第3話
だが案の定、屋敷の玄関を潜った途端、目ざとい玲子に見慣れぬ羽織を見咎められた。
「鳴海さん、その格好はどうしたのです」
鳴海は、俯くしかない。大の男がみっともないと思うが、悪いのは着物を破いて帰ってきた鳴海だ。
「いい加減、大人になって下さいまし」
呆れたように、玲子が嘆く。そして、ふと顔を上げると、廊下の片隅で夫の帰りを出迎えたりんも、なぜか俯いていた。心持ち、その肩が震えているように感じるのは、気のせいか。いや、気のせいではないだろう。
「
大谷家の姉妹で、まだ嫁入り前の上の義姪を呼ぶと、十七になる志津はそっぽを向いた。
「私はやりません」
「まだ、何も言っていないではないか!」
腹を立てて、鳴海は声を荒らげた。だが、その声にいつもの威厳はなく、子供の駄々っ子に等しい。慌ててその横にいたもう一人の義姪である
「私が不器用なのは、よく知っていらっしゃるでしょう?鳴海兄様」
確かにその通りで、鳴海との共通点でもある。那津に針を持たせると、なぜかその縫い目は大小不揃いで、しかも必ず曲がっているのだった。
「まあまあ」
とりなすように、祖母の華が割って入った。
「明日にでも、私が繕いましょうかね。でも、もう日が落ちてきて年寄りの目には疲れるから、今晩は勘弁して下さいませよ」
さすがに、祖母は孫には甘い。だが、三十の男がこんなことで祖母に甘えるのも、どうかと思う。
期待を込めた家族皆の視線が、自ずとりんに向けられる。それを見た鳴海は、反射的に思わず言ってしまった。
「自分で何とかする」
そう告げると、さっさと自室へと足を向けた。だが、自室に戻ると衛守が寛いでいた。そして、腹を抱えておかしそうに笑いを噛み殺している。
「お前、聞いていたな」
決まりが悪くて、鳴海の言葉遣いもつい乱暴になる。
「あれだけ騒いでいれば、ここまで聞こえてきますって」
息も絶え絶えに、あろうことか眦に浮かんだ涙まで拭いながら、衛守が答えた。どうやら、鳴海の所有する書物を借りようと、部屋に入ってきたらしい。その手には、数冊の本が握られていた。
「兄上も、意地を張るのをお止めになってはいかがです?」
一通り笑いを収めると、至極穏やかな声に切り替えて、衛守が述べた。
「意地など……」
弟分に言われるのは、やはり面白くない。鳴海と違い、衛守とアサとの関係は順調だ。だからこそ、鳴海のこともりんのことも、気に掛けてくれているのだろう。それが分かっているから、鳴海も衛守には強く反論出来ないのだ。
「夫婦になって六年でしょう?義姉上は勿論ですけれど、兄上も義姉上と馴染む時機を逃しつづけて、本当はお辛いのではないですか?」
聡い弟というのも困りものであると、鳴海は内心ごちた。
ちなみに、もう一人の義弟ともいうべき信成は、現在、番頭として富津に赴いているのだった。この富津在番の費用は番頭の自費で賄わなければならず、現在の大谷家の実情は、千四百石の家名に反してかなり苦しい。女性陣が鳴海の振る舞いに対して口うるさく言うのは、その台所事情のせいもある。
やれやれとばかりに、衛守が数冊の書を手にして立ち上がった。
「これ、借りていきます。明日にはお返ししますので」
そう言うと、衛守は静かに襖を閉めた。やがて、隣室の衛守の部屋からは、時折書物の捲る音だけが聞こえてきた。
――大谷家一同が揃った夕餉が終わると、鳴海は女中の一人を呼び止めて、明日、着物のほつれを縫ってくれるように頼んだ。さらに、芳之助から借りた羽織に火熨斗を当てておくようにとも。
女中に頼み事をするのも、本当は嫌だった。家人同士、どのような噂話を影でしているかわからないからだ。だが、事態は切迫しているのだから、止むを得ない。
元々、鳴海はそれほど口数が多い男ではない。自室に引き上げる前にちらりと居間を見渡すと、それぞれが食後の茶をすすりながら、寛いでいるようだった。
いつもに増して寡黙だった鳴海にお構いなく、他の家族、特に女性陣は今日も話が弾んでいる。その女性陣の話を、自席で黙って頷きながらふんふんと聞いているのが、りんだった。
何となくその光景を思い返しながら、着ていた物を脱いで浴衣に着替え、脱いだ物を畳んだ。その一端から、紺色の糸が長く伸びているのを見ると、溜息が零れた。
鳴海だって、りんが悪い娘でないことくらい、とうに承知している。だが、大谷家の個性が強い面々に混じって立ち振る舞うならば、あれではいけないとも感じるのだ。上流階級の夫人ともなれば、そうした社交術も求められる。
さらに、あまり身体が丈夫でないらしいというのも、この六年の間に気づいていた。割と身頑健な者が多い大谷家の中で、りんはしばしば体調を崩している。その度に、当主である信義を始め、玲子や華に頭を下げているのが、傍で見ていてやりきれないのだ。
そして、もっともやりきれないのが、そんな妻に優しくしてやれない自分である。鳴海は、男らの中ではやや偏屈とは言われるものの、決して嫌われている様子ではない。大谷本家当主の与兵衛は鳴海の良き相談相手だし、その息子である志摩には、なぜか子供の頃から懐かれている。また、一時江戸で衛守と一緒に下宿していた黒田家の悴も、顔を合わせればなぜかまとわりついてくる。もっとも、若い二人は鳴海をおちょくっているような気もするが、それだけ、鳴海の人柄を慕っているのだろう。
どうして、自分はりんに優しくしてやれないのだろう。何が一番腹立たしいかと問われれば、間違いなくこの自分の性癖なのだった。
「江口家から離縁を申し渡されても、仕方がないか……」
そう呟いてみると、胸の内を寂寥感が覆い尽くした。仕方なく、目を閉じて呼吸を整える。そのうち、寝息を立て始めたことに、鳴海は気づいていなかった。
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