無色

笠井 玖郎

「無色というのは、何色にもなれる一方で、何色にもなれないんだ」

 夏の透き通るような青空を見上げ、友人は寂しそうに呟いた。

 逆光になりながら、かろうじて見えたその横顔は、ここではない、どこか遠い日々を見ているようだった。


  *


「ジャック」

 机の上に築かれたカードの山に、さらに一枚積み上げていく。

 カードはいわゆる裏面の状態で、実際に何を出したのかはわからない。

 手札と相手の顔を交互に見ながら、心がざわつくのを感じる。目の前に座る友人の表情は、先ほどから少しも揺るがない。

「……クイーン」

 手札から一枚、山の上へ。手が震えている気がして、少しだけ息を吐く。

「そういえば、お前は今度のゼミ旅行行くのか?」

 視線を感じて、思わずそんな話を振る。だが、友人はじっとこちらを見つめたまま、口を開こうとはしなかった。

「沖縄まで行こうっていう話だろ? 海とか綺麗らしいし、スキューバダイビングの体験とかもあるってさ。泳ぎが苦手な人でもできるって」

「大島」

 冷たい声。中途半端な者がその視線の先に立てば、必ず風穴を開けられることだろう。実際、俺の眉間はもはや穴だらけだった。

「……なんだ」

 じわりと滲む額の汗。口元が引きつるのを感じる。喉が張り付き、口の中が渇く。やたら耳につく、窓の向こうの木々のざわめき。ああ、今日は風が涼しそうだな。そうわざとらしく意識を逸らしてみたものの、目の前の視線からは逃れられやしなかった。

「僕も、君にこれを言うのははばかられるんだけど」

 じゃあ言わないでくれ、とは言えない。それを言ってしまえば、俺の嘘を認めるようなものだ。

「言えば、いいんじゃないか」

「そうか。なら――」

 眼鏡の奥の瞳が、より鋭くなる。

 山の上に置かれたカードに、手がかけられる。

「ダウト」

 めくられたカードは、クイーン、の代わりに出されたダイヤのエースだった。


「大島は本当に嘘が下手だよな」

 結局逆転することもできず、第十三回ダウト選手権は俺の敗北で終わった。これで通算十三敗。これだけ負けを積んだのだ。今日こそ友人の――さくの悔しがる顔を拝めるのではと思ったのだが。

「僕もさほど強い方ではないと思うんだけどね」

「俺が弱いみたいな言い方するなよ……」

 実際弱いじゃないか、と言わんばかりの視線がこちらに飛んでくる。その矢に当たらないように、目線を背けて受け流す。

「ゼミ旅行の話だけど、僕は行かないよ」

「え、なんでだよ」

「真夏に沖縄とか、自殺行為以外の何物でもない」

 言いながら、朔がゼミ室内の空調をいじる。暑いだなんだと言いながらも、朔は長袖のシャツに薄手のニットのベストというスタイルを崩さない。去年の夏も、袖をまくることはあっても半袖にすることはなかった。涼しい恰好すればいいのに、と提案したこともあったが、半袖にしたら夏に負けた気がする、という謎の理論を展開されて以来、服装に関してはつっこまないことにしている。

「でも、大学最後の夏なんだし、皆でバカ騒ぎするのも悪くないだろ」

「うちのゼミに女子が一人でもいたら参加してたかもな」

 野郎ばっかりで海に行ってもな、と眼鏡の奥の目を細める。

 それはまあ、正直俺も思っていた。

「いやでも、ビーチとか行けば水着美女にも出会えるかもよ?」

 青い海、白い砂浜、とくれば、次に来るのは水着美女だろう。同じゼミに美女がいないのであれば、現地に賭ければいいのだ。実際、旅行に参加する野郎共の半分以上は、現地の水着美女目当てである。ちなみに残りの半分は、彼女がいるからと余裕ぶっている。見てろよ、今に逆転してやる。

「残念ながら、水着のお姉さんに見せられるような身体じゃないんでね」

 さして興味もなさそうに、涼やかな顔で肩をすくめて見せる友人。

 すかしたことを。

「そういえばお前、彼女とかいないのか?」

 朔とは去年の春、同じゼミになって初めて知り合った仲だが、そうした話は今まで聞いたことがなかった。服装にやや野暮ったさはあるものの、顔だけ見れば端正な顔つきをしている。彼女の一人や二人、いたとしても不思議ではない。そう思って訊いたのだが、完全に興味本位の質問に、その端正な顔が不愉快そうに歪んだ。

「前も、同じようなこと言ってきたな」

「そうだっけ」

 答えをもらった覚えがないから、てっきり初めて訊いたのかと。友人は片眉だけを吊り上げて、皮肉交じりに笑ってみせる。

「さぞおモテになるんでしょうな、だったかな。初対面でそんなこと言われるとは思ってもいなかったから、よく覚えてるよ」

「……あー」

 思い出した。

 ゼミの初顔合わせの飲み会で、それなりに酒の回った頭で、確かそんなことを言ったのだ。

 お前、眼鏡外したらイケメンそうだよな、さぞかしおモテになるんでしょうな。とかなんとか。

 そしてそれに対する答えが、鼻でわらうという朔の行動だった。

 よく、仲良くなれたな。俺。

「その……、悪い」

「別に、酔ってたんだろ。気にしてないよ」

 トランプを片付ける横顔は、言葉通り、本当に気にしてはいないようだった。綺麗になった机の上を、トートバッグから取り出された紙束の山が占拠する。サンプル数欲しいから、大島も答えておいて、とそのうちの一部をこちらに投げて寄越す。几帳面に整えてから綴じたのだろう、断面がぴしりと揃えられた紙束は、どうやら卒業論文用の調査用紙のようだった。堅苦しい表題が書かれた表紙を裏にして、曖昧に答えてから友人を見る。

