ」
助教授になって、やっと持てたゼミの授業。本当ならゼミ生の顔と名前くらい覚えておかなければいけないのに、なぜか覚えられなかった。坂田の専攻は心理学で、その中でも、人間が持っている意識や記憶というものについて研究していた。その二つがいかにどこで結びついていることで、どのような結果をもたらすかなどの研究であった。
坂田が彼女の顔を覚えていないというのは、印象が浅かったからではない。それなのになぜか顔だけを覚えていなかったのだ。
――顔と雰囲気が一致しないからかな?
彼女のことを思い出そうとすると、授業中のイメージがいつも違ったような気がする。まわりが暗く感じられるほど目立って見えていたこともあれば、まわりの雰囲気に飲まれるかのように、印象がまったく感じられないこともあった。
――本人は、意識していないんだろうな――
と坂田は感じていたが、彼女に声を掛けられた時は、彼女がそれなりに自分の気持ちに正直になっているのだと思った。
――では、彼女の気持ちとはどこにあるのか?
坂田は心理学を研究している割には、女心には疎いところがあると思っている。女心というのは男性から見て神秘的なものであり、場合によっては、侵してはならない神聖なものだという認識を持っている。彼女がほしいという思いは男性としてもちろんあるのだが、一男性として冷静に見るには、
――彼女がいない方がいい――
と考えることもあった。
彼女というよりも、女性をどこか実験台のような目で見ている自分に気が付き、急にハッとしてしまうことも今までにあった。助教授になって嬉しいという思いがある中で、一抹の寂しさを感じていた理由が、女性に対しての自分の目が、さらに心理学という意識を強くして、冷静な目で見つめるような立場に追いやったことであることで、隠れ家のような場所を欲するようになったのだ。
道で声を掛けてきた女性、厳密には自分の生徒であるのだが、同じ冷静な目で見るとしても、生徒として見ているわけではなかった。
かといって、彼女という雰囲気でもない。彼女を持ちたいと思えば、もう少し自分の気持ちの中でテンションが上がってくるものなのだろうが、そんな雰囲気を自分の中で感じることはなかった。
自分の生徒でありながら、印象が浅いのは、彼女が最初からいたという意識が弱いからだった。最初の頃は助教授になったことで最初に受け持つゼミなので、生徒の顔を覚えようという意識があるからだ。もっとも、坂田はあまり人の顔を覚えるのは得意ではない。意識して覚えようとすればするほど、なかなか覚えられないものだった。
性格的には神経質なところがあり、思いこむと他のことが目に入らなくなったりすることのあるのが、坂田の性格だった。彼女の印象が浅かった分、道でバッタリ出会ったことで瞬間的なインパクトは、それまでを補って余りあるほどの効果をもたらしたようだ。
声を掛けられて、坂田は彼女を「隠れ家」にしていたスナックに誘った。最初、積極的に話しかけてきた割には、次第にテンションが下がってきていた。
「君は、僕のゼミに最初からいなかったような気がするんだけど、どうしてそう思うんだろうね」
「そんなことはないですよ。それだけ印象が浅かったんでしょうね。いつも目立たないようにしていたような気がします」
「まるで気配を消していたような感じなのかな?」
「そうかも知れませんね。私はあまり人と関わりたくないと思っている方なので、友達もほとんどいません」
「でも、今日は僕に話しかけてくれたのは、何か心境の変化があったのかな?」
「先生に聞いてみたいことがあったんですよ」
「それはどういうことなのかな?」
「最近になってからのことなんですけど、誰かと知り合った時、その人がどんな人の生まれ変わりなのかが分かるような気がしてきたんです」
「それはすごい能力ですね。でも、最近になっていきなりそんな能力を得たような感じなんですか?」
「そうですね。でも、そのおかげで私は、そのことが分かるようになる前の記憶が徐々に薄れていって、最近ではほとんど覚えていないようになったんです。記憶喪失ということなんでしょうか?」
「記憶喪失というと、何か衝撃的な出来事を経験したり、頭に直接衝撃を受けたりした時になるものなんでしょうけど、徐々にというのは、あまりイメージがないですね。もしそれが本当のことであれば、興味深いことです」
というと、彼女は少し寂しそうな表情になった。
「ごめんなさい。興味深いなんて不謹慎でしたね。あなたの気持ちもわきまえず、失礼な言い方をしました」
恐縮しながら坂田が言うと、
「いいんです。私も自分の記憶が失せていくのは、何かの原因があるというのは分かる気がするんですが、それが、他人を見て、その人がどんな人の生まれ変わりなのか分かるようになったことと関係があるのだと思えば、逆に何も分からないよりも、いいのかなって感じるようになりました」
「それで僕にいろいろ聞いてみたいと思ったわけですね?」
「ええ、そうなんです。私はどこから来て、今どうしてここにいるのかということすら、そのうちに分からなくなりそうに思うんです」
坂田は、彼女の話を聞きながら、自分が不思議な世界の入り口に立っているような錯覚に陥っていた。
――今までにこんな女性に出会ったことはない――
坂田はそう思いながら、いつの間にか彼女のペースに巻き込まれているのを感じていた。自分が人の顔を覚えられないだけではなく、忘れっぽい性格であることを今さらながらに思い知らされたのは、この時だったのかも知れない。
彼女は名前を河村はづきと言った。確かに自分のゼミの生徒に河村はづきという名前の生徒がいることを意識はしていた。人の顔を覚えられないということは、名前と顔が一致しないということでもあるのだが、名前ばかりを先に覚えてしまったことで、余計に名前と顔が一致しない状況に陥りやすくなっていたようだ。
坂田は、すぐに不安を感じてしまう方で、何かを考え始めると、得てして悪い方に考えてしまうことが多かった。その傾向は年齢を重ねるごとに深まっていくような気がする。
――先が見えているような気がしているのかな?
不安に感じるというのは、先が見えないことに対して感じることだと思っていたが、先が見えないことと、見えてしまったこととが両極端なのではないかと思うようになった。しかも、その二つは背中合わせになっているように思えて、得体の知れない思いが、頭を巡っていたのだ。
覚えられないという性格は、先が見えていることでも、見えていないような錯覚をもたらすことになると感じていた。もう一つ言えば、
――必要以上に考えすぎてしまうことが、余計なことを考えさせ、頭に混乱をもたらしている――
その思いが坂田を、瞑想させることになり、心理学を専攻することに結びついていた。
やってみれば、研究はやりがいがあった。自分が求めているものが見つかりそうな気がしていたが、なかなか見えてこない。
研究すればするほど奥が深いと思えることほど、やりがいは増すものである。コツコツと自分のペースで研究ができるのも、ありがたかった。
今年三十歳になる坂田は、気が付けば研究だけに熱中していて、人との関わりを自分で否定する毎日を過ごしていた。悪いことだとは思っていないが、たまに急に寂しさがこみ上げてくることがあった。
――隠れ家のような常連になれる店があればいいな――
と思いながら、なかなかそんな店は見つからなかった。自分の考えを少し変えれば、隠れ家になるような店はいつでも見つかるのだろうが、見つからなかったということは、それだけ坂田にこだわりのようなものがあったに違いない。
坂田が隠れ家のようなスナック常連になるきっかけになったのは、はづきを連れていってからだった。そのスナックは名前を「メモリー」と言った。ありきたりの名前にも思えたが、
――誰もが思いつきそうで誰もつけない名前を付けたということなんだろうか?
