第9話:姉ちゃんも治してあげよう

 気絶してすっかり大人しくなった洋子を見下ろす良太。


 足がひどいことになっている。蹴り折るどころか踏み潰したのだ。肉がひしゃげて鬱血し、倍くらいに腫れ上がっている。


 こりゃ添え木どころじゃないな。救急車を呼ぼう。


 とは言え、スマホは持ってないし、家の固定電話はっくに解約されている。

 洋子のスマホはあるが、当然ロックがかかっている。とりあえず試してはみたが、指紋にも顔にも反応しない。

 どうしたもんかと思っていると、


「うるっさいなぁ。何騒いでんだよ」


 洗面所に翔子が顔を出した。


 無職の父や母はだいたい昼まで寝ている。日辻川家の朝を飾るのは学校へ行く子供たちだけだ。

 平日の朝だと言うのに酒臭い息を吐きながら、下着にTシャツ姿で翔子が姿を現した。


 姉を見た良太の目が点になる。

 翔子は驚いている弟と、涙まみれのひどい顔で洗面所に倒れている妹を見て、眉を吊り上げた。


「おい…… 何があった? テメー、トチ狂ったマネしでかしたんじゃねぇだろうな?」


 生意気で説教臭い弟を睨み付ける。何度シメてやっても反抗的な態度を改めない良太が、翔子は大嫌いだった。

 お勉強ができてお行儀の良い、正論ばかりで空気の読めない真面目クンは……


「ぶほっ! 猿? チンパンジー? こんだけ歪んでるともう分かんねーな! ああ、でもちゃんと姉ちゃんの面影が有るわ! こりゃ気色わりぃな!」


 翔子を指差して、大声で笑い始めた。


 ぽかん、と口を開けた翔子。

 その顔が見る見るうちに赤く染まり、蟀谷こめかみに青筋が浮かんでいく。


「おいコラぁ! テメェなんつった今?」


 可憐なソプラノから一転、ドスの効いた声。

 だが、良太は小揺るぎもしない。


「うーわ、歯が剥き出しになった。見た目エグいな! チンパンジーっていうかチンパンじんじゃねーか。どっちがクソガキだよ酔っ払いが」

「上等だコラァァァァァ!!」


 翔子は怒りに任せて正拳突きをブチ込んだ。

 悪いことをしたら拳骨を落とす時代錯誤な祖父クソジジイがくたばってからは、好き放題に弟を殴ってきた。

 時代遅れの祖母クソババアを思い出させるような、品が良くて芯の強いジミなクセにイキってる女子は、片っ端からシメてやった。それを邪魔しようとした騎士気取りの馬鹿カンチガイヤローも2度とカッコつけられないようにしてやった。

 巻藁で鍛えたわけではないが、人を殴り慣れた拳だった。


「いっでぇぇぇぇぇぇぇっ!?」


 そのパンチが、折れた。

 良太に当たる寸前、凄まじい勢いで跳ね上がった腕に弾かれた翔子の腕は、乾いた音を立てて明後日の方へ折れ曲がった。

 右手を左手で抱えて悶える翔子に、良太は冷めた目を向ける。


「あー、加減し損なったか。まぁしょーがねーよな。こんなバケモンを姉だと思って気ぃ遣うとか、さすがにキツいわ」

「おまっ……! お前っ……! あ、ぃづぅぅっ……!」


 翔子は関節が増えた前腕を繋ぎ止めるように必死で支えながら、よろよろと後退あとずさる。


 迂闊だった。

 チンパン呼ばわりされて思わずキレてしまったが、あの温厚な弟が姉に暴言をいたことに、もっと違和感を感じるべきだった。

 目にも止まらぬ防御。おそらく手刀か腕刀で弾くように受けられたのだろうが、それだけで相手の腕を叩き折ってしまうなど、尋常ではない。

 そもそも洋子が倒れているのに、あの良太が介護もせず暢気のんきに笑っているのがおかしいのだ。


 いつもと違う。何かが起きている。


「お? びびってんのか。でもあんま変わんねーな。チンパン人はチンパン人か」


 チンパンって、あたしのことか?

