第8話:バケモノの仕付け

 いやぁ、驚いた。


 両手をついて頭を上下させ始めた妹が、謝罪の言葉を口にすればするほどに、その口が歪んで捻れていって、ついには別の化け物に変わってしまったのだから。

 強いて言えば、狐。

 狐の小狡こずるいイメージと、人間の卑屈な笑みを混ぜて練ったような、見るに堪えない下劣な怪物。

 そんなもんが好き勝手言った挙げ句に逃げようとしたもんだから、思わず踏んづけてしまった。


「動くなっつってんだろ。まぁ言っても聞かねーんだろうな」

「んぎぃっ……! ぐ、あ、あがぁあっ……! ひ、ひぐぅっ……」


 洋子は悶絶している。当然だ。肉を踏み潰され骨を踏み砕かれたのだから。常軌を逸した激痛に、洋子は声を出すどころか呼吸もままならない。


「さて、どうしたもんかね。こんなバケモンでも他所様よそさまから見りゃ人間なんだろうし、このままだと犯罪になっちまうかなぁ」


 涙を垂れ流して悶える妹を眺めながら、良太はひとちる。


「とりあえず両手両足をいで、人様に迷惑かけられないようにだけはしとくか。口汚くちぎたねぇ奴だから、舌も抜いといた方がいいか」


 ぎし、と洋子が硬直する。危機に瀕した小動物のように。


「それとも、首を捻じ切って山にでも埋めるかな。それが一番手っ取り早いか。警察や保健所に処分を頼むワケにもいかねーだろうしな」


 カタカタと、歯のぶつかる音を立てて洋子が震え始めた。

 震動が、らぬかたを向いた足に更なる痛みをもたらす。燃えるような、痺れるようなその劇痛は、差し迫る死の気配を容易に実感させた。


「ごめ、ごめ、ごめんなさい。許してください」


 洋子は、死に物狂いで謝罪の言葉を口にした。


「も、もう無駄遣いはしません。お酒も煙草もやめます。ホスト遊びもしません。半グレとの付き合いもやめます。兄さんの言うこと聞きます。お祖母ちゃんが言ってた通りの立派な女性になります。だから、だから許してください。殺さないでください。もう蹴らないでください。もう踏まないでください。お願いします。お願いします……」


 命乞いとは、こういうものか。


 埒外らちがいの苦痛と恐怖による莫大なストレスは、少女の心をいとも容易たやすし折った。

 この場を乗り切ろう、という策略じみたものは一切浮かんでこなかった。親に叱られる幼子のように、神の怒りに触れた信者のように、慈悲を信じて頭を垂れる以外にできることがなかった。


「お?」


 良太が見下ろす中、またも洋子の姿が変わっていく。

 ふさふさと誇らしげに揺れていた尻尾は細くすぼまって垂れ下がり、さかしらにピンと立っていた耳はペタリと頭に伏せる。


 あっと言う間に、薄汚れて痩せた子犬と妹を足して割ったような、貧相な生き物が現れた。

 今までの、反吐が出そうな悪意に満ちたデザインよりは、ぽど目に優しい。このまま御伽話に出られそうな、ある種の愛らしさすら持ち合わせている。


「ははっ! 随分と殊勝な格好になったな! だいぶ真っ当な生き物に近づいたじゃねーか!」


 このままいけば、人間に戻るかもしれない。何も殺すようなことはしなくてよさそうだ。


「分かった分かった。許すとまでは言わないが、今はこれ以上責めずにおいてやるよ。これからは少しでも真人間に近づけるように精進しろよ?」

「あ、ありがとうございます、ありがとうございますぅう……!」


 洋子は涙と鼻水と涎で顔をぐちゃぐちゃにしながら歓喜の表情を浮かべた。

 凄まじい解放感と、安堵感。多幸感すら感じた。

 極度の苦痛と恐怖と緊張が分泌させていた、おびただしい脳内物質。

 滅茶苦茶になった情緒の中で思い出したのは、あの日、熊と自分の間に躊躇うことなく割って入った兄。

 そして、その背中に隠れた時の、あの安らぎだった。


 肉体的にも精神的にも限界を越えた洋子は、電源コードが切れたように気を失った。

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