と勝手に想像していた。確かにインパクトには欠けるかも知れないが、覚えやすい名前である。
「喫茶店でもいいような名前ですね」
と店の女の子に訊ねると、
「昼間は喫茶店もしているようですよ」
という答えが返ってきた。
なるほど、喫茶店としても、隠れ家として利用できそうだった。
「今度、昼間も来てみたいな」
「ぜひに」
軽い会話の中で、昼の雰囲気を想像してみたが、隠れ家としてのイメージは湧くが、喫茶店というイメージとは少し違っていた。夜の店も、昼の喫茶店の雰囲気を知っている人から見れば、想像できるものではないに違いない。
はづきと何度かこの店に一緒に来たが、はづきにこの店が昼は喫茶店をやっているという話をすると、
「私は何度か昼間も来たことがあるんですよ」
と答えた。
坂田にとっては意外な答えだった。
「もちろん、僕と最初に来てからのことだよね?」
「ええ、そうですよ。昼間、このあたりにくることが時々あったんですが、坂田さんとご一緒するまで、この店を知らなかったんです。でも、ある日前を通りかかったら、看板が出ていたので、昼間もやっていることをその時知ったんですよ」
と答えた。
はづきは、最初こそ坂田のことを、
「坂田助教授」
と呼んでいたが、二回目に「メモリー」に一緒に来た時くらいから、
「坂田さん」
と呼ぶようになっていた。
坂田は二人の距離が一気に縮まったような気がしていたが、はづきはなかなか自分のことを話そうとしない。聞くに忍びないと思った坂田は何も聞かなかったが、その時徐々にはづきは自分のことを忘れていっているようだったのだ。
「はづきが交通事故に遭って入院した」
という話を坂田が聞いたのは、事故に遭った次の日のことだった。命に別状はないということだったが、坂田は講義が終わってすぐに、病院に駆け付けた。病室には一人はづきが寝ていて、じっと天井を見つめていた。部屋は二人部屋だったが、もう一人はちょうど診察に出ていたようで、部屋にいたのははづき一人だった。
坂田は、部屋に入ろうとして、思いとどまった。天井を見つめているはづきの顔は、横から見ていても、どこか異様で、ただ、
――この表情、どこかで見たことがある――
と感じたのだが、それがはづきのものではないことに、その時は気付かなかった。どこかで見たことがあるというのは、その人の顔ではなく、表情や見つめる目の焦点など、様子に関わることだったのだ。
誰かのお見舞いで病院を訪れるのは久しぶりだった。薬品の臭いが鼻につき、思わず吐き気を催してしまいそうだった。
しばらく表からはづきを見ていたが、まったく気付く気配のない様子に、違和感を感じていると、最初は天井を見つめていた顔がいつの間にか窓の外を見ていることに気が付いた。顔を見ていたはずなのに、どうしてすぐに気付かなかったのか不思議だった。ただ、表を見つめているということは、こちらから顔は見えないはずなのに、どんな表情をしているのか分かってくるような気がしていることで、すぐに気付かなかったのではないだろうか。
はづきの目は、完全に虚空を見つめていた。
――本当に記憶を失くしてしまったのかも知れない――
最近、徐々に記憶が薄れて行っているという話を聞いたばかりなので、完全に記憶を失ったと言われたとしても、さほどビックリはしない。むしろ、さっぱりとなくなったと言われた方が、スッキリするくらいである。
坂田の想像は当たっていた。
「彼女、完全に記憶を失っているらしいわよ」
聞き耳を立てていたわけではないのに、聞こえてきた看護婦の話に、彼女というのがはづきだということはすぐに分かった。まるで坂田に聞こえるように話しているかのように感じたのは気のせいなのかも知れないが、看護婦のほとんどが、はづきに知り合いはいないと思っていたようで、無神経な会話も、誰に聞かれても他人事だと思っていたからなのかも知れない。
坂田がナースステーションで、
「河村はづきさんの病室はどちらですか?」
と訊ねた時、坂田の手に持たれた花束に、視線が釘付けになった理由も分からなくもない。きっとはづきを見舞う人、特に男性がいるとは思えなかったからだろう。もし、そんな人がいるなら、昨日のうちに誰か一人でも来ているはずだと思ったからだ。何よりも家族が誰も来ていないということは、記憶を失ったはづき自身が分からないのであれば、病院側も連絡の取りようがないというものだ。
ただ、実際には彼女の身元はすぐに分かった。事故に遭った時、持っていたカバンから学生証が見つかったからだ。そうでなければ、病院側が彼女の名前を分かるはずもない。少なくとも昨日のうちに家族には連絡が行っているはずだからである。
家族以外だと微妙である。
もし、彼氏がいたとして、家族が彼氏の存在を知っていたとしても、まず最初に状況を知るために、家族だけで面会しようと思うのではないだろうか。
看護婦たちがそんなことを分からないとは思えない。数日経って、誰も見舞いに来ないのであれば、看護婦たちの考えも分からなくもないが、翌日にはすでに誰も来ないと考えている。
ということは、彼女たちの中で、はづきに対して、
――この人に彼氏はいない――
と思わせる何かがあったに違いない。
確かに記憶を失っていれば、挙動不審にもなるだろうが、だからと言って普通なら聞かれては困るような話を平気でできるというのは、おかしなことであった。
それでも、さすがにナースステーションに声を掛けずに面会するというのはルール違反になる。声を掛けた時に露骨な視線を感じたが、それも坂田の意識過剰なところが招いたことなのかも知れない。
だが、その理由もすぐに分かることになる。はづきは挙動不審というよりも、言動に問題があった。元々坂田ははづきから、
「最近になってからのことなんですけど、誰かと知り合った時、その人がどんな人の生まれ変わりなのかが分かるような気がしてきたんです」
という話を聞かされていたので、ビックリはしなかったが、どうやらはづきは交通事故のショックから、不思議なことを口走る女性だという話が、ナースの間で広がっていたようだった。
そこに至るまでに、はづきの記憶が徐々に薄れてきていたことを、他の人は知らない。いきなり交通事故に遭って、記憶がなくなってしまったのだと思っているのだろう。誰から聞いたわけでもないが、先ほどの虚空を見つめるはづきの目を見れば、記憶を失ってしまったことに間違いないという思いが確証に変わったのだ。
目が泳いでいるとはよく言ったもので、最初は天井を見ていたはずの顔が、途中から窓の外を見ているということに気付かなかったのは、じっと視線を逸らさずに見つめていたことで、見つめる感覚がマヒしてしまったからなのかも知れない。それだけ真剣に見つめてしまうほど、その時のはづきの様子は変だったに違いない。
坂田が病院に来て見るはづきは、ずっと一緒にいた人からすれば、だいぶ正常に戻りつつある姿に見えているのに、事故後初めて見るはづきに、坂田は最初から戸惑っていたのだ。
「こんにちは」
声を掛けると、はづきはキョトンとした表情で、坂田を見つめる。やはり坂田のことが分からないようだ。それでも、すぐに二コリと微笑んだ表情は、今まで見せたことのないほどあどけないもので、思わず、
――従順だ――
と思いこんでしまったことが、いずれはづきを研究することになる最初のきっかけだったことになろうとは、その時は思ってもみなかった。
「はづきさん?」
と名前を聞いても、まだキョトンとしている。昨日までなら、
「坂田さん」
と、返事を返してくれる光景が思い浮かんでいたのだが、最初に声を掛けた時、彼女から自分の名前を呼ばれる雰囲気をまったく感じなかった。まるで別人になったかのようだった。
これ以上話をしても、自分が期待しているような表情をしてくれることはないと思いながらも、少しずつ話をしてみる。
「そうなんですか? 大学の助教授なんですね」
「ええ、あなたは、私のゼミの生徒なんですよ」
考えてみれば、坂田は彼女のことをほとんど知らなかった。
今まで女性とほとんど付き合ったことのない教授にとって、はづきが眩しく見えたのも事実だ。三十歳になるまで彼女がいなかったのは、研究熱心だったというよりも、どちらかというと人間嫌いなところがあったからだった。人間嫌いなところがあるから、研究に没頭していたと言ってもいい。なぜ自分が人間嫌いなのか、あまり考えてみたこともなかった。
坂田は神経質な性格で、まわりに人を寄せ付けることはなかった。神経質な性格で、しかも潔癖症である。正義について考えたことはないが、無意識に考えていたようで、その正義に種類があるわけではなく、一つに凝り固まってしまっていた。そんな融通の利かない性格は人から好かれるわけもなく、人が寄ってくるはずもない。それでいいと思っている坂田は、
「僕は僕なんだ」
と、自分の殻に閉じこもってしまう。
そんな坂田が、「隠れ家」のような店を求めていたのは、殻に閉じこもった自分を開放できる場所がほしかったからだ。今までにいくつかの店に立ち寄ってみたが、自分が納得できるような店はなかなか見つからなかった。坂田が求めるような店にはたいてい常連客というものがいて、その人たちがお互いに孤立したような雰囲気の店というのはなかなか見つからない。常連同士仲がいいのは悪いことではないが、会話をしているのを聞いていて、いつもどこかに違和感を感じていた。それは、いつも同じような話にしかならないからだ。別にしたい会話があるわけではなく、形式的に会話をしているだけなので、いつも同じ会話にしかならない。