 有り得ない。弟がそんなことを言うなんて。

 腐っても姉だ。良太が動物好きなことくらい知っている。

 そんな良太が、悪意を込めて人を猿呼ばわりするなんて考えられない。動物にネガティブなイメージを押し付けて悪口にすることを良太は嫌っていた。本来の豚は筋肉質で綺麗好きだ、とか言うタイプなのに。


「洋子は踏んづけたらマシになったけど、コレはどーなんかな。ちょっと試してみるか」


 踏んづけた? 洋子を?

 見れば、洋子の右足はすねの辺りから変な方向へ曲がっている。パジャマのズボンがパンパンになるほど腫れ上がっているし、裾から覗く足は血の気が失せて白く変色している。


 ヤバい。


「ちょっ…… ちょっと待てっ……! 本気で言ってんのかっ……! 骨折れてんだぞっ……!? こんなん傷害罪だろうがっ……! け、警察呼ぶぞ、テメェッ……!!」


 骨が折れても戦い続けるような戦闘狂ではない。すでに戦意は喪失している。

 それでも、今まで見下してきた相手に弱みを見せる気にはなれなかった。翔子は脂汗を垂らしながら弟を威嚇する。


「へー、警察呼ぶのか? ちょうどいいんじゃね。ついでにいろいろ調べてもらうか」


 鼻で笑うように良太は言った。

 脂汗と冷汗が止まらない翔子。部屋にはクスリも置いてあれば、気に入らないクラスメイトの服を脱がして撮った写真も残っている。警察の世話になるのはゴメンだ。


「バ、バカかテメェは。こんなんで騒ぎになったら、特待生の資格も取り消しじゃねぇのか? 困るのはテメェだろ! い、今謝れば許してやるから、早く救急車…… いや、四方木よもぎセンセイを呼べよっ……!」


 四方木センセイとは、祖父の代から付き合いのある好々爺クソジジイで、いわゆる口の固い医者・・・・・・だ。銃創、中絶、クスリの副作用などのいろいろな病巣を、然るべき届出をせずに診てくれる。良太に獣医のイロハを教えてくれたこともある、博識で多芸な怪しい人だ。

 呼べと言われても困るのだが。スマホを持ってないことは知っているだろうに。走って行って来いとでも言うのか? この姉は。


「特待生っつってもなぁ。チンパン人を野放しにしといて、自然保護官になりたいはねーだろ? 夢を諦めるつもりはないけど、遠回りになってもやるべきことはやらないとな」


 良太は何の迷いも見せなかった。蒼白い眉の下から覗く眼光は強く穏やかで、意味不明なことを言いながら姉妹の手足を折った人間の目とは思えない。


 ……嗚呼。


 翔子の酔いが、血の気が引くとともに醒めていく。

 やりすぎたのだ。弟はついにキレて、狂ったのだ。




 はい、チンパンが襲ってきたから殺しました。え? やだなぁ、姉ちゃんじゃないですよ。姉なら弟を殴ったり、物を盗ったりするわけないでしょう? だから、これはチンパンなんですよ……




 弟が大真面目に警察に説明している光景が、鮮やかに思い浮かんだ。


「いやあぁああ! 誰か! 誰か助けてぇッ!!」


 悲鳴を上げて逃げ出……そうとした瞬間、足の骨が砕ける。

 ローキック。全く見えなかった。金属バットどころか芯まで鉄が詰まった金棒で殴られたような衝撃。

 ギェッ、と聞くに堪えない悲鳴を上げて、手も足も折られた翔子は、広い洗面所に妹と並んで転がった。


 無様と言うには、余りに凄惨。


 燃えるように疼く手足を冷たい床に投げ出したまま、翔子はいつの間にか自分より背が高くなっていた弟を愕然と見上げた。

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