「……で、どうなんだよ。彼女」

「まだ引っ張るのか、その話」

「今までまともに答えてくれなかったじゃん」

 これ答えるからさ、と受け取った用紙を広げる。別に最初から回答する気でいたのだが、普段そういった話をしないだけに、こういうタイミングでもないと話してくれないような気がした。

 最初は困惑気味だった表情も、次第に呆れ顔に移っていく。そして観念したかのように、ひとつ、大きくため息をついた。

「昔は、いたよ。価値観が合わなくて別れたけどね」

「今はいないのか?」

「いないし、特に女性と付き合いたいとは思わないかな」

 卒論もあるしね、と左上の角が折れた調査用紙を抱えて立ち上がり、ゼミ室の窓際にある、備え付けのパソコンの電源を入れる。データの入力でもするのだろう。

「というより、女性に興味がなくなってきた、というのが正しいかもな」

「男に興味が出てきた、とか?」

 冗談のつもりで言った言葉に、朔の動きが止まる。その朔の反応に、俺の動きも止まる。

 ……そういえば、今ここには俺と朔以外に誰もいない。

 北部屋のゼミ室内は薄暗く、ブラインドの隙間から入ってくる光は頼りない。周囲には人気もなく、聞こえてくる音といえば、空調機の機械的な音と葉擦はずれの音。そしてやたらうるさく響く心臓の音。

 パソコンに向かうため、こちらに背を向けていた朔が振り返る。逆光になった友人の顔を見て、一年前のあの夏の記憶が脳裏をかすめる。

「さ、朔さん?」

 そう呼びかけた声は、少し震えていたかもしれない。表情の読めない友人の顔から、目を離すことができない。

「お、おい。なんとか言えよ」

 一歩、こちらに歩み寄る朔。どうすればいいのかわからず、俺は立ち上がることさえできない。

「大島」

「待てよ、言っとくけど俺はノンケだ。ノーマルだ。男同士っていうのはちょっと、そうだな、無理だ。いや、朔とは友達ではいたいけど、それ以上は、な? わかるだろ?」

 二歩、三歩、と間隔を詰めてくる。さほど広くないゼミ室で、一歩というのは致命的だ。あと一歩踏み出せば、その手は俺に届くだろう。

「大島――」

「だからその、ごめん。俺はその――」

「なんで僕が君に言い寄っているような言われ方をされなきゃいけないんだ」

 はあ、というため息が聞こえてくる。目を凝らせば、そこに立っていたのは呆れ顔をした友人だった。男を喰わんとする狩人は、どこにもいなかった。

「女に興味がないなら、男に興味があるんじゃないか、という短絡的な思考に呆れて、声も出なかっただけなんだけどね。告白したわけでもないのに振られるとは」

 俺の横を通り過ぎ、電気をつける。昼間とはいえ、電気がないとこの部屋はやはり薄暗い。だが、恥ずかしい勘違いをした直後に明るくされるのは、なんとなくはずかしめられているような気がしてならない。

「まあ、君が同性愛者ではないというのは、よくわかったよ」

「すみません……」

「コーヒー、飲むか」

「いただきます……」

 穴があったら入りたい。というかむしろ、埋まりたい。


 その日の夜、夢の中に朔が現れた。

 夢の内容については、俺の沽券にかかわるので、伏せさせてもらう。

 ただ、一言だけ言うのであれば……すごく、積極的だった。


  *


 翌朝。大学直通バスを降りて時計を確認すると、一限目が始まるにはまだ時間があった。構内のコンビニにでも寄るかと進路を変えたところで、見慣れた横顔にふと足を止める。

 教室へ向かう途中なのだろう、構内で見かけた朔は、女性陣に取り囲まれていた。

 あれだけはっきりと女性に興味がない、と言っていたのに、と思いつつ遠巻きに見ていると、ひとり、やけに朔との距離が近い女性がいた。

 小柄な、美人というよりは、可愛い女の子、といった容貌。上目遣いは決してあざとすぎず、それでいて小悪魔的な印象を受ける。

 そんな女の子に腕を取られ、朔は平然とした表情で話している。

 まるで、それが当然のことのように。

「朔」

「ああ、大島か。今日は早いね」

 話しかけられても眉一つ動かさず、しかしさりげなく組んでいた腕を離して距離を取る。そのしぐさが、何故か慣れているように感じられた。

「あ、朔ちゃん、次テニスだからそろそろ行くね」

 そう告げて、彼女たちはばらばらと去っていく。

 少し悪いことをしたかもしれない、と思う反面、少しだけ満足している自分に気付く。

 ……満足? 一体何に。

「女には興味ないんじゃなかったのか」

 内心の動揺が悟られないようにと、少し突き放すような言い方をした。

「嫉妬でもしてるのか」

「そ、そんなわけないだろ!」

 そう叫んでおいて、その声が予想以上に大きかったことに、自分自身が驚く。

 なんだ、これは。

 これじゃあまるで、本当に嫉妬しているみたいじゃないか。

「そんなに全力で否定するなよ。友人がモテて羨ましいって、素直に言えばいいのに」

 いたずらっぽく、朔が笑う。

「あ……そう、だな。羨ましい」

 そっちか、と思う自分がいた。

 そう思う自分が、わからなかった。

 そっち、とは、どっちのことだ?

 俺は今、何に対して嫉妬した?