――それなら、会話なんかしなければいいんだ――
と思ったが、そう思ってしまうと、その店には次から来ようとは思わなくなる。「隠れ家」にできそうな店では、常連であっても、余裕を持って自分の世界を堪能でき、相手から話しかけてみたいというオーラを自分が醸し出せるような店を探したかった。自分から出すオーラではあるが、意識していないところがポイントである。それだけに、そんな店がなかなかあるとは思えなかった。
探している時はなかなか見つからないが、忘れた頃に、
――こんな店なんだ――
と思えるようなところが得てして見つかるものだ。
それは偶然でありながら、ただの偶然ではない。もし引き寄せたとするならば、
「誰かが生まれたその時間には、必ず誰かが死んでいることになるんですよ。その数っていつも一緒なんですかね?」
と言っていた人がきっかけになったのかも知れない。
今さらどんな人だったのかというのを覚えているわけではないが、日が経つにつれてその人のことが気に掛かっていた。
最初は彼のセリフだけが気になっていたのだが、今から思えば、
――もう少し、その人のことを気にしておけばよかった――
と思った。
元々人の顔を覚えるのが苦手だったこともあり、もし、今その人がスナック「メモリー」に顔を出して、隣に座ったとしても、坂田には分かりっこないと思われた。
――きっかけというのは、そういうものなのかも知れないな――
坂田にとってスナック「メモリー」は、研究所を離れてからの自分を、顧みることができる唯一の場所に思えていた。
坂田は、後から聞いた話で、はづきの意識が朦朧としている時、
「その人がどんな人の生まれ変わりなのかが分かる」
ということを口走っていたのだと、担当ナースから聞かされた。
その時には、すっかり元気になったはづきもそばにいたのだが、
「私がそんなことを言ったの?」
と、口走った言葉に対して、疑問を抱いていた。
坂田は、そんなはづきに
――無理もないことだ――
と思ったが、覚えていなかったことにホッとした気分になったのも事実だった。中途半端に記憶が戻ってしまうと、苦しいのは本人だということを分かっているからだった。自然に戻ってくる記憶ならいいのだが、まわりから聞かされて、思い出せない自分に苦しむことは、想像以上のものであるに違いない。
坂田は、入院中のはづきを毎日のように見舞った。時間的には毎日三十分ほどのものだったが、それは、はづきとどう向き合っていいのか分からずに戸惑っていたからだ。中途半端に思える時間も、適度な暖かさに包まれたのか、お互いに戸惑っていた空気を最初に払拭したのは、はづきの方だった。
――重苦しい空気を払拭させるのは、女性の方が得意なのかも知れない――
と坂田は感じた。
そんなはづきを見ていると、戸惑っていながら硬かった表情も次第にほぐれてきたのか、お互いに笑顔を見せるようになると、まわりもホッとしていたようだ。坂田が来た時は入ってこなかった担当ナースも、坂田がいても気にならなくなったようで、二人に気軽に声を掛けてくるようになった。
「だいぶ落ち着いてこられたので、退院も近いかも知れませんね」
ケガの具合もさることながら、精神的な要素の強さから、入院が続いていた。記憶は相変わらず戻っていないが、笑顔を見せることで、何かが吹っ切れたのではないかというのが病院側の見解だった。
はづきは自分の部屋に戻って一人になった。
記憶があった頃とは違って、部屋に帰ってきても、知らない部屋に入ったのと同じことなので、一人には慣れているはずであっても、寂しさという意味では、以前とはかなり違っているものであろう。以前から一人を寂しいと思っていたのかどうかすら、記憶を失った今では分からない。もし、一人を寂しいと思っていなかったとすれば、一人でいることで部屋にも馴染んでくるのであろうが、寂しいと思っていたのであれば、闇が果てしなく続くような言い知れぬ不安がいつまで続くというのだろう。そう思うと、自分のことが分からないということがどういうことなのか、少しずつ分かってくるのだった。
病院にいても一人に変わりなかったが、看護婦が見ていてくれると思うだけで、それほど不安ではなかった。しかし、退院して一人になると、本当に一人なのだ。誰に何を伝えればいいのか、孤独が恐怖に変わっていった。
――坂田助教授を訪ねてみようかしら?
「いつでも連絡をくれればいいからね」
と坂田が言ってくれたのを思い出した。
「もしもし、私、河村です」
電話とはいえ、記憶を失っている自分の名前を言うのは抵抗があった。
「ああ、さっそく連絡をくれたんだね? 嬉しいよ。退院して一人になってどうだい? やっぱり何も思い出せないかな?」
退院してから坂田は部屋の前まで送ってきてはくれたが、彼ははづきの部屋に上がろうとはしなかった。
「私は、この部屋に入ったことはないからね」
というのが理由だった。
記憶を失っているのをいいことに、今まで上がったことのない部屋に上がるということもできたであろう。入ったことがないということを隠していればいいだけのことだからである。
しかし、それをしなかったということは、一つには、
――はづきが部屋に入った瞬間、記憶を取り戻すかも知れない――
という考えがあったからである。
記憶が戻って来れば、ウソもバレてしまう。しようとしていることが男として恥ずべき浅ましいことだというのを分かっている坂田だけに、余計に記憶が戻る可能性を考えたのかも知れない。限りなく可能性は低いとしても、リスクであることには変わりない。そう思うと、ウソまでつく理由がないということなのだろう。
もう一つは、はづきのことを考えてのことだろう。
一人で部屋にいることで、孤独を感じる。もし、はづきが言い知れぬ不安に駆られたとすれば、そこから急に記憶が戻ってくるかも知れないと思ったからだ。ある意味では荒治療になるのだろうが、自然であることに違いはない。
――はづきもいずれは一人になる時間が訪れる――
早い方がいいのか、遅い方がいいのか分からないが、一人で部屋にいるという時間は必要である。気を利かせたと言えばいいのか。ただ、それが諸刃の剣であることも分かっていた。だからこそ、
「いつでも連絡してくれていいんだからね」
と言っておいたのだ。
一度でも一人になる時間があり、孤独に苛まれたとすれば、それがどんなに短い時間であっても、本人にとっては辛いことである。はづきの性格からすれば、なるべく連絡をしないように我慢しようと思うに違いないが、それでも連絡をくれたということは、実際に孤独を感じ、それでも助けを求めたいと思った時であろう。
――その時こそ、自分が力を貸す時だ――
と、坂田は感じていた。
そんな時、はづきからさっそく連絡があった。坂田の気持ちとしては複雑だった。
――早めに連絡をくれたというのは、頼ってくれているということで嬉しい限りではあるが、自分が彼女を一人にしたために、やはり孤独に苛まれる道を選ばせてしまったということに対して罪悪感を感じる――
と、思っていたのだ。
「あの、よろしければ私のお部屋に来ていただけませんか?」
まだ夕方だったので、今から行けば日没までには行けるだろう。日が暮れてから、彼女を一人にさせたくないという思いが、坂田の頭を過ぎったのだ。
「分かりました。今から伺います」
大学から彼女の部屋までは十五分ほどである。通学には問題のない距離だが、あまり大学に近いと学生アパートの雰囲気が強く、他の部屋の住民も同じ大学に通っている人ということになる。そういう意味では彼女の住んでいるマンションは結構大きく、オートロックもついていて、学生が住むには少し贅沢ではないかと思うほどだったが、それだけに孤独というのが裏側に潜んでいて、敢えて彼女がこの部屋を選んだということは、ひょっとすると、記憶を失う前の彼女は、さほど孤独を怖いと感じないタイプだったのかも知れない。
――僕の考えが少し違っているのかも知れないな――
と、彼女の部屋に向かいながら考えていたが、部屋のインターホンを押して、彼女の声を聞いた時、あまり余計なことを考える必要はないのかも知れないと感じていた。
「はい、どうぞ。お入りください」
その声は落ち着き払って聞こえ、最初はその落ち着きを、
――恐怖から来るものだ――
と思ったが、部屋の扉を開けた時に見せた彼女の顔を見た時、
――やっぱり落ち着いている――
と感じた。
坂田には、最初から落ち着きがあったのか、それとも後から落ち着きを取り戻したのか分からなかったが、落ち着いている表情を見た時、
――何かが吹っ切れたのかも知れない――
と思うようになった。
初めて入った女性の一人暮らしの部屋。女性とほとんど付き合ったことのなかった坂田には、本当なら眩しいものだったのかも知れない。しかし、目の前に広がっている部屋は、想像していた女の子の一人暮らしとは違い、質素に感じられた。どうしても、女の子の一人暮らしの部屋というと、ドラマで見た部屋をイメージしてしまうのと、実際に入ったことがないということで、過剰に想像してしまうのも無理のないことだった。そういう意味では第一印象が質素に感じられただけで、慣れてくると、
――こんなものだな――
と感じるようになったのも事実である。
質素だと思ったことに、坂田自身、違和感があった。それは、
――男性の匂いが感じられないだろうか?
