▼【第三十六話】 これが彼女の本性。
遥さんから連絡がきた。
だけど、変な指示を出された。
時刻が指定してあって、ああ、遥さんのマンションはコの字型なんだけど、遥さんの部屋が見える反対側の廊下で待機していてください、で、遥さんが良いというまで絶対に動かないで、と。
訳が分からない。
これで遥さんの本性がわかるってどういうことなんだ。
だけど、遥さんの指示だから僕は大人しくその指示に従う。
でも、なにか嫌な感じがして、心臓が妙に早く鼓動を打ち鳴らしている。
手が妙に汗ばむし、空気がまるで水のようにねっとりと絡みつく気がする。こんな寒い時期で湿度なんかないのに。
指定された時間から三十分過ぎたころだろうか。
結構な寒さの中、不審者に思われないとか、びくびくしながら待っていると変化がおこる。
男が一人、この階にやってきた。
見たことがある。第二営業部の奴だ。いつか、遥さんと話していた奴だ。
嫌な予感がする。とてつもなく嫌な予感がする。
まだ何も起きていないのに呼吸が荒くなる。
僕の予感は当たり、男は遥さんの部屋の前まで行き、ドアが開き、遥さんはなんの抵抗もなくその男を部屋の中に招き入れた。
なんだ、これは。彼女に恋人はいないと言っていたはずだ。
彼女は僕のものになりたい、とも言ってくれたはずだ。
僕はからかわれていただけで、あの男が本当の彼氏なのか?
やっぱり脱衣所にあった男物の歯ブラシと髭剃りのシェーバーはあいつのものなのか?
なんで?
信じられない。なにを? 誰を?
まず理由を聞かないと、聞く? 誰に、誰が?
僕に遥さんから話を聞く権利があるのか? 問い詰める権利が僕にあるのか?
僕はまだ彼女のただの友人のうちの一人でしかない。
聞く権利など、僕にはない。
呼吸が荒い。息苦しい。胸が苦しい。くらくらする。
とてもじゃないが立っていられない。
僕の全身をどうしょうもない苛立ちが走り回って収まらない。
今すぐ走り出して、遥さんに問いただしたい。
それでも僕は、この場から動けない。
まるでその場に縫い付けられたように動くことを僕の足が拒んでいる。もし今、行ってしまえばすべてが終わってしまうと理解しているように。
やっぱり僕は変われなかった。
どこまでも受け身で、どうしょうもなくて、冴えない、何もない男だった。ただそれだけのことだ。
ここからとにかく逃げ出したい。そんな衝動に駆られる。
いや、目の前の柵を飛び越えて、そのまま終わりたい、とさえ思える。
僕は遥さんに何を見せられているんだ。
吐きそうだ。気持ち悪い。
胃がむかむかする。眩暈がする。
息苦しい。空気をもっと吸いたい。
ふらふらして倒れそうになる。
どれくらいの時間が経っただろうか。
僕は時間がたつのも忘れてただ茫然と、その場に泣きながら立ち尽くしたままだ。
再び遥さんの部屋の扉が開かれ、男が出てくる。
その男に遥さんの方から首に手を絡ませ、そのまま顔を近づける……
遠くから見ていても何をしているか同然だった。
僕がしてもらったものとは比べ物にならないほど、長く情熱的な……
それを僕は見て居られなかった。
僕はもう立っていられず、その場にへたり込んでしまう。
これが彼女の本性だと言うのか?
振るならもっとやり方があっただろうに。
こんなひどい振り方はあんまりだ。
僕の頬を大粒の涙がいくつも転がり落ちていく。
胃からこみあげてくるものがあり、我慢できずにそのまま吐き出す。
何も食べていなかったせいか、胃液だけが吐き出され僕の服を汚す。
僕はそれを意に止めている気にもなれない。
もう何も考えれない、考えるのも嫌だ。もう終わりたい。
やはり僕には何もなかった。何もなかったんだ。
そうして、いじけているとスマホが鳴る。
レインで遥さんから、部屋に来てください、待ってます、と連絡が来ている。
これ以上、こんなみじめな僕に何をするんだろうか。
それでも僕はゆっくりと立ち上がり、ふらふらと絶望と共に歩きながら、それでも彼女の部屋を目指す。
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