「どうした、顔色悪いぞ」

 眼鏡を通さずに覗き込んでくる目は、やけに色っぽくて。

 その端正な顔立ちも、長い睫毛も、赤く柔らかそうな唇も。

「俺、もう行くわ」

 これ以上、見てはいけないと思った。

 何事かを言う朔の声を無視して、次の講義のある教室へと走った。余計なことを考えないように。芽生えた何かを振り切るために。


  *


「俺はホモじゃない」

「急にどうした」

 一限目の講義が終わるなり、文字通りゼミ室に転がり込んだ俺を、同じゼミ生の世田せたが見下ろす。怪訝けげんそうな目で。

「聞いてくれるか、友よ」

「要は、聞けってことだろ」

 とりあえず座れよ、と椅子を勧めてくれる。確かに床でくずおれたままでは、聞く方も話す方もやりにくい。素直に従うことにした。ゼミ室の中央に置かれた大机の、右端の椅子に腰掛けて、その正面に世田が座る。

「なんだ、気になる男でもできたのか」

「話を振ってくれるのは嬉しいが誤解だ。断じて誤解だ。俺はホモじゃない」

「わかったわかった。で、誰なんだ? その相手は」

 話が進まなさそうなのを見越してか、結論を催促してくる。

 しかし、それは今一番言いたくないことでもあった。

 それを言ってしまうことは、世田に弱みを握られることと同義だからだ。世田だから言いたくないという意味ではない。ただ単に、他人に弱みを握られたくないという話だ。

 俺が黙っている様子を、世田はじっと見つめていたが、やがてひとつため息をついて、

「朔か」

 と当てにきた。

 ……貴様、何故わかった。

「まあ、朔は男らしいというよりは、美形って感じだしな。わからなくもないが」

「いや、相手が朔だっていう前提で続けるなよ」

「違うのか?」

「う」

 違わなかった。

 あまりの直球に受け止めることしかできない。キャッチボールというよりデッドボールをくらった気分だ。

「でも今まで普通だったろ? なんかあったのか」

「……それは」

 うまく説明できない俺に、流れを提示してくれる世田。おかげで昨日起こった出来事と、そして今朝のやりとりを、あらかた説明することができた。

 それと同時に、あれからまだ一日しか経っていないことに、ひそかに驚愕した。

 たった一日で、人間これほど意識するようになるのか、と。

「大島、結論から言っていいか」

「うん、一回オブラートに包んでもらっていいか」

 おもむろに口を開いた世田に、一度制止をかける。すでに直球ど真ん中のストレートをくらった後だ。今は一言が致命傷になりかねない。

 言われて少し考え込んでいた世田だったが、少しして、うん、よし、と小さく呟きが聞こえてきた。

 何故か、嫌な予感しかしない。

「大島、お前、朔のこと好きだと思うぞ」

「ガッデム!」

 オブラートなんてなかった。

 一撃必殺の魔弾、剛速球のデッドボールだった。何が「よし」なんだよ。よくねえよ。

「いや、考えてもみろ。じりじりと詰め寄られる恐怖を恋だと勘違いしたにしても、例えば相手が俺だったらどう思うよ」

 言われて、思考を巡らせる。

 世田に、襲われる、俺。

「……ぞっとする」

「なんか腹立つけど、まあそうだろ。ましてやその後夢に出てきたとしても、だ」

「恐怖しかない」

「よし、後で一発殴らせろ。まあ要はそういうことだ。そういうシチュエーションになったからじゃなくて、相手が朔だったから、それだけ意識してるんだろ」

 ……反論らしい反論が思い浮かばない。

「ホモかどうかは一旦棚上げにして、それだけは認めたらどうだ」

 そうは言っても、認めてしまったら何かを失う気がする。

 何かは、わからないけど。

「ちなみにさ、お前、夢の中ではどっち側だったんだよ」

「どっち、ってなんだよ」

「朔に良くしてもらったのか、良くしてあげたのか」

 言うなよ。言われなくてもなんとなくわかってたわ。

「ふむ。反応を見るに……前者だな?」

 ははあん、と訳知り顔で人の悪い笑みを浮かべる目の前の友人。

 ……相談する相手を間違えたかもしれない。


  *


 夕方、突然降りだした雨によって、ゼミ室内はゼミ生で溢れかえっていた。雨が弱まるのを待つ者もいれば、置き傘だけ取りに来た奴もいた。部屋の中は全体的に気だるげで、大半がしばらく止みそうにない雨を、だらりと見上げている。

 その中に朔の姿はなかった。

「大島ぁ、朔ちゃん本当にゼミ旅行来ねえの?」

 俺と同様かったるそうに、同期の山口がスマホをいじる。最近新しいアプリを入れたはいいが、ガチャのレア排出率が悪いのなんの、と騒いでいたのを思い出す。

「野郎ばっかの旅行は嫌だってよ」

「まじか……いや、だからこそ朔ちゃんに華になってもらおうと思ってたのに……」

 理系でも男子校でもないうちのゼミで、女子がいないと嘆くことになろうとは。

 ちなみに、一つ下の三年生も同様なため、ゼミ全体で旅行に行くとしても野郎率百パーセントなのだった。呪いでもかけられてるんじゃないのか。

「最後くらいパーッとやろうってのに、ちょっと付き合い悪いよな」

「まあでも、去年も来なかったから期待はしてなかったけどな。飲み会はいっつも参加してんのになぁ」

 そう。割と頻繁にある飲み会には、朔はほぼ毎回参加していた。

 朔の酒豪っぷりはゼミ内でも有名で、競った末につぶされた輩も数知れず。飲んでもほとんど顔色を変えず、酔ったところも一度しか見たことがない。

 その酔い具合も非常にライトで、絡んでくる訳でもなければ、泣き上戸になるわけでもない。笑い上戸という程ではないが、普段の落ちついた朔からするとよく笑う、という程度だ。だが、性質たちの悪いことに、酔ったヤツは妙に色っぽい。俺も、熱で少し潤んだ流し目に、不覚にもドキリとしてしまった覚えがある。その上本人は無自覚なため、時々事故が起こってしまう。