という思いがあったからだ。
そう思って部屋を観察した。
「男性をこの部屋に上げたことはないような気がします」
坂田の気持ちを察したのか、言い訳にも聞こえるようにはづきが答えた。
――勘が鋭いんだな――
と思ったが、それは盲目のコウモリの聴覚が発達しているように、記憶を失ったことが意識の中に、
――感覚の鋭さ――
を植え付けたのかも知れない。
コウモリの場合は、本能によるものであって、それは防衛本能と呼ばれるものから来るものであろう。はづきの場合も感覚に鋭さが加わったのだとすれば、そこに防衛本能が働いていると考えるのが自然である。
「私、このお部屋に帰ってきて、最初に感じたのは、部屋の狭さだったんです」
はづきはきっと自分の心境について話をしたいのだろうと思っていたところに、部屋の広さについて語っているのは意外に感じられた。そして、話をしている表情にはかなりの落ち着きがあることから、彼女が坂田を呼んだのは、孤独に耐えられないからではないことに気が付いた。本当に最初は孤独に苛まれたのかも知れないが、すぐに落ち着きを取り戻したのに違いない。
そういえば、心理学の世界でも、部屋の広さをどう感じるかということを研究している人もいると聞いたことがあった。目の前に見えていることが心の中でどのように写っているか、それが研究の対象だったのだろう。
「部屋が狭いと思うということは、きっとかなり過去に見た記憶を紐解いているのかも知れないね」
記憶喪失の人には、いくつかの種類があるだろう。近い過去のことは完全に忘れているが、遠い過去の記憶はどこかに残っている場合。完全に過去の記憶が消されている場合。最近の記憶は残っているが、一年くらい前からの記憶がまったくない場合。
一番最後のケースでは、本人は記憶喪失という意識はないかも知れない。ただ、
「忘れっぽいだけだ」
と思っているとしても、無理のないことだった。
ただ、自分の部屋を狭く感じられるということは、最初のケースが考えられるのかも知れない。同じものを見るのでも、過去になればなるほど、狭く感じられるものだからである。部屋が小さく感じたということは、その記憶が子供の頃のものだということになり、子供の頃に感じた孤独が一人になった時、よみがえってきたのかも知れない。
――いずれ、彼女の記憶はよみがえるということだろうか?
五分五分だった思いから、記憶がよみがえる方に傾いたのは、その時が最初だった。そう思うと、坂田は是が非でも自分の研究に役立てたいと思うようになっていた。
坂田はその日、午後八時近くまではづきの部屋にいた。コーヒーを入れてくれたはづきに、
「寂しいから、もう少しだけ一緒にいてください」
と言われては、すぐに帰るわけにもいかなかった。もっとも呼び出されてすぐに帰ったのでは、何のためにきたのか分からないというものだ。寂しい思いをしている人に助けを求められたのだから、寂しさを解消してあげるのが最低限の一番の仕事だった。
それでも、さすがに疲れたのか、
「ごめんなさい。私、とても眠くなってしまったわ。寂しいと言っておきながら、何と言ってお詫びを言えばいいか……」
見ていても、憔悴しているのが分かっていた。顔色も表情も冴えなくなってきているし、ここは男として気を遣ってあげなければいけないところである。
「いや、いいんだよ。僕もそろそろお暇しなければいけないと思っていたところだからね」
本当にそうは思っていなかったが、時間的にも確かにちょうどいいかも知れない。ただ、坂田はどこか物足りなさを感じ、このまま帰途につく気はなかった。そこで、スナック「メモリー」に顔を出してみることにした。
スナック「メモリー」には久しぶりに顔を出すことになる。最初にはづきと一緒に行ってから、数回しか行っていなかった。特に最近はご無沙汰で、二週間ぶりくらいになるであろうか。
店に入ると、先客が一人いるだけだった。
――どこかで見たことがある――
と思っていたが、最初に来た時にいた客のように思えた。常連になってからほとんど見かけたことのなかった人だったが、久しぶりに来るといるというのは、まるで自分を避けていたのではないかと邪推してしまうほどだった。
気にはなったが、無理に話しかける相手ではないと思っていたので、同じカウンターでも、ずっと離れた場所に腰かけて、一人でチビチビやっていると、
「坂田助教授さんですよね?」
と、相手の方から話しかけてきた。こちらが話しかけようとしないと、相手も同じようにこちらを無視しているように感じたが、ひょっとすると、声を掛ける機会を伺っていたのかも知れない。
「はい、そうですが、私のことをご存じなんですか?」
「ええ、こちらのお店の方から伺いました。常連さんでいらっしゃるということでしたが、心理学をご専攻とか?」
「はい、大学で研究しています」
「実は私も心理学には少し興味がありまして、大学時代には心理学を専攻しておりました」
彼は、まだ二十代前半であろうか。大学生と言っても通じるくらいであるが、よく見ると、坂田よりも年上に見える時がある。人の年齢というのは分かりにくいものだが、彼はその時々の表情によって、感じる年齢が違って見えてくるようだ。
「心理学は面白いですか?」
「面白いですね。知れば知るほどもっと奥を知りたくなる。そんな学問だと思います。しかも、全然違うことだと思うようなことも、何かのきっかけで急に結びついたりするんですから、それを発見した時、これ以上楽しいことってないなって思ったりもしますよ」
「その考えには僕も同調しますね。正直、その思いがあるから、大学で研究していると言っても過言ではありません」
「それに、心理学は他の学問や、色々な現象と結びついてまったく違った顔を見せることもありますからね。そのあたりも僕は面白いと思いました」
「ほう」
彼はなかなか考えていると思った。坂田も、そういえば自分が心理学を志した時、彼と同じような思いを抱いていたのを思い出した。あれはまだ高校に入学した頃だっただろうか。何がきっかけだったのか覚えていないが、
――きっかけなんて、案外と小さなことだったりするのかも知れないな――
覚えていないということは、その時はきっかけだったという意識があったわけではないのだろう。ただ、興味を持った時、
――確かに何かのきっかけがあったような気がする――
と感じたのを思い出していた。
「ところで先生はタイムマシンの存在を信じますか?」
彼はそうサラリと言った。
「僕は信じないな」
というと、彼は意外そうな顔をして、
「えっ、そうなんですか? 先生なら一番信じているような気がしたんですけど」
「ん? 何か不都合でも?」
坂田はニヤリと笑顔を浮かべ、問いただした。
「いえ、そんなことはないんですが、私は信じているんですよ。タイムマシンというのは、使い方を間違えれば未来や過去に重大な禍根を残すものとなるのは十分に分かっているつもりなんですけど、正しく使えば、これはこれで使い道はある。逆に正しく使うことで、間違って進みかけている歴史を正しくできるのかも知れない。そう思うと、私は逆にタイムマシンの存在を信じるようになりました」
「それは、目の前で急に歴史の矛盾でも発見したということかね?」
「私はそう思っています。冷静に考えれば結末は違っていたと思うことが今までにはいくつかありました。人間は、歴史というものが真っ直ぐに繋がっていると信じて疑わないですよね。だから、少々の矛盾があっても、そこはスル―してしまう。でも、私はそこに疑問を感じ、矛盾を矛盾として受け止めることにした。そう思うと、歴史をどこかで操作している見えない力がどこかに存在していると思ったんです。それを証明することは難しい。でも、タイムマシンの存在を否定しなければ、歴史を操作している見えない力の存在を証明できないまでも、説明することができると思ったんですよ。過去や未来を行き来している人がいる。そしてその人が大なり小なり歴史に影響を与えている。ただ、それを私は悪いことだと思わない。悪いことだとすれば、歴史に矛盾が生じても、何ら変わりなく歴史は進んでいるんですよ。そう思うと、タイムマシンを否定して、歴史の流れを一つだと思うことほど一つの考えに凝り固まった発想だとして受け入れることができなくなってきました」
彼の発想は留まるところを知らないような気がした。しかし、彼はそれ以上語ろうとしない。
――ここまで語れば、後はどうにでも発想はついてくる――
と思っているに違いないと感じたからだ。
「確かに、あなたの発想は実に興味深い。しかし、それを現実と照らし合わせて、どこまで信じられるかを考えると、僕には、手放しであなたの考えに乗ることはできません」
「なるほど、やはり先生は学者肌のお方なんですね。確かに先生の話も正論だと思います。でも私の意見もそれなりに正論だと思っています。そういう意味では正論というのはいくつもあるものなのかも知れないですね。そのおかげで、価値は薄れるかも知れませんけどね」
発想には広がりと、絞られたものがある。男の発想は限りなく広がりを見せるもので、坂田の発想は、絞られたものだ。坂田の発想の方がより現実的に感じられるが、それはタイムマシンについて考える人の定説と言えるのではないだろうか。
「先生はその場所にいると、時間があっという間に過ぎてしまったという経験をしたことがありますか? 誰かと話をしているとあっという間に時間が過ぎるといいますが、先生もその意見に賛成ですか?」
「僕は、そのことに関してはあまり考えたことはありませんね。時間があっという間に過ぎるということは普通にあることで、別に不思議なことではないと思っているからだと思います」
