第003話 調子に乗るな、このエロ猫!

 二二時一五分――。


 仕事を終えて自宅に戻ってきた私は、バッグから出したカギを使って玄関のドアを開ける。


「……ただいま」


 一階にコンビニが入った五階建てマンションの、四階にある一室。

 ひとり暮らしなんだから、誰もいないことはわかっている。だけどそうつぶやかずにいられないのは、ひとり暮らしをはじめた一〇年前から変わっていない。


 玄関の中に入り、壁に片手をついて靴を脱ぐ。

 タイル張りの床に視線を落としながら、ときどきふと考えてしまう。



 ――あの時と同じように、また床が光ってしまったらどうしよう。



 と。


 これはもう、一種のトラウマよね。こんどおジイちゃんに会ったら、文句を言ってやろう。

 半年前のあの日あの時、夜遅くに仕事先から帰宅して、同じようにドアを開けて「ただいま」と言ったその瞬間――突然足元が白く光って、私はあまりのまぶしさに目を閉じた。




 ……目を開けると、卓袱台ちゃぶだいのむこう側に和服を着た老人がすわってお茶を飲んでいた。


「忙しいところ、呼び出してすまんのう……」


 長い白髪、長い眉毛まゆげ、長いひげ。その眉毛のせいで、目が開いてるのかどうかもわからない。

 一〇年前に死んだ祖父に、なんとなく似ていなくもない。


 ……あなたは誰? ここは何処どこ


「オーディンという。名前ぐらいはお前さんも知っておるじゃろう」


 知っている。

 北欧神話に出てくる主神にして全知全能の神。神々の黄昏ラグナロク白銀狼フェンリルに食い殺された可哀そうなおジイちゃん……。


「……こほん。そこは思いださんでよい。実際のところは、白銀狼フェンリルの腹の中からヴィーザルが助けてくれたからのう。この話は人間には伝わっておらんようじゃが……」


 そう、それはよかったわね。で、ここはいったい何処なの?


「神の世界じゃ。お前さんにはひとつ仕事を頼みたくて、突然で悪いがここに来てもらった」


 神の世界? ここが? どう見たって、古びた民家の和室じゃない。


「もう何千年と住んでおるからな。そろそろここも建て替えようかと……いや、そんなことはどうでもよい。どうじゃ、引き受けてくれんか?」

「……引き受けるって、まだ何も聞いてませんけど?」


 ようやく声が出た。


「おお、そうじゃった、そうじゃった。頼みたい仕事というのはのう……」


 かくかくしかじか。


 なるほど。要は転生や転移時に相手に渡すスキルや魔道具を売るコンビニを設計しろってことなのね。アニメやラノベで異世界転生だとかの話は知っていたから、神様のお話はなんとなく理解できた。だけど……。


「おジイさん。本当にあなた、神様なの?」

「とんでもない、わしが神様じゃよ」


 ……あなたも好きねえ。


 わかったわ、やるわよ。やればいいんでしょ。

 こう見えても小さな設計事務所に勤める社員だし、一級建築士の免許も四年前に一発合格しているし、学生時代は七年ほどコンビニでアルバイトをしていたし……。


「……で、その仕事が終わったら、私は元の世界に返してもらえるんですか?」

「いや、悪いがそれは無理なんじゃ。この世界は一方通行になっておってのう。二度と元の世界には戻れん。お前さんの存在自体が、元の世界からはもうすっかり消えておる」

「はあああぁーーーっ⁉」


 何てことしてくれるのよ、このクソジジイ!


 私の人生、まだまだこれからだっていうのに!