 たとえばそう、酔いに任せて本気で告白してしまうやつが出てくるような。

 そういう事故があったからこそ、否定し続けねばならない。

 俺はホモではないのだ、と。

「俺が思うにさ、朔ちゃんガリガリなんじゃねえの。だから、人前で脱ぐような場所に行きたくないとか」

 山口の声ではっとして、瞼の裏に残る朔の姿を頭の隅へと追いやる。一瞬自分の下半身を確認してしまったことに、深い意味などない。

「あ、ああ。その可能性は高いな。美女に見せられる身体じゃないって言ってたし」

「あーやっぱりな。朔ちゃんそういうの気にしそうだもんな」

「……ところで、さっきから気になってたんだけど、お前って前から朔ちゃんって呼んでたっけ」

 語感はいいが、妙に親しげなその呼称が気にならないはずもなく。

 やっぱり気になっちゃうかー、と言う山口の表情は緩み切っていて。

 その様子が何故だか、言いようのない感情を渦巻かせる。

 息が詰まるような、何かに締めつけられるような、不快なようで、そうでないような。判然としない、知っているはずのその感情を、必死になかったことにする。

 それはきっと、気付いてはいけないものなのだ。

「いや実はさ、昼飯買いにコンビニ行ったら、朔ちゃんが女の子に囲まれて、ハーレム状態になっててさ」

 もやり、と何かが心に広がろうとする。今朝のあの光景が目の裏に蘇りかけて、ゆるく頭を振ってそれを追い出す。別に思い出さなくてもいいことだ。そう言い聞かせている自分に気付いて、また嫌気がさす。何を気にすることがある。何も……ないはずじゃないか。

「んで、俺も混ぜろよーって飛び込んでったら意外と意気投合しちゃってさー」

「へえ」

「女子たちが朔ちゃん朔ちゃん、って呼ぶもんだから、俺まで朔ちゃんって呼ぶようになっちゃってさー」

「…………」

「いやでも本当、朔ちゃんさまさまって感じだわ。その女の子たちがさ、また一緒にご飯食べよー、だって! あー、とうとう俺にも春きちゃうんじゃね!?」

 なはは、と鼻の下を存分に伸ばしながら、大層楽しそうに語る、彼女いない歴イコール年齢の山口氏。黒い渦に意識が囚われて、いつのまにか朔から焦点がずれていたことに気が付いたのは、少し後になってからだった。

 ……ほらみろ、何もなかったじゃないか。

「今度会ったら朔ちゃんに礼言わねえとなー……って、何持ってんの?」

「何って、ホームセンターで三千円弱の金属メジャーですが」

「ほう、結構いいメジャーだな。で、なんで伸ばした状態で近づけてくんの?」

「いや、よく伸びる鼻の下だったもんで、測ってみようかなと」

「怖えよ! だってそれストッパー外したらすごい勢いで戻るやつじゃん! 切れちゃうやつじゃん!」

「構わん、お前なんか切れてしまえ」

「ひでえ!!」

 行き場のない徒労感を、とりあえず目の前にいた山口にぶつけることによってやり過ごす。

 いわゆる、八つ当たりだった。

 腕をつかみ合い、じりじりとメジャーを近付けては元の体勢へを繰り返す。そんな俺たちを囃し立てるゼミ生はいれど、止めるゼミ生は一人もいないのだった。


  *


「――それで、夏休みは沖縄の海を満喫してきたと」

「はい」

 こん、と朔の持っていたボールペンが机を叩く。普段であれば気にもとめないような音なのに、その音一つで息の根さえも止められるようだった。

「学生最後の夏休みだからね。それはそれで有意義な時間だったろうね」

「はい。大変楽しゅうございました」

 空調の効いたゼミ室内までは、厳しい残暑も届かない。

 しかし俺の全身には、先程から大量の嫌な汗が滴っていた。

「なあ大島、ひとつ訊いてもいいか?」

 その言葉に、どれだけ寿命を縮められたか。世田は、一番突かれたくない一点を的確に攻撃してくるが、朔の場合は事実を淡々と述べていく。だがこの状況では、おそらく二人とも同じところを突いてくるだろう。

「朔様、できればその、多少やわらかめに述べていただけると幸いにございます」

 脱水症状を引き起こしかねないレベルの発汗に、自分でも少し不安になる。しかし、だからといってこの状況で、飲み物に手を伸ばす気にはなれなかった。

 指先ひとつでも動かしたら、やられる。

 そんな緊張感の中、俺はただ汗を流し続けることしかできない。

 やがて、オブラートに包み終えたのか、目の前で圧を発し続けている朔が、その重々しい口を開いた。

「進捗、どうですか」

「うわああああああ」

 容赦なくノックアウト級の一撃を放ってくるあたり、さすがは朔だった。

 とはいえ、俺もこの貴重な夏休みを無駄に過ごすつもりはなかった。ゼミ旅行に必要な費用を計算して、バイトも入れて、計画は完璧なはずだった。卒論だって、休み前から先行研究の論文を印刷して、いつでも読めるようにしておいた。休み明けには卒論のベースが出来てるはずだったんだ。そう、当初の予定では。

 それが夏休み明けになって、財布の中身も進捗も以前と変わらないというこの事態は、一体どういうことなのか。

「いいか、今更嘆いても何も変わらない。まずは現状把握するぞ。調査は?」

「これからです」

「対象は?」

「ざっくりと」

「論題は?」

「仮題なら」

「今何月?」

「九月末」

「締め切りは?」

「十二月」

 着々と首が締まってきていることを、淡々と確認してくれる朔さん。そして一通り確認してため息をつく俺。

「調査用紙作成に一週間。調査と結果集計に二、三週間。そこからデータを分析して、仮説を検証して、仮説と得られた結果が違った場合はその理由を考察し、その上で卒論を書かなきゃいけない訳だけど……」