「私は、子供の頃からずっとそのことが気になっていたんですよ。心理学を専攻したのも、誰かと話をしていると時間を短く感じるという発想からだったんです。もちろん、他にも理由はあったんですが、子供の頃から一番長く自分の中で疑問に思うこととして燻っていたことを研究してみたくなったんですね」
「それがタイムマシンの発想に行きついたというわけですか?」
「それもあります。自分の発想が子供の頃から変わっていない中で、枝葉に別れていたのも事実です。タイムマシンの発想の一部としてもそうですが、心理学を志すという意味では、自分の発想が派生した部分に心理学を勉強したいと思うことがあったんですね」
「それはどういう発想なんですか?」
「時間と意識、記憶のそれぞれの関係を研究してみたいと思いました。心理学を研究しようと思い始めた時はそこまで考えていなかったんですが、私が師と仰ぐ教授が、この発想を私に話してくれたことがあったんです。それまで、枝葉の方を漠然としてしか考えていなかった私の中で、いくつかの点として存在していたものが、初めて線として繋がった瞬間だったんです」
「それは直線なんですか?」
「最初は点でしか見ていなかったので、結んでみた状態を想像もしていませんでしたが、実際に線で結んでみると、直線だったんです。それも分かりやすい直線だったんですよ。それを感じた時、私は教授のことを尊敬して余りある人だと思うようになりました」
「その教授というのは今は?」
「残念ながら、今は会うことができないんですが、私が何かの結論を見つけ出せば、教授とお話ができるようになると思っています」
男の話はどこか掴みどころのないものだったが、なぜか納得の行く部分もあり、
――まるで目からうろこが落ちたようだ――
と感じさせるところもあった。
「でも、話を聞いていれば、確かにあっという間に時間が過ぎたと感じたことがあったような気もする」
「意識していなかったのにですか?」
「あらためて言われると、意識していないと思っていたことでも、本当は無意識の中で記憶として残っていたということになるんだろうけど、その記憶は無意識の中でしか存在しないものなので、普段はまったく意識することがないんですよ。だから、急に見たことがないはずのものなのに、以前に見たことがあるというような思いを抱くことになる」
「それこそ、まるでデジャブ現象ですね」
「そうなんだよ。デジャブに関してはいろいろな説があり、決定的なものはないんだけど、それに関しては、僕はいくつも考えがあってもいいと思っているんだ。つまりは、言葉にすれば一つだけど、同じデジャブでも、いくつか種類があってしかるべきだと思っているんだ」
「種類を持って発想できるところが、先生と私の似たところだと思っています。もっとも、心理学というのは、いくつもの発想を思い浮かべることから始まるのではないかと私は思っているので、感覚的な現象と心理学との関係は、曖昧でありながら、いくつもの発想が生まれることで、相関関係にあると言えるのではないでしょうか」
「僕は心理学を専攻し始めた理由について、実はあまり意識がないんですよ。それなりの理由があったはずなんですが、それを思い出せない。初志の思いと変わってしまったからなのかも知れないと思いましたが、それだけではないと思うんですよね。記憶自体が薄れてきたというか、特に肝心なことほど、思い出そうとすると、覚えていないということが結構あったりします」
「先生のお気持ち、分かるような気がします。そういう時ほど、デジャブ現象に陥りやすいと思いますし、デジャブが重なると、自分が何を考えていたのか、我に返ったみたいで、急に思い出せなくなることもあるんでしょうね。実は私も以前は同じようなことがありました。だから何となくですが、分かるような気がするんですよ」
と、彼の話は坂田をフォローしているようにも聞こえたが、漠然としたことに変わりはなかった。
会話が一瞬途絶えた。それまで白熱していただけに、一瞬だけでも、時間が長く感じられ、そのせいもあってか、途絶えてしまった隙をぬって、そのまま会話は膠着状態に陥り、場は落ち着きを取り戻した。
二人は水割りを呑んでいたが、ペースは圧倒的に彼の方が早かった。
――結構、呑める方なんだな――
と、あまり呑めない坂田は感心しながら見ていた。それでも、普段に比べて少しペースが早くなっていた坂田は、
――会話をしていると、知らず知らずのうちに盃も進むというものだ――
と感じていた。
少し続いた沈黙を破ったのは、やはりというか、彼の方だった。
「僕が実はタイムマシンを使って未来から来た人間だと言えば、先生はビックリしますか?」
またしても、いきなり何を言い出すというのだろう。しかし、今さらビックリしても仕方がない。
「別にビックリはしないけど、ビックリしてほしかったかね?」
と返事を返したのは、
――彼が聞いてきた話の内容に対してビックリしたというよりも、バカバカしい話をする人だということにビックリした方がよかったのだろうか――
ということを暗に仄めかしていたのだ。
それにしても、この青年は、どこまでが本気なのか分からない。平気でタイムマシンに乗ってきたなどという戯言を口走るのだから、そう感じても無理もないことであろう。
ただ、坂田も大学時代くらいまでは、これくらいの戯言は平気で言っていたような気がした。それでも大学生だから許されたのであって。彼はすでに学生ではないという。それを思うと、
――僕も少し年を取ったということなのかな?
と、まだ卒業してから十年も経っていない自分を顧みていた。
「タイムマシンを信じないと言われた先生なので、タイムマシンについての談義を重ねるのは難しいと思いますが、先生がタイムマシンを信じないと言った根拠はやぱり『パラドックス』の問題ですか?」
パラドックスというのは、時間を超越することによって起こる矛盾のことで、一つの矛盾が起きてしまうと、それがどこまで影響してくるか分からない。それなら、最初から矛盾が起こるようなことはできないものだと考える方が自然ではないだろうか。矛盾が起こるパラドックス自体も架空の話なのだ。最初から発想だけでありえないことだと思えば、余計なことを考える必要はない。
学者というものは、すべての可能性を考えなければいけないわけではない。
いかにたくさんある可能性の中から必然的なことだけを見つけ出して、そこから一つの正当性のある答えを導き出すことができるかということが、研究ということだと坂田は思っている。したがって、最終的にどこまで絞れるかが問題であり、絞れた時点で、ほぼ研究が成功したのかどうか分かるというものだった。
坂田がタイムマシンについて考えた時、必然的なことだけを見出してくると、そこに何も残らない気がしたので、
「僕はタイムマシンは信じない」
という結論に達したのだ。
「先生は、タイムマシンを自分の論理で作ってみようとは思わないんですね?」
「そうだね。作ろうとすると、自分の中で否定しようという思いが強くなり、作ろうという思いと、否定しようという思いとが交錯する中で、最後にはそのどちらもなくなってしまいそうになる。それって恐ろしい気がするんだ」
「恐ろしい?」
「ええ、自分で自分を呑み込もうとしているようで、それはまるでヘビが尻尾から自分の身体を呑みこんでいくようで、最後はどうなるんだろうって思うと、それこそ矛盾の中で見い出すことのできないはずの答えを求めているんですよ」
「それがタイムマシンの発想に繋がってくるんですね」
「その通りです」
それまで一人で考えていると、分かっているつもりでもハッキリと言葉にできるほど具体的な発想が生まれているわけではない。一人孤独な世界というのは冷静に考えられるようで、結局は一人なのだ。明確に誰かがいてくれて会話になっているのであれば、自分の発想がどんどん膨らんでいき、柔軟性を帯びてくるのを感じていた。
――論理的に物事を考えるというのは難しいことだ――
と思いながらも、
――いや、楽しいことでもあるな――
と感じた坂田だった。
正直言えば、今までにタイムマシンの発想を何度となく抱いたことがあった。しかし、いつも一人で抱いていることもあって、最終的には同じところに戻ってきてしまう。堂々巡りを繰り返すことになるのだが、それも同じ範囲を繰り返しているのであれば納得もいくが、次第に考える範囲が狭まってくる気がする。
――これって、子供の頃に見たものを久しぶりに見た時に感じる狭さに似たものがあるのかも知れない――
と感じた。
子供の頃に見た光景と大人になって見る光景では、広さが違って見えるのは、至極当たり前に感じられた。根本的に背の高さが違うのだから、当然目線が違うことで目の前に広がっている光景の広がりに違いがあるのは当然だ。それは距離感の違いとも相まって、身体が大きくなればなるほど、近くに感じられ、今まで大きいと思っていたものが小さく感じられるようになるのだ。
ということは、堂々巡りを繰り返している自分の考えている範囲が狭く感じられるのも、そこには後退しているという感覚よりも自分の考えが成長しているからだと思う方が自然なのかも知れない。
だが、なぜかそうは思えない。どうしても後退しているという印象が強いのだ。
それは、堂々巡りを繰り返しているということが、錯覚を呼んでいるのではないかと思っている。堂々巡りを繰り返すということは、考えられる範囲が決まってしまって、どんなに考えようともそこから逸脱した考えを抱くことはできないことになる。
――考えを広げることはできずに、深めることしかできない――
それが、堂々巡りを繰り返すという定義になるのだ。
坂田がタイムマシンを思い浮かべた時のことを思い出そうとしたが、思い出すことができない。
――いよいよ記憶の欠落が加速してきたのかな?