 それに、異世界で手にしたチート能力を使って現実世界で無双している高校生だっているじゃない⁉


「あれは単なる作り話じゃからのう。現実はそんなに甘くないんじゃ……」


 私は頭を抱えた。元の世界に戻れない……。


 でも、彼氏がいるわけじゃないし、唯一の肉親だった祖父は一〇年前にってるし……引っ越しをしたと思えば、そんなに絶望する話でもないか……。


「そう、引っ越しじゃ、引っ越し。ハート引越センターじゃ」


 何よ、それ。勝手なコトばかり言って。

 まあ、いいわ。わかったわよ。

 でも勝手に連れて来たんだから、私の要望も全部かなえてもらうわよ。


「うむ。お前さんの希望は最大限考慮してやろう。まずは何が望みじゃ?」

「オーディン様からのお仕事依頼としてこの設計を引き受けます。当然、報酬が発生しますけどよろしいですか?」

「ああ、かまわんよ。異世界銀行にお前さんの口座を作って、そこに振り込むとしよう。報酬額は相場の倍でもよいぞ」



 ――こうして、私、桐苳きりつれいの異世界生活がはじまった。




 オーディン様のお宅に居候いそうろうして、私はコンビニの設計を開始した。


 といっても、道具がないと何もできないので、最新式のノートパソコンと使い慣れたCADソフト、それからこれまた最新式のスマホを元の世界から取り寄せてもらった。


「……インターネットじゃと?」

「そうよ。どうにかして元の世界のネットと繋がるようにして。いまどきネットに繋がらないと何もできないのよ」


 私はオーディン様――おジイちゃんにいくつかの要望を出した。


 最初の数日は『オーディン様』と呼んでいたんだけど、そのうちお互いに肩が凝りはじめて、途中から『おジイちゃん』『レイちゃん』と呼び合うようになっている。言ってみれば、祖父と孫娘みたいな関係よね。どことなく本当のお爺ちゃんに似ているし、オーディン様にとっては、二八歳になる私は孫みたいなものだわ。奥さんが何人いて、お孫さんが何人いるのかは知らないけど。


「インターネットか……知恵の神にどうにかしてもらおうかのう」

「知恵の神?」

「うむ。コンビニが出来あがったら、そこのオーナーになる予定じゃ」

「ふうん……」


 どんな人だろうとは思ったけど、とりあえずは設計が先だ。そのうち会えることだろう。


「あと、そのコンビニなんだけど」

「なんじゃ?」

「従業員も地球から連れてくるの?」

「その予定じゃ。元の世界の人間に応対してもらったほうが、転生者たちも安心するじゃろうからの」


 そっか。じゃ、その人たちの住む家のことも考えないとダメだよね。


 コンビニを二四時間営業するとなると、三交代制でも一〇人から一五人くらいは必要になってくる。その人たちの住む家を個別に建てても不経済なだけだし、専用のアパートを建ててそこから出勤するのも億劫おっくうだから、いっそのこと、マンションにしちゃおうか。マンションの一階にコンビニを入れて、二階から上を住居にして……


「ねえ、おジイちゃん」

「なんじゃ?」

「お店のオーナーは何処に住むの?」


 ノートパソコンから顔をあげて、おジイちゃんのほうを見る。おジイちゃんの膝の上には、いつの間にか黒い猫が坐っていた。


 か、可愛い。

 どこの猫? いつからそこにいたの⁉


「……にゃー」


 黒猫は短く鳴くと、私の膝の上に乗ってきた。両手を使って、私の太腿ふとももをふみふみしている。

 そのうち、その手がだんだんと上のほうに伸びてきて、お腹からさらに上へ……。


「…………っ!」


 ちょっ。そこはダメよ。ふみふみしちゃダメ。下着ブラの上に薄手のTシャツだから、ダイレクトに感触が伝わってくる。だから……そこはんじゃダメだってば。


「こほん……」


 おジイちゃんがわざとらしく咳払いした。


「オーナーも、レイちゃんと同じマンションに住みたいそうじゃ」


 りょ、了解。だ、だったら、最上階をオーナーの部屋にしよう。

 こ、こら、そんなに揉んじゃ……。



 ぺしっ。

 調子に乗るな、このエロ猫!


 私は思わず、黒猫の頭をはたいていた。

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