▼【第六話】 心がざわめく。
これは恋なんだ。
そう思うと昨日までも体調不良が嘘のようだ。逆に活力が溢れてくるようにも感じる。
そう思っていた。
会社のロビーに入ると、今朝も彼女がいた。
けど、彼女の前に男がいる。見たことがある。会社の人間で、たしか、第二営業部の奴だ。
心がざわめく。
楽しそうに、親しく話している。
ああ、そうだよな。彼女は美人だ。恋人がいない訳がない。
ハハッ、何が恋だよ。何が活力が溢れてくるだ。
ただ辛く、惨めな気持ちを味わうだけじゃないか。
はじめっから期待はしてない。
けど、辛いんだ。どうしょうもなく辛いんだ。自分ではどうにもならないほどに。
今日も茫然と仕事をする。
いつも通りお昼を買いにコンビニ行って、弁当を買って会社に戻る。
エレベータを出たところで、彼女と平坂さんとすれ違う。
「おつかれさまです、田沼さん」
平坂さんがそう挨拶をしたので、
「おつかれさまです」
と、平静を装って僕も返事を返す。
そうすると、
「おつかれさまです、田沼さん」
彼女もその美しい声でそう返事を返してくれた。名前を言ってくれた。彼女の口から僕の名を。
それだけで、僕は幸せなのかもしれない。
今朝のことなどすべて吹き飛んでしまった。
ハハッ、本当に僕は馬鹿だ。
午後は仕事はスムーズにできた。
ただ傍から見たら変なテンションだったらしく部長と平坂さんにはまた心配されてしまった。
残業を終えて家に帰る。
残業といってもそれほどあるわけじゃない。八時には会社を出れるのだからまだ楽な部署だ。
家に帰りパソコンを起動しMMOにログインする。
放置しながら今日の夕飯を作る。
ご飯を炊き、適当に帰りに買ってきた総菜をパックからそのまま摘まむ。
酒は飲まない。
そもそも好きな方じゃないので買ってまで飲みたいとも思わない。味もわからないのだから。
今日もギルドの皆から僕のことを色々と聞かれた。
ただ答えることはそれほどない。
僕は元々つまらない男だし、何かあったわけじゃない。
あったことといえば、朝別の男と話しているのを見て悲しくなったことと、名前を呼ばれただけで嬉しくなったことだけだ。
それを正直に話す。
中には、告白して付き合ってしまえばいい、なんていう奴もいるが、僕なんかと付き合ったら彼女が可哀そうだ。だからそんなことはしない、と正直に告げる。
ギルドの皆は僕のことを責任感があって頼れる良い奴といってくれるけど、それは現実の僕を知らないからだ。
現実の僕はただの冴えないダメな男だ。
ただそう言ってもらえることに悪い気はしない。
少しだけ前向きになれる気すらしてしまう。
そうこうしている間に、ご飯を食べ終わり、そのままお風呂に入りシャワーを浴びる。
鏡を見るとやはり鼻の黒ずみが気になる。お腹も出て来た気がする。
今日も丁寧に鼻を洗う。けど、鼻の黒ずみはやはり落ちない。
その後、久しぶりに腹筋すらしてしまう。
何をやってるんだ、僕は本当に。でも、そんな自分が、少しでも変わろうとしている自分が少しだけ誇らしく思える。
今まで身だしなみなんか気にしてこなかった僕が気にする様になるだなんて、いつ振り何だろう?
少なくとも学生の頃は、まだ身だしなみに気を付けていたのにな。
いつから僕はあきらめてしまったのだろう。
そのままお洒落に気を使っていたら僕も少しは変わっていたのだろうか。
今日もチャットをして楽しく過ごすことができた。
明日も頑張れそうな気がする。
ただ今日は寝れなかった。
今朝の光景が、彼女が男と親しげに話していた光景が脳裏からどうしても離れない。
考えないようにしていたが、こうしてベッドに横になるとどうしても考えてしまう。
自然とため息が出る。
僕には関係のない事なのに。気になって仕方がない。
ただ、話していただけだというのに。
彼女の彼氏なのだろうか、付き合っているのだろうか、それともそうじゃないのだろうか。
答えなんて出るわけがない。
僕は彼女のことを何も知らない、ただ一方的に好きになってしまっただけだ。彼女も僕なんかにこんな気持ちを抱かれて迷惑に違いない。
なんで好きになったんだっけ? 鐘の音を聞いたから?
それで性格も何も知らない相手を好きに? 顔だって美人だとは思うが僕のタイプではなかったのに。
でも、なってしまったのだから、それは仕方がない。
ああ、心がざわめく。
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