と感じていた。
最近では、前の日に人と話をしたことすら覚えていない。意見を戦わせて話をしたはずなのに、記憶が途絶えているのだ。
確かに集中している時というのは時間を感じることのないほどに、別世界を形成しているように思う。その時間が過ぎてしまえば、まるで他人事だと思うほどに、時間の経過はその部分に穴が空いたかのように感じるものなのだろうが、坂田の中で穴すら感じられない。
その発想がタイムマシンに繋がっているというのは、何とも皮肉なことでもあった。
――ある時間からある時間に飛び越えるというよりも、先に到達していて、時間が追いついてくるという感覚がある、時間が追いついてくるまでに待っているという意識がないことがタイムマシンの論理なのではないだろうか――
と考えていた。
その時間、本当であれば人はその分年を取ってしまうのであろうが、年を取ることがないことから、
――時を一瞬にして飛び越えた――
と感じるのだろう。
時間が追いついてくるまで意識がないというのは、記憶されていないだけで、意識はあるのかも知れない。それはまるでさながら、
――覚めることのない夢――
を彷彿されるものなのではないだろうか。
年を取らないという理屈は、時間が追いついてくるまで待っているというわけではなく、ものすごいスピードでどこかに行って、戻ってくる感覚、つまりはアインシュタインの相対性理論の中にある、
――光速を超えるスピードに入り込めば、時間は通常に比べてかなり遅く進行するものだ――
という理屈である。
では一体どこに行って、どこから戻ってくるのかというのは、波を描くカーブの点から点を飛び越える世界。平面で描けば最短距離であるが、実際には立体にすれば、逆に大きな遠回りになる世界が存在しているという発想である。そういう発想でも抱かなければ、タイムマシンというものの構造的な理屈を解釈することはできないと坂田は考えていた。
そして、平面から立体へ時間軸を飛び越えた瞬間、人は意識や記憶を失ってしまう。それが時間を飛び越える上での約束事のように思われた。別の次元から来た人間が及ぼす影響がどれほどのものかを考えれば、その人の記憶や意識がないことで、及ぼされた影響は必然だったと思えるようになり、そもそも考えられるパラドックスも存在しないと考えるのは、あまりにも都合のいいことであろうか。
ただ、そうなると、タイムマシンの意義そのものがなくなってしまう。それが坂田がタイムマシンの存在を信じらえないという根拠であった。彼の質問に対して即答したというのは、迷うことがなかったということで、そこには迷うことのない即答を促すことができるだけの根拠が最初から坂田にあったことを示していた。そのことは彼にも最初から分かっていたようだった。
ただ、坂田は自分の記憶や意識が次第に薄れて行っていることを最近やっと自覚し始めた。それははづきと知り合うより前だったかのか後だったのか、ハッキリとは分からない。しかし、微妙な時期だったということを坂田は感じていた。
坂田は目の前にいるこの男は、タイムマシンの存在を信じて疑わない気持ちがあるのを分かっていた。それがどこから来る自身なのか確かめたい気持ちがありありだったが、敢えて冷静でいることで、彼の気持ちを正面からだけではなく、縦横無尽に見れるように考えているのだった。
――一体、この自信はどこから来るのだろう?
話をしていて、決して根拠のないことを信じるような男性には見えなかった。むしろ人の意見がどうであれ、自分が信じられないと思えばその思いを貫くような一本芯が通ったようなまっすぐなところを感じていた。それだけに、彼に対してまだまだ自分が理解できていないことを、坂田は感じていたのだった。
だが、それは彼にしても同じだった。坂田の本心が見えてこないことから、本人としては、坂田の目がどこからでも入って来れるように開放的になることを心掛けていた。だからこそ、坂田にも彼のことが分かってきたのであって、それでも分かりきれないところは、それぞれの性格や感性の違いにあるのかも知れない。その部分はお互いに侵してはいけない部分であり、
――交わることのない平行線を描いている――
と、お互いに感じさせるところであった。
二人とも似ているところをたくさん持ちながら、どうしても交わることのない平行線の強さもかなりのもので、
――いい意味でお互いが刺激し合える仲なのではないか――
と、それぞれに考えていたようだ。
坂田はその日、普段ほとんど呑まないのに、思ったよりも呑んでいたようだ。会話をしながらだったので、そんなに酔っ払ったという意識はなかったが、店を出てから一人になると、急に酔いが回ってきたのか、一緒に睡魔まで襲ってきたようだ。
「あれ? どうしちゃったんだろう?」
こんなに前後不覚に陥るほど呑むなんて、考えられないと思っていたが、それ以上に気持ち悪さが襲ってこないのが不思議だった。
ここまで酔いが回れば、吐き気はもちろんのこと、激しい頭痛に襲われてもおかしくないのに、そこまで至っていない。
――これから襲ってくるのかな?
とも思ったが、その前に眠ってしまいそうな気がした。
普段なら、ここまで酔い潰れれば、睡魔よりも気持ち悪さの方が勝つので、眠るどころではなくなってしまう。それが分かっているから呑まないのに、今日はそれでも呑んだということは、
――気持ち悪くならないことを確信していたんだろうか?
どこまでが自覚なのか、分かっていなかった。
それでも、意識が朦朧としているのは事実だった。朦朧としながらも、意識は残っている。そんな状態は今までに経験したことはなかった。意識が朦朧としてくれば、気絶しないまでも、後で思い出すことができないだろうと思うほど、意識が薄れていくのを感じるものだったが、その日は心地よい睡魔に襲われながら、眠りに就けることを確信していた。それなのに、気が付けば病院のベッドで寝ていた。
「気が付かれたようですね」
と、ナースに声を掛けられ、思わず、
――どこかでこんな感覚を味わったような――
と、デジャブを感じた。
それは、はづきが交通事故に遭った時、ベッドに寝ている彼女を見て、思わず自分が交通事故に遭ったかのような錯覚を覚えたのだということを思い出した。ただ、その時は意識をしていたわけではなかった。自分が近い将来、同じように病室のベッドの上から、同じようにナースを見ることになるとは思っていなかったはずである。
――どうしてなんだろう?
まず、なぜ自分がここにいるのかという疑問よりも、先にベッドから見つめるまわりの景色に違和感がない自分を不思議に感じたのだ。
坂田は、自分のプライバシーをまわりの人に覗かれているような錯覚に陥っていた。それは被害妄想というよりも、自分が記憶を失っているにも関わらず、自分以外の人の方が自分のことをよく知っているということに、矛盾を感じたからだった。
――何だか、僕は未来から来た人間のような気がするな――
と、タイムマシンを信じていないくせにそんなことを思うのは、
――入院して、心細くなっているからなのかも知れない――
と思うからだった。
被害妄想を感じるのも同じ理由なのかと思ったが、どうやら違うようだ。本当に誰かに自分のプライバシーを覗かれているような気がした。考えていることがすべて筒抜けになっているかのようだった。
だが、なぜ自分が入院しているのか坂田は分からなかった。あまりにも急な展開に当然のことながら頭がついて行かない。
――でも、前から入院することが分かっていたような気がする――
それは、はづきが入院しているのを見て、自分も患者の立場から見ているような目を持っているような気がしていたからだった。子供の頃から今まで、一度も入院した記憶がない。もし、あったのであればはづきの入院を見て、患者の目から見ることも別に不思議ではなかったが、入院経験のない自分がどうして患者の目で見ることができるのか、不思議で仕方がない。
そんなに不思議なことであれば、もっと頭に残っていていいはずなのに、自分が入院して初めて、
――はづきの入院を見て自分が患者の目になった――
ということに気が付いたのだった。
自分が近い将来、入院することが分かっていて感じたのだとすれば、それはまるで虫の知らせのようではないか。
坂田が入院したのは、スナック「メモリー」で、タイムマシンの話をした男と呑んだ翌日のことだった。呑んだことが別に影響したわけではなかったはずなのに、昼前まで別に何ともなかったはずの坂田が、午後の講義に赴いた時、急に教壇で倒れたのだった。