 ちゃんとわかってるよな、と視線が飛ぶ。こくこくと小刻みに頷いてみせたが、正直調査さえ終われば、あとは考えながら書けばいいだろ、と高をくくっていた。

 まあ、それでも時間がないことには変わりはないんだけど。十二月の頭には教授にも見せなきゃいけないし。

「一応言うけど、着地点が定まっていないうちから書き始めると、前半と後半で主張に矛盾が出たりするからな」

 ……ばれてる。

「先行研究はどれくらい見てるんだ」

 呆れ顔で訊ねながら、まあ使えるのは二、三割がいいとこだろうけど、と現実を突きつけることも忘れない。

「せ、先行研究って、どれくらい見た方がいいんですかね……?」

 自分でも今更だとは思う。だが、確認しない訳にもいかないだろうと訊いたのだが。悪い意味で筆舌に尽くしがたい表情をした彼を見るのは、後にも先にもこれっきりだろう。

 というか、できればもうお目にかかりたくない。

「あ、でも調査用紙は出来てるから、まあ、なんとか、ならないですかね」

「先行研究も分析方法も仮説も怪しいように聞こえたんだけどね……」

 眼鏡の向こう側で、荒んだ目が虚空に投げかけられていた。

 あまりにも居たたまれない空気に、ひとまずUSBに入れていた調査用紙を印刷してお茶を濁す。じっとりと重たい視線を背中に感じながら、必死に気付かない振りをする。

 やがて呆れたような、わざとじゃないかと思うほど深く大きなため息が背後から聞こえてくる。ごめんなさい。

「……坂巻先生と山本先生が一、二年生の必修の講義持ってるから、そこで調査させてもらうのが一番手っ取り早いだろうね。あとは安藤先生に頼めば、サンプル数自体は問題ないだろう。もちろん調査内容にもよるけど」

「そ、そっか……」

「安藤先生とはそれなりに話すし、僕からも頼んでみるよ」

 一部ちょうだい、と手を差し伸べる姿は、窓から差し込んでくる光と相まって、神々しささえ感じられた。ブラインド越しの光ではあるのだが。

「ありがてえ……お前になら抱かれてもいいわ……」

「ははは、それは僕が無理だな」

「あ、ついでだし、回答してもらっていいか?」

 ちょうど印刷したことだし、と手渡そうとして、朔の表情が固まっていることに気付く。

「朔?」

「あ――いや、後で答えとくよ」

 ぎこちなく視線を逸らして、立ち上がる。

「考察の構成、変更しないといけないんだ。データも家だし、今日は早めに帰るよ」

「おう、そっか……」

 受け取った調査用紙を鞄にしまい込んで、暑い外に出る前にと、長袖のシャツを捲り上げて荷物を肩にかける。

 どこか不自然な友人を見送って、一人、ゼミ室に残される。

 小さな違和感を覚えながら。

「あいつ、あんなに腕細かったっけ」


  *


 その違和感は、妙な存在感をもって頭の隅に残り続けた。

 普段であれば軽く流してしまうであろうそれを、あの時の不自然さが引き止める。

「違和感、ね」

 思えば、これまでも違和感はあったのだ。ただ、それは魚の小骨のようなもので、引っかかるまでは強く意識されないというだけの話で。

 飲み会は参加しても、旅行には参加しない。

 旅行先は、海と温泉。

 やけに距離の近い女友達。

 朔ちゃんというあだ名。

 第一ボタンまできっちりと止められたシャツに、体型を隠すような、だぼっとしたニットのベスト。

 細い腕、長い睫毛、赤い唇。

 回答されない調査用紙。あの時朔は、内容までは見ていなかったはずなのに。

 ただ調査用紙の形式として、必ず用意されている設問は、年齢と――性別。

 そして――一年前のあの夏の、謎めいた言葉。


 ――無色というのは、何色にもなれる一方で、何色にもなれないんだ。


 もし、あの言葉が自分自身を指していたのだとしたら?

 どんなに男のように振舞っても――女でしかない自分を疎んでいたのだとしたら?

「そんな訳、ないか」

 こんなものはただの妄想で、空想で。状況証拠にそれらしく肉付けしただけの、無意味な推論だ。

 そう思っているはずなのに、何故かその仮説がこびりついて離れなかった。


  *


 結局仮説は仮説のままに、季節は駆け足で過ぎ去った。

 卒業論文提出前夜、それまで遊びほうけていた連中とともに、こっそりとゼミ室で夜を明かし、提出締め切りの夕方五時になんとか滑り込んだ。その場にいた全員が、達成感と開放感でハイになっていて、余裕で提出した朔と世田、それと何名かのゼミ生に生暖かい目を向けられていた。

 それが、とても楽しくて。

 もうすぐ卒業してしまうことが、あまりに惜しかった。

 卒業し、就職すれば、こうして集まることも、バカ騒ぎすることもなくなるのだろうと思うと。

 今、この瞬間は、もう訪れることはないのだと思うと。

「卒業、したくねえなぁ」

 知らず、そんな言葉が零れ落ちた。

「……そうだね。僕も、そう思うよ」

 答えたのは、朔だった。

 騒ぐ連中を見る目はとても穏やかで、ほんの少し、寂しそうに見えた。

「お前、どこに就職するんだっけ」

「在宅でできる仕事でね。一般企業とは、またちょっと違うとこかな」

「てっきり大学院とか行くのかと思ってた」

 はたから見ても、研究に対する熱意や姿勢は、他のどの生徒より熱量のあるものに思えたから。うちの大学か、他の大学か、いずれにせよ進学するのだろうと、漠然と思っていた。

「残念ながら、熱しやすく冷めやすい性質でね。研究者にはあんまり向いてないんじゃないかな」

「そういうもんか」

「それに、他にも興味のあることはたくさんあるしね。教授にも、進学しないのかって言われたけど」

 大学教師にも向いてないだろうからね。そう言って首を竦める姿はどこか晴れ晴れとしていて、未練や後悔は見られなかった。

「大島は?」

「四月からサラリーマンだよ。あー、ブラックじゃなきゃいいんだけど」

 うまくいかない就職活動に嫌気がさして、適当に選んだ企業に、それなりの姿勢で挑んで貰った内定。本当にそこでよかったのかと言われれば、必ずしも最善でないことはよく理解していたが、今更だった。

