第32話 後編15 蛭尾④
私と弘子君はそのまま大学に戻った。
大学図書館に行き、屋島の戦いとその詳細が記された文献を調べた。
はたして歴史は、変わっていた。
寿永4年 2月19日(1185年3月22日)源義経は周りの反対を押し切り、嵐の中を渡海したが、
途中嵐に会い、溺死した。
勢いをそがれた源氏方は京まで撤退し、その後にらみ合いとなった。
鎌倉にいる源頼朝は、もともと平家を完全に滅ぼそうとは思っていなかった。
時間をかけてでも三種の神器と安徳天皇を取り戻し、その功により朝廷より坂東の武士による自治権を認めさせたかったのだ。
それに反対したのが義経だった。
義経はあくまで早期の平家滅亡を目指し、強引に戦を進め、他の坂東武士たちと対立していた。
その義経が敗死したことにより、長期化する戦に疲れた坂東武士からも厭戦ムードが高まった。
頼朝は全軍を鎌倉へ撤兵させ、平家との和議へ方向転換を図った。
数か月後、和平が成立し、日本の東半分は源家、東半分は平家が中心に治めることとなった。
京は共同統治とされ、安徳天皇と三種の神器が戻った。安徳天皇は後鳥羽天皇に譲位し、後白河法皇は京を離れて隠遁することになった。
緩やかな政変は、味方内の無駄な衝突を生まず、和平後の反乱や粛清も殆どなかった。
互いを仮想敵とすることで、かりそめの平和が訪れたのだ。
その後も双方の小競り合いは続くが、大きな戦いはおこらなかった。
この体制は紆余曲折ありながら150年間続き、その間日本は比較的平和だった。
屋島の戦いが起こらなかったことにより、結果多くの人命が救われたのは間違いない。
その後の歴史の流れ、元寇から建武の新政を経た後の、室町幕府から先の歴史は、我々が元々知っていた歴史とほぼ同じだった。
現代の日本の状況も以前と全く変わっていない。
弘子君は隣で深くため息をついた。
敦盛君やや信太郎君のことは、文献にも教科書にもネットにも書かれてはいなかった。
私は図書館の館長に、他に資料がないか尋ねた。
館長はしばらく考え、いわゆる一級資料ではないが民間伝承に近いものならと、倉庫から持ってきてくれた。
数十分後、資料が運ばれてきた。
資料を読み進めるうちに私は興奮してきた。
その文書では、義経は、溺死したのではなく、討ち取られたのだとされている。
待ち構えていたのは、一の谷の戦いで戦死したと思われていた平家の武将平敦盛と、その従者信太朗を始めとした数人の武将たち。
義経の首は、屋島にいるの平宗盛の元へ送られた。
その首の返還を交渉材料にして、源平の講和が成立したという内容だった。
館長の話では、この資料のほかに平敦盛一行活躍の記述はなく、歴史学会では奇説の一種と扱われているらしい。
「弘子君、これは信太朗君が……。」
「はい。どうやらあいつは、使命を果たしたようです。」
彼女は淡々と言った。しかし資料を読む手は小刻みに震えていた。
その文書には続きがあった。
源平講和後、平敦盛は、屋島にいる父母と別れの挨拶をすると、旅に出て戻らなかった。
また、敦盛の従者信太朗は、源平和議の後、何の縁あってか、源氏方の武将熊谷直実の養子となったという。
彼は熊谷信太朗直弘名を改め、武蔵国(今の埼玉県付近)に住んだという。
熊谷信太朗には美しい妻がおり、子宝に恵まれた。
生まれた子は熊谷直実の嫡子、小次郎直家の娘と婚姻し、その子孫は熊谷家の分家として家を支えたという。
熊谷信太朗の妻は笛の名手で、家族内の宴席などで、興が乗ると、その腕前を披露した。
また、彼女が考案し広めた笹の葉で包んだお団子は地元の名物になった。
最近発見されたという文献『熊谷家日記』のなかの一部に記されていた話である。
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