救急車に運ばれて病院に入院することになったが、命には別状はなく、どうして倒れたのか不思議なくらい、身体も頭も問題はなかった。しかし、その時にはすでに記憶はなくなっていたのだ。
それでも、同じ記憶がなくなった人と、少し違っているということで、精神科の医者の話で、しばらく入院することになった。
「坂田さんは、記憶をほとんど失くされていますが、自分が誰であるかということは分かっているんです。一部の記憶がほとんどなくなっているようですが、ここまで記憶を失っているのであれば、普通なら完全に忘れているはずのことを覚えていたり、逆に覚えていて不思議のないことを忘れていたりするんです。つまり、記憶の失い方が普通ではないんですね」
というのが医者の見解だった。
その話を坂田にすると、
「僕は、前から、記憶が薄れていっていることに気付いていました。いずれは本当にすべての記憶を失うのではないかという懸念も含んでいたんです。記憶をすべて失うと言っても、それは自分が誰なのか分からなくなったりすることだと思っていて、本当にすべてを忘れるのではないとも思っていました。だから、自分が誰なのか分かっているにも関わらず、それ以外のことをほとんど忘れてしまっている自分が怖いんです。しかも、急に何かのきっかけ、たとえば事故のようなものによる記憶喪失なら分かるんですけど、徐々に前兆というものがあって、その延長線上に今の自分がいるのだと思うと、今となっては、何とかできなかったのかという後悔もあります。もっとも、あの時は本当にここまで記憶を失ってしまって、こんなに怖い思いをするようになるなど、想像もしていませんでした。逆に記憶をすべて失うということは、それだけ、何も分からないということなので、却って幸せなのかとも思っていたほどでした」
それを聞くと医者は軽く溜息をついて、
「そうですか。徐々にでも治療していきましょう」
何かを言いたげだったが、煙に巻いたのが分かった。
「そうですね」
とは答えたが、医者が坂田を見て、
――救いようのない孤独を隠し持っている――
ということに気が付いたということまでは、その時にさすがに気付かなかった。
坂田は、自分の部屋をあまり綺麗にしている方ではなかった。結構散らかっている方で、散らかっている方が却って落ち着くと思っている方だった。それなのに、自分が熱心にしていることだけは、きちんとノートにつけている。しかもそれは手書きだった。パソコンも普通に使えるし、ノートパソコンをいつも持ち歩いている坂田だったが、急に歩いている時は電車に乗っている時などに閃いたり思いついたりしたことを記入できるように、「ネタ帳」は絶えず持ち歩いている。
そんな「ネタ帳」は、今では何冊になるだろう。部屋の机の前に小さな敷居を作って、立てかけている。自分の部屋であり、誰も入ってこないという思いがあるので、別にどこかに隠しているわけでもない。結構目立つように置いていた。それも坂田の性格なのだろう。
――こうやって見えるところに置いていることで、いつでも思いつきそうな気がするんだ――
と感じていたからだった。
実際に、部屋にいていろいろな妄想が浮かんできた時、「ネタ帳」に書き込んでいくが、その時目の前に過去に書いた「ネタ帳」のバックナンバーが並んでいるのを見ると、さらにいろいろなことが思い浮かんでくるような気がするのだった。
坂田は、「ネタ帳」に自分が研究している心理学以外にも、いろいろ書き込んでいた。それはとどまるところを知らない妄想が自分の中で限りなく膨らんでくるのを感じていたからだった。
坂田は覚えていないが、この間スナック「メモリー」でいろいろな話をした中で、タイムマシンをハッキリと否定はしたが、本当はタイムマシンについていろいろ研究や妄想を繰り返し、一定の発想に辿り着いたことを、一冊の「ネタ帳」に著わしていた。
坂田は、スナック「メモリー」のことは覚えているが、その時に最近知り合った男といろいろな談義をしたことを忘れていた。
しかし、坂田は違った意識を持っていた。
一人の男の存在なのだが、それが談義をした男性で、坂田の意識の中では、その男とはずっと前から知り合いで、しかも、お互いに似た発想を持っているということだった。その男が坂田の発想に陶酔していて、
――僕の助手のようだ――
と感じていた。
まだ助教授になったばかりで、自分に陶酔してくれる助手などいるはずなどないと思っていたのだが、その男に対しては、なぜか親近感が湧いていた。
親近感が湧くという意味では、もう一人頭の中にイメージしている人がいる。
その人は立派な教授なのだが、今残っている意識の中で、自分が尊敬する教授とはまったく似ていない人物だった。
しかし、親近感という言葉では表現できないほど、その男性のことを分かっているような気がする。
しかも、その人のことをすべて分かっているように思えるのに、その人とは二度と会うことはできないという不思議な感覚を持っていた。
――これって一体何だろう?
と感じたのだが、いろいろ考えているうちに自分の中でハッと感じるものがあった。
――僕はこの親近感を感じてしまったことで、記憶を失うという憂き目を見ているのかも知れない――
と感じたのだ。
坂田は、記憶を失った今、
「タイムマシンを信じますか?」
と聞かれると、
「ええ、信じます」
と答えるかも知れない。
タイムマシンを信じなくなったのは、いきなり発想が思い浮かんだわけではなく、研究を重ね、想像を深めていく中で思い浮かんだ発想なのだ。したがって、記憶のほとんどを失ってしまった坂田には、タイムマシンに対する発想は皆無だった。というよりも、他の人と同じ、
――夢見るレベル――
なのだ。それだけに、もし今、自分が書いた「ネタ帳」を見て、本当に自分が書いたものだと言われても、一様に信じられるものではないだろう。坂田のような人間ほど、記憶を失ってしまってからの元の自分とのギャップが大きい人間もいないかも知れない。一度記憶を失ってしまうと、取り戻すのは至難の業ではないだろうか。
倒れた時の坂田は「ネタ帳」を持っていなかった。バックナンバーは部屋にあるが、いつもカバンにしたためているはずの「ネタ帳」がなくなっていた。そこに「ネタ帳」を持っているのを知っているのは、記憶喪失になる前の坂田だけのはずだ。記憶を失った坂田が覚えていないのだから、誰が知っているというのだろう。そこに行ってしまったのか、気にする人もいるはずもない。
「坂田教授は、こんところに手帳を忍ばせていたんだ」
男はほくそ笑みながら手帳をめくっていた。
彼は、まだ助教授になったばかりの坂田のことを「教授」と呼んだ。
暗がりの部屋に一か所電気がついている。なぜそんな真っ暗な部屋にこの男は一人佇んでいるのか、誰一人として知る由もないだろう。ただ、もしこの男の行動を知っているとすれば、坂田だけではないかと思う。記憶さえ失わなければ、彼のことを知っていて不思議はないからだ。
男はおもむろに坂田に手帳をめくり始めた。一ページ一ページ、丹念にめくっている。慎重に見てはいると、そのスピードは一つ一つをゆっくりと見ているという雰囲気ではなかった。何かを探しながら読んでいて、必要のないところはスル―しているように見えるが、実際はすべてをスル―できないことを分かっている。坂田はメモを他の誰かに見られるのを警戒し、なるべく人に分かりにくい書き方をしていた。
――坂田語録――
とでも言えばいいのか、謎めいた文章も少なからず存在していた。
――まるで中世のお城のようじゃないか――
城というのは、敵の侵入を考えて、なかなか侵入できないように迷路のようになっていたり、行きやすい方には罠を仕掛けていたり、普通に進んでいれば近づいているはずの場所から実際には離れてしまっていたりするものだ。
それは芸術として様相を呈しているが、坂田の場合も同じだった。
――本当に関係ないと思ってスルーしていると、最後には何も発見できないのではないだろうか?
彼もそのことは分かっていた。彼は坂田のことを知っているのである。
実は記憶を失ってしまったことで、坂田は彼の記憶も消えてしまったのではないかと思えるのだが、実際には彼が坂田を知っていても、坂田は彼のことを知らないのだ。自分の知っている坂田のことをイメージしながら男は「ネタ帳」を見ていたが、最後まで(と言っても、記憶を失う寸前までなのだが)読んで、どうも、中途半端な気がして仕方がなかった。
――これには前があるのかも知れない――
書いてある内容は、一見支離滅裂のように見えるが、書いた本人の気持ちになって考えると、ネタが微妙に繋がっているのに気付くはずだ。
――これの前が存在するのではないだろうか?