 こんな決め方、朔ならきっと、しないだろうな。

「後悔でもしてるのか」

 眼鏡越しに覗き込んでくる瞳。そう、確かに俺は後悔している。

 今まで適当に済ませてきてしまった様々に、やり過ごしてしまった過去に。

 だからできれば――もう、後悔はしたくない。

「なあ朔、この後、時間あるか」





  *


 人に聞かれる可能性は、出来るだけ排除したかった。

 その方が、俺にとっても朔にとっても、いいような気がして。

 飲み会の帰りによく寄っていたカラオケボックス。受付を済ませ、個室に入る。

 大画面の液晶が流行りの曲を歌い出し、デッキが色鮮やかに光り出す。いつも通りの光景は多少緊張を和らげたが、今はその騒がしさが少し邪魔だった。音量をオフにするだけではまだ足りず、液晶の裏側の電源を落とした。

 部屋の外では浮かれた連中が定番曲をわめき立て、店内BGMがそれを濁している。

 静かなる喧噪けんそうに包まれながら、若干の気まずさを覚えながらも、少し距離をおいてソファに腰掛ける。

「それで、話があるんだろう?」

 いつまでも話を切り出せずにいる俺に、朔が先手を打つ。

 条件はすべて整ったのだ。俺の感情以外は。

 何か言わなければならない。そんな焦りばかりが先行していく。

「そう、話が、あるんだ」

 馬鹿な回答だ。そう思いながらも、次の言葉を探す。訊きたいことも、言いたいことも決まっている。だが、そこまでに至る道のりは、未だ見えてはこなかった。

 だから、遠回りはやめることにした。

「ずっと考えてたんだ。お前のこと」

「……それは光栄だね」

「茶化すなよ。俺は、その……ずっと、気になってたんだ」

 ずっと言えなかったこと。訊けなかったこと。

 言えるのは、きっと今しかないのだ。

「お前は、女なのか?」

 訊けば、壊れてしまうと思った。

 だから今まで、訊けなかった。

 それを。

「君も、そんなことを気にするんだね」

 否定も肯定も、朔はしなかった。

 だが、それでも確かに、それは肯定だった。

 それで、すべてがつながっていく。

 目の前にいる彼は――彼女なのだ。

「……わからない、ということに対して、人は本能的に不快感を覚えるものだ」

 唐突に、脈絡もなく。語る声に先程までの穏やかさはない。

「それは予測可能性の低さが、自身の生存可能性の低下に繋がりかねないからだろう。だからこそ、人はそれから自身を遠ざけるか、自身の理解できる領域内まで、それを落とし込む」

 視線を逸らし、淡々と。感情一つ滲ませずに、朔は語り続ける。

「だがたとえ落とし込んだとしても、実際にはそれは理解などではない。理解した気になるだけだ。それが事実と異なろうと、その人にとっては関係がない。わからない部分を自身の理解で埋め合わせ、それで安心を、安定を獲得できるのであれば、その正否は問題にはならないからだ」

「なにが、言いたいんだよ」

「君が僕に性別を問い、迂遠うえんな肯定をもって君は満足する。そこにどのような背景があろうと、事実が隠されていようと、それが君にとって都合のいい回答だから」

 そう口許だけで笑う。

 何の感情も伴わない瞳をして。

「理由を求めるとすれば、それはまだ十分に納得できていない場合であって、わからないことを埋めたいから、という理由でしかないんじゃないかと、僕は思っている」

「だから、何が――」

「君は、それを訊いて、どうしたいんだ」

 そこで、ようやく気付いた。

 感情が伴っていない訳ではなく――もう擦り切れていたのだということに。

 あの日言っていた、価値観が合わなくて別れた。その言葉の意味は、きっと。

「君が疑問に感じるのはもっともだし、それを解決しようとしたのも理解できる。確かに僕は身体的には女性に属する。だが、それがどうした。僕が君にそれを言わなかった理由は、その必要性を感じなかったからだ。僕が君の調査用紙に答えなかったのは、君が性別に固執していることを認識していたからだ。君が知れば、こうなることは予測できていたからだ。僕が迂遠な肯定しかしなかった理由は、それが事実でもあり事実でないからだ。僕は――」

 強い熱量。だがそれを、朔は羅列された単語のように唱え、

「僕には、性別なんてどうだっていい」

 疲れ果てたように、そう零した。


 朔にとってそれは、秘密でもなんでもなかった。

 秘密にしたのは、俺だった。

「責めている訳じゃない。今までにもあったことだ。きっと大多数の人は、そうなんだろう」

 その言葉すら、お前は大多数のうちの一人でしかないのだと突きつけられているように感じられた。

「なんにも、わかってなかったんだな。俺」

「他人なんだ。理解できないのが当然だろう」

 割り切ったように、朔は言う。

 本心は、わからなかった。

 ただ一つ、わかることがあるとすれば、過去に性別によって振り回されたのだろうということだけ。

 でもそれさえも、結局のところは俺の想像にすぎなくて。

 理解した気になるだけ。

 その言葉だけが、深く突き刺さっていた。

「……あと三十分か。何か歌っていくか?」

 差し出されたマイクを、俺は受け取れなかった。


 別れ際、少しだけ寂しそうに、朔は笑った。

「僕は、君を友人だと思ってる。だから……今まで通り、接してくれないか」

 俺はそれに、何と答えたんだったか。

 思い出せなかった。


  *


 卒論の提出以降、冬休みも近いとあって、ゼミ室内も人はまばらだった。たまに覗きに来るものの、俺自身ゼミ室からは足が遠のきがちだった。

 あれ以来、朔とは会っても、まともに会話できなかった。

 あのカラオケボックスでの一件が頭をよぎってしまうから、というのもある。だがそれ以上に、俺にはもう、朔が女の子にしか見えなくなっていたから。

 性別なんてどうだっていい。そう言い放った朔に、そんな扱いもできなくて。

 かといって男友達のように振舞うのも、できなくて。

 ぎこちなさは、日々増していく。

「大島ー、生きてるかー」

 大机に突っ伏していた俺の腕を、世田がシャーペンらしきものでつついてくる。

 地味に痛い。

「生きてはいる……」

 このまま続けられてはたまらないので、重たい身体を引きはがす。見上げれば、そこにはいつもと変わらぬ友人、いや悪友がいた。持っていたのはシャーペンではなく、ボールペンだったらしく、腕にはいくつもの黒い点々がついていた。

