▼【第二話】 確かに聞こえたんだ。
空耳かと思った。いや、幻聴だ。そうに違いない。
けど、受付嬢の女性と目が合う。
彼女はニコッと笑いかけてくれて軽く会釈をした。
途端に僕の顔が真っ赤になり熱を帯びるのを感じる。
なぜ?
毎日ではないが、微笑みかけられて会釈されることなんてそう珍しくなく今までにもあったことなのに。
慌てた僕も軽く頭を下げて、足早にエレベータに駆け込んで四階のボタンを押す。
息が苦しい。胸が締め付けられる。
何が起きた? 僕にはそのすべてが理解できない。
あの鐘の音は教会の鐘? 僕の運命の相手?
いやいやいやいや、ないないないない。
僕なんかが相手にされるわけがない。
そんなこと誰よりも僕がわかっていることだ。
ただの幻聴だ。そうだ、そうに違いない。昨日も連休と言うことで少し夜更かししてしまったせいだ。
でも、僕には確かに聞こえたんだ。
なんの飾り気もないダウンジャケットを自分の席の背もたれにかけて、自分の席に行き座る。
そして、パソコンの電源を入れる。
少し古いパソコンなので起動までやたらと時間が掛かる。
起動を待っているうちに部長と平坂さんが出社してくる。
「おはようございます、田沼さん」
二人が僕に挨拶をする。
僕も愛想笑いを浮かべて、
「おはようございます」
と返事をする。
何の変りもない、ただの挨拶だ。
パソコンの起動を待つ。
そうしていると対面の席のパソコンのモニターの間から、平坂さんが覗き込んでくる。
「田沼さん、顔色良くないですよ、体調でも悪いんですか?」
「ああ、やっぱりそう見えますか? 昨日少し夜更かししてしまって」
と、苦笑いしながら答える。
それだけじゃないが、そんなこと口に出して言えるわけもない。
幻聴を聞いたなんて言ったら、どんな目で見られるか、わかったものじゃない。
「またゲームですか? いい年なのに」
そう言いつつも平坂さんは、はにかんで見せる。
「すいません、それしか趣味がなくて」
そう返事をして、僕はまた愛想笑いをする。
いい歳してゲームか、仕方がないじゃないか、僕にはそれしかない。僕の居場所はあそこだけしかないのだから。
「またそういうこと言って…… まあ、良いんですけど体調だけは気を付けてくださいね」
「はい、心配させてしまい、もう申し訳ないです」
やっぱり悪い娘じゃないと思う。一応はこんな僕を心配してくれるんだし。
そんな会話をしているとパソコンの起動音が聞こえる。そこで会話は強制的に終了する。
まずはメーラーを開く。
連休中にもメールが何通か届いている。いや、送信履歴を見るに金曜日の深夜に送られてきてるものばかりだ。向こうはこちらとは比べ物にならないほどに大変のようだ。
当たり前だが、そのすべては仕事のメールだ。社内メールだしね。外部と関わり合いのない僕には迷惑メールすら届かないよ。
表計算ソフトで作った自作のやることリストにそのメールの内容を張り付けていく。
仕事量を確認する。
うん、今日も残業確定だ。
無理に今日全部終わらせる必要もないのだけれども、終わらせられるなら終わらせてしまいたい。
仕事にとりかかる前に、おもむろにパソコンで組織表を開く。
そこで、あれ、受付嬢ってどこの所属だ? と頭に疑問がよぎる。
って、何やってんだ、僕は。なに彼女のことを調べようとしているんだ。
これでは、まるでストーカーじゃないか。
やめろやめろやめろ、そんな不毛な事。
何も考えるな、考えるだけ無駄だ。
そうだ無駄だ。そもそも住む世界が違う人間なんだ。なに幻聴きいて、浮足立ってるんだ、僕は。
僕もいい歳だ。思い出せ、僕の顔を。今朝見た鏡の自分の顔を。
あんな冴えない奴、誰が相手をしてくれるというんだ。
馬鹿じゃないのか。寝不足で幻聴を聞いて、名も分からない人を好きになるだなんて。
好きに…… なる? 誰が? 誰を?
僕が? あの人を? なんで? 微笑みかけられたから?
そんなの今日が初めてじゃない。今まで何度もあったことじゃないか。それで好きになるだなんておかしい。
やっぱり鐘の音が聞こえたから? あんなの幻聴じゃないか。何を…… 何を考えているんだ、僕は。
しっかりしてくれよ、本当に。
本当にいい歳なんだから。
でも、確かに聞こえたんだ。
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