そう思うのも当然のことである。
そして、「ネタ帳」全部をわざわざ持ち歩いているはずもなく、あるとすれば坂田の部屋にしかないと思っていた。
男は盗人の経験はないが、「侵入セット」のようなものを所持していた。しかも、彼には、
――俺は絶対に捕まることはない――
という自信があった。いや、それは自信というレベルのものではなく、確信だったのだ。つまり、彼にとって、
――物理的に逮捕されることはない――
という確信を持っていたのだ。
盗人の経験はないが、侵入に関しては慣れたものだった。
「盗人と侵入と、どこが違うんだ?」
と、何も知らない人はそう思うだろう。いや、普通が何も知らない人であり、知っている方がおかしいとも言える。
男は坂田の部屋から難なく残りの「ネタ帳」を取り出すことができた。坂田自身も「ネタ帳」を隠しているわけではなかった。一人暮らしの自分の部屋。隠すまでもないことだ。
それなのに、もし彼以外の他の誰かが坂田の部屋から「ネタ帳」を盗もうと画策すれば、きっと本懐を遂げることはできないだろう。
――灯台下暗し――
隠しているわけではなく、一番目につきやすいところに置いている。だからこそ、坂田の性格を知らない人なら、見つけることは困難であろう。
なぜなら、「ネタ帳」のように人に見られたくないものは、普通なら誰にも目につかないところに隠すのが普通なのに、坂田は隠そうなどとしていない。目の前にあっても、それを大切なものだと思わないのだから、絶対に見つけることはできない。何度も目に触れるはずなので、最初にそれを
――「ネタ帳」ではない――
と認識すれば最後、二度と怪しむことはないだろう。
ミステリー小説などでも、
「一度警察が調査したところであるなら、そこが一番安全な隠し場所だ」
という、それこそ心理学の原点にも繋がる発想だと言えないだろうか。
男は坂田という人間が、自分しかいない部屋では無理に隠そうとしないだろうことを知っていた。だから、それが「ネタ帳」であることをすぐに理解したのだ。
――長居は無用――
ということで、闇に紛れて必要なものだけを手に入れると、手順よく退散していった。その間約二十分くらいのものだったであろうか。闇から闇にその間の時間が消えてしまったようだった。
男は再度自分の居場所である暗闇に身を潜めながら、スポットライトで「ネタ帳」を眺めていた。今度は最新版を読んだ時のように時間を掛けなかったわけではない。今度はゆっくりと時系列に沿って読み込んでいる。それはまるで学問書と読んでいるかのようだった。
――なるほど、さすがに教授は以前書いた方が難しい――
今度は「ネタ帳」の書き出しからになるので、完全に時系列に並んでいた。最初の頃の方が理解しがたいのは。本人の文章能力によるのが大きな理由だが、まるで小説を読んでいるかのように、物語形式になっていた。
それだけ、自分の文章が難しいと分かっていたことで、少しでも分かりやすくしたのか、そのせいで読んでいて、どこか違和感を感じてしまっているようだった。
それはギャップというよりも文章のアンバランスさによる書き手の人間性の問題で、まるで子供が書いたかのように思える最初の頃の文章と今の坂田の性格を比較すれば、ギャップなどという言葉で表させるものではない。そこに心の奥に潜む大きな溝のようなものを発見した。その溝には、
――埋めることのできない時間の溝――
が存在していることを知った。
その時、男はある光景を思い浮かべていた。
男は目の前にいる人間を眺めていた。目の前に見えているので、距離的には短く感じられ、少し歩み寄れば近づけるのが分かっていた。
相手が動かないのも分かっていた。当たり前のように主人公は目の前の男に近づこうと前に進んだ。
それなのに、相手に近づくところか、距離が広がっているのを感じた。じっと相手の男を眺めていたが、その男はこちらを意識することもなく、反対側をずっと見ていた。
すると、主人公の男は急に寒気を感じたのだ。
誰かに見つめられている心境、つまりは自分が見つめているつもりでいつの間にか、その男と立場が入れ替わっているのだ。
――じっ見つめているつもりで、背中から視線を感じる――
いつの間に入れ替わったというのだろう。後ろの視線が自分が先ほどまでしていた視線だと思うと、本当に不気味だった。
しかし、不思議なことはそれだけではなかった。
後ろに視線を感じながらも、自分はやはり誰かを見つめているのだ。しかも、その見つめている相手が見えている。さらに、その男が向いている方向を確認してみると、何とその男もこちらに後頭部を見せて、反対側を見ていたのだ。
――まるでこのまま果てしなくこの関係がたくさんの人間を介して続いていくようではないか――
と感じた。
すると、自分の後ろから誰かに追いつかれて、声を掛けられる。ビックリして振り向いて、その人の顔を見た瞬間、驚愕からか、完全に意識が飛んでしまったかのようだった。
――俺の記憶も普通に飛んでしまいそうな気がする――
と感じると、理由もハッキリとせずに坂田の記憶が失われたことが分かる気がした。
しかし、男は坂田に関して記憶を失ったのは、そんな唐突なショックによるものではないことは分かっていた。だが、もしショックが蓄積されていたのだとすれば、今のような発想も、その要因になったのではないかと感じたのだ。そこには先ほど感じた、
――埋めることのできない時間の溝――
という発想が影響していることを感じていた。
そして、
――この時間の溝こそ、自分は前を見ているつもりでも、後ろから見つめられている恐怖を呼び起こす要因にもなる――
と感じた。
要するに、時間というのは前にしか進めないもので、前を見つめているつもりでも、後ろから覗かれている光景を思い浮かべた時、後ろから覗いているのも自分だという発想をしたのと似ているような気がする。ただ、もし自分を見つめている人間が違う人間であれば、そこにはどちらかが時間を超越して存在していることになるのではないかという漠然とした発想があるのだ。それが、
――前を見つめているつもりでも、自分に後ろから覗かれている――
という矛盾を孕んだ発想ではないだろうか。それこそ「パラドックス」の発想であり、直訳すると「逆説」というだけの理屈を十分に理解できる。
――まさに「逆も真なり」と言えるのではないだろうか――
坂田の日記には、そのことを思わせる内容が随所に伺えた。
「さすがに坂田教授の発想は素晴らしい」
男は暗闇の中でひとりごちた。今さらのように坂田に陶酔している自分を感じると、「ネタ帳」を途中から一気に読み込める気がしてきたのだ。
――まるで坂田教授が俺に乗り移ったかのようだな――
坂田の記憶が完全に失われたことを男は知らなかった。いや、完全に失われていないという確信を持っていたのだ。本当はどちらなのか分からない。男以外の人は、誰もが坂田の記憶は完全に失われたと思っている。それが医者の診立てである以上、それ以上のことは誰が言っても説得力に欠けるからだ。
――坂田教授の意識なのか記憶なのか、俺の中に漲っているかのように感じるな――
そう思ったのは、坂田教授とこの間タイムマシンのことについて話したことが、本心ではないことを悟ったからである。
そのことを「ネタ帳」は証明していた。
自分の中に宿ったと思われる坂田の発想、それを証明する意味でも男には、是が非でも坂田の「ネタ帳」を見る必然性があったのだ。
ただ、この男がどうして坂田に「ネタ帳」があるということが分かったのか、それは彼が坂田と切っても切り離せない関係にあったからである。
しかし、少なくとも今までの中には存在していない。それを思うと、彼がタイムマシンの存在についていきなり初対面のはずの坂田に聞いたのか、理解できるというものだ。
ただ、その時、男には坂田がタイムマシンの存在を信じないと言ったことが意外だった。つまりは、それから坂田の記憶がなくなり、男が「ネタ帳」を見るまでの短い時間の間にある程度理解していないと、この発想は成り立たない。
――自分が見つめているつもりで、相手に見つめられているという発想を階層的に考えられるかどうかが、大きな問題だったんだ――
と、男は今ではそう思うようになっていた。
――タイムマシンねぇ――
彼は、溜息を尽きながら言った。
――タイムマシンというのは媒体というだけの問題で、本当は時間をトリップすることによって生じることをどう正当化できるかというのが、これからのタイムマシン開発の発想になるはずだったのに、どこで間違えたというのだろう?
男は、タイムマシンの存在を知っていて、それがこの時の坂田の「メモ帳」が大きなヒントになっていたはずだ。
だが、そのことを男は誰にも話すこともできず悩んでいた。
彼には坂田がいかにして記憶を失ってしまったのかということ、そして、その時にどのような発想が生まれ、その発想が坂田の研究にいかなる影響を与えるかということ。
さらには、そこに自分がいかに関わっていけばいいのか、手探りながら歴史を振り返ることで、何が問題なのかを探らなければいけない。
――一体、どの時点なんだ――
これが彼の発想の始まりだった。
彼の名は、榎本泰治という。立場としては、坂田教授の助手であり、
「坂田教授をもっとも素直に継承する若き研究家」
として、社会から注目され始めた男だった。
坂田教授は、すでに六十歳を過ぎていた。最盛期はすでに過ぎていたが。坂田教授が残した足跡は、一言で表すことのできないほど大きなもので、研究家の中では知らない人がいないというほどの大きな賞も受賞していて、学者としては、
――一時代を築いた――
と言っても過言ではない。
だが、教授の一番そばにいるはずの榎本だけが何か腑に落ちないことをずっと心の中に抱えていて、それを確かめなければ気が済まなかったのだ。榎本が注目したのは、
――過去の教授――
ただし、ある一点のどこかにそのヒントが隠されている。
闇雲に探すには人の人生は長すぎる。つまりはその焦点を探さなければいけないのだ。
時代を間違えると、少しであっても、考えは違っているものになる。特に坂田のような性格の人には一点を見つけないと見誤ってしまう。
「ミイラ取りがミイラになってしまっては洒落にならない」
そう呟いた榎本は、自分が一体何者なのかもう一度考え直さなければいけないのではないかと思うようになった。
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