「死人みたいな顔だな。何かあったのか」

「なんか、もう、どう接したらいいのかわからない……」

 童貞みたいな発言だな、とツッコまれるも、聞こえなかったことにする。繊細になってる時にそういうことを言うな。

「なんだ、朔に告白して玉砕でもしたのか」

「まだその方がよかったかもしれない」

「あー、なんかこじらせてんな。この後講義は?」

「入ってない……」

「よし、じゃあ呑みに行くぞ」


  *


 友人に引きずられるようにして、駅前まで歩いた。途中街路樹にぶつかりそうになりながらも、なんとかいつもの店にたどり着く。

「あ、ビール二つと枝豆、たこわさ、だし巻きお願いします」

 入店してすぐに、世田がメニューも見ずに注文する。ビールは苦手だったのだが、それを主張するだけの気力はなかった。

「それで、朔がらみなのか」

 注文した品々が来るなり、本題を切り出してくる。

 下手な励ましをされるよりは、今はそれがありがたい。ちびちびと、ビールを少しずつ消費しながら、まあ、と弱く肯定する。

「卒論出してからだろ、何かあったのか」

「朔に、女なのかって訊いた」

「それは、駄目だな……」

 驚くどころか、世田は納得したかのような口ぶりで唸る。

「え、ちょっと待って、お前知ってたの?」

「まあ、同じ高校だったし」

 クラスは違ったけどなと、さも当然のように言い放つ。

 ……まったくもって聞いてないんですが。

「あんまり話したことはなかったけど、異色な感じはあったな。超然としてるというか。誰にでも分け隔てなく接するから、男女問わずモテてたし。体育の時はクラス混合で同じ授業だったけど、負けず嫌いでさ。男子相手でも全力で向かってきたりしてな」

「そりゃあ……女子扱いも嫌がりそうですね」

 なんとなく想像できる。とはいえ、今更どう接したらいいのか。

「女子扱い、ね。そういうことか」

 たこわさをつまみつつ、ビールを飲み干す。ジョッキがあっという間に空になるあたり、こいつも朔と張る呑み助だ。

 ビールの次は日本酒を頼み、テーブルに置かれるなり、お猪口を空に。この調子なら、徳利が空になるのも時間の問題だろう。頼むから自分で呑んだ分は払ってくれよと願いつつ、目の前のだし巻きに箸を伸ばす。

「俺がお前から朔の相談されたとき、なんで朔が女だって言わなかったと思う」

「それは……」

「言えば、お前が朔を女として見るのが目に見えてたからだよ」

 ぎくりとする。

 だが、反論はできない。できるはずもない。

 俺には、女の子を男扱いすることなんて、できないんだから。

「一度だけ、二人で吞んだことがあってな。そのとき言ってたよ。僕はどちらでもないんだって」

「どちらでも、ない?」

「当てはまる性別がないんだと。確かに身体は女だが、性自認とやらは女ではない。かといって男かと言われれば、そういう訳でもないそうだ」

「中性、ってことか?」

「いや……俺にもそのへんはわからんが、性という概念自体、自分に適用することに違和感があるんだと」

「違和感、か」

 身体的には女性であっても、自身の認識ではどちらでもないから。

 性別という枠組みの、外側にいるから。

「ただ話をするだけなのに、どうして性別なんてものが必要なんだろうね、なんて話もしてたっけな」

 それはまるで、性別を単なるコードとしてしか見ていないかのような。零か一か、それ以上の意味などないのだと言うような。

 だから、どうだっていい、なんて。

 だからどうした、なんて。

「まあ、俺からしたら――そんな話をする時点で、誰より性別に固執してるのは、お前の方なんじゃないのかって思えたけどな」

「……あ」

 すとん、と何かが落ちる音がした。

 去年の、あの夏の言葉は。

 ……だとしたら、まだ俺はきっと伝えなければならない。

 言わなければならないことが、あるはずだ。


  *


「大島」

 ゼミ室の前まで戻ると、こちらが探すよりも早く、友人が声をかけてくる。

 その硝子越しの瞳は、あの日と同じ色をしていた。

 カラオケ店で別れたあの日。そして――一年前、空を見上げたあの日と。

 ちょっといいかな、と手招きされて、ゼミ室から少し離れた廊下へと移る。

「僕らももう、卒業だな」

「……そうだな」

 久しぶりに聞いた声に覇気はなく、その背はいつもより小さく見えた。

 北側の廊下に、日は差し込まない。染み入るような寒さこそないが、春はまだ、遠そうだった。

「どちらでもない奴を相手にするのは、疲れるかい」

 ぽつり、と口にされた言葉に、胸が痛む。

 そうじゃないと口にするのはあまりにも簡単で、困難だった。

「……そうか。僕も卒業後は地元に戻るし、これで後腐れなく別れられるってもんだろう」

「実家、帰るのか」

「ああ」

「じゃあ、なかなか会えなくなるな」

 僅かに、朔の表情が変わる。

 ああ、こいつ、こんなにわかりやすかったのか。

 もっとちゃんと見ていれば、ダウト全敗は免れたかもしれないな。

「そう、なるね」

「だったら、今のうちに言っておくか」

 ほんの少しの動揺。戸惑い。

 硝子の向こう側が、揺れる。

「俺には、お前の言う、どちらでもないっていうの、よくわかんないよ」

「うん。そう、だろうな」

「でもさ、朔のことは、その。好きだ」

「え?」

 顔中に血液が回ってくる感覚。外の音も人の気配も、まるで耳には入ってこない。ただ沸騰しそうなほど熱い顔をどうにか冷ましたくて、荒っぽく頭を振る。

「友達に言われたよ。ホモとか全部棚上げにして、好きだっていうのは認めたらどうだって」

 結局のところ、ホモではなかったけど。

「俺はお前みたいに頭も良くねえし、女子扱いもするかもしれないけどさ。好きだっていうのは、多分、お前の性別とか関係ないと思うんだよ。だから――」

 男だと思っていたころから、好意の側に針が振れていたのだから。

「俺じゃ、だめ、かな」

 この気持ちは多分、本物なのだろう。

 血流が一気に逆流するかのような熱。

 告白なんて何年ぶりだったか。

 確か中学以来だから、七年は前か。なんて、余裕ぶってみても身体の熱は引くはずもなく。頼むから何か言ってくれないかと視線を上げれば、放心したように僅かに口を開けた朔の姿があった。

「おい、朔。聞いてたか」

 いくらなんでも、もう一度言えるだけの気力はない。聞いてなかったとか抜かしたら、なかったことにしてやろう。

「聞いてた、けど。あまりに急すぎて、ちょっと、処理落ちしてる」

「お前はゼミ室のパソコンかよ」

 旧型で、すぐフリーズする恐怖のパソコンを思い出す。

 あれに一体何度泣かされたかわからない。

「いや、うん。そうだな、そう言ってもらえるなんて思ってなかったから、嬉しいよ」

 いつもの弁舌は鳴りを潜め、たどたどしく言葉を継ぐ。

 まあ、それはいいのだが。

「そうじゃなくてさ、その、返事」

「返事?」

「だから、今の」

 眉間にほんの少ししわを寄せ、小首をかしげる。

 わずかに見上げてくる目。直視しきれず、思わず目を逸らす。

 不意打ちは、よくない。

「その、告白、しただろ」

「……そうか、告白だったのか」

 逆に何だと思っていたのか。

 恥ずかしさを通り越して、だんだん疲れてきた。

「それは、そうだな。うん」

 一つ頷いて言ったのは、


「付き合ってもいいよ。友達としてならね」


 今まで見たどの表情よりも明るく、トドメを刺す言葉だった。


  *


「それで、振られたんだってな」

「せめてそのにやけ面をどうにかしてくれないか」

 卒業式という長い長い式典の後、スーツに息苦しさを感じた俺と世田は、手近な居酒屋へと足を運んでいた。

 席に着くなり何故かご機嫌の世田が、日本酒を勧めてくる。しかし残念ながら俺は、日本酒も苦手なのだった。

「まあでも、よかったな。あれからぎくしゃくしなくなったんだろ」

「まあな」

 それは、こちらとしても嬉しいことだった。

 あの時言っていなければ、恐らくあのまま疎遠になっていただろう。

 ただ一つ気になるのは、世田こいつのこの表情だ。

「……さっきからやけに上機嫌だな。なんかあったのか」

「ん、いや、相談された身としては、お前らがぎくしゃくしたまま卒業してったら申し訳なくってな」

「世田……」

 相談したときは、確実に相談相手を間違えたかと思った。だが、ここまで考えてくれていたとは。

「まあ、最初に思ってたより面白い幕切れになったけどな」

「やっぱり面白がってたのかよ!」

 案の定だよ。

 だが、確かにこいつがいなければ、想いを伝えることもなく、距離を測りかねたまま卒業していただろう。そうなれば、連絡すら取れなくなったかもしれない。今回だけは、こいつに感謝しなければならないだろう。

「でも、助かったのは事実だからな、その、サンキュ」

「多分それ、もう一回言うと思うぞ」

 よくわからないことを言う世田を軽く流して、カシスオレンジを注文する。それ甘くないのか、と世田は渋い顔をして見せるが、俺からしたら日本酒の方が辛すぎるのだ。

 まあ、たこわさには合わないけど。

 新しい客が来たのか、いらっしゃいませー、と景気の良い声が店内に響く。

 そしてテーブルに現れたのは店員ではなく、

「こんなところで呑んでたのか、君らは」

 ネクタイを緩める、朔の姿だった。

 卒業式にはスーツで出ていたらしい。身長もそれなりにあるためか、男物のスーツでもあまり違和感はなく、かなりその、様になっていた。

 というか、なんでここに朔が?

「ほら、大島。そろそろ言いたくなってこないか」

「何の話だよ……あ」

 にやりと人の悪い笑みを浮かべた世田を見て、こいつが呼んだのだと確信する。

 まったく、妙な気を回しおって。

「はいはい、どうもありがとうございますー」

「何の話だ?」

「お前ら二人が仲直りできてよかったな、って話かな」

「言うなよ!」

 面白そうと判断したら即行動の精神は、羨ましくはあるものの、割と迷惑なのでやめてほしい。

「さて、それじゃあ俺はこの辺で」

「僕が来た途端に帰るとは、なかなかご挨拶じゃないか」

「ま、大島と二人でゆっくりしたらどうだ。今までそういうの、なかったんだろ」

 荷物をまとめ、千円札を置いていく。これで「あとで話聞かせろよ」という目をしてなければ、感謝する気にもなれるのだが。

「少し、悪いことしたかな」

「いや、あいつはあれで楽しんでるだろ」

 主に俺で。

「もしかして、僕に話でもあったのか」

「まあ、な」

 水をあおり、乾きかけた口を湿らせる。

 今ならちゃんと、訊ける気がした。

 今まで訊けなかった、あの言葉の真意を。

「まだ、無色は何色にもなれない、なんて思ってるのか」

 あの時は、まだわからなかった。

 そして何度も間違って、ようやくここまでたどり着いた。

 わからないを埋めるため、それも確かにあるだろう。

 だが、きっとそれだけではない。

 少しでも朔を理解したい。全ては理解できずとも、俺では力になれないとしても。

 それでも、俺は知りたいんだ。

 俺は、お前が。

「昔、そんな話もしたっけな」

 懐かしそうに、眩しそうに、目を細めながら。

「大島、僕はね。今はこう思うんだよ」

 あの夏の日を飛び越えて、目の前の朔に焦点を合わせる。

 遠い日々は、ようやくここに追い着いた。


「無色というのは、何色にもなれない。それでも――確かに無色それも色なんだ、ってね」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

無色 笠井 玖郎 @tshi_e

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