玉水の妖

迫水

序章 我が姫様

 そよぐ風。なびく草原。澄み渡る空。風と踊る花びら。

 その美しい景色の中にひときわ美しく目を奪われる生き物がいた。


 「乳母ばあや、玉水、こっちに!」


 声の方向に近づくとその生き物が川をのぞき込んでいた。どうやら川を泳いでいる鯉を見つけたらしい。「あっ!」私が声を上げる間もなく、その生き物は手を水面へ近づけ、バランスを崩して落ちてしまった。慌てて駆け寄り川から抱き上げるとしおらしい顔をしている。


「姫様。お転婆が過ぎますよ。玉水に感謝なさい。」


 遅れてきた乳母がその行動をたしなめる。


「ごめんなさい。玉水。」


 かわいらしく頭を下げた。この方が私の主人である姫様である。

 齢十あまり二つにもかかわらず都を歩けば振り向かぬ人はいない。その御髪も絹糸の手触りに濡羽色というご本人の美貌に見事に釣り合い、更に際立たせる素晴らしいものである。屋敷の垣根の周りには人がいないことはない有様である。庭の草木もその美貌に華やかさの自信を喪失してしまう。

 しかし、その美貌や出自を鼻にかけるようなこともなく、私のような下賤の者にも親しく優しく朗らかに話しかけてくださる。この姫様に出会えたことが私の人生において一番の奇跡であると言えよう。


「さあ、姫様。お召し物を変えましょう。」


 水を吸って重くなった着物に足を取られて転げてしまわないように、手を伸ばせば届く距離に立ち車に誘導する。

 少納言(姫様がばあやと呼ぶ姫様の乳母)が指示されたとおりにお召し物を入れた行李を手に取りに隣の牛車に行き、姫様が入られた牛車にお届けをする。

 紅梅(表 紅:裏 濃紫)の着物は脱がされ、紀伊殿に全身を拭われている。拭い終わると先ほど持ってきた桃(表 薄紅:裏 萌黄)を着させる。そして、濡れそぼった髪を拭き軽く梳き乱れをなおす。

 するとしっとりと濡れた髪が生来のつややかさを際立たせる。やはり姫様は可愛らしく美しい。新たに身にまとった着物も見事に着こなしお似合いである。


「姫様。もう替えのお召し物はございません。ですので、お転婆を自制してくださいませ。」


 少納言が姫様に注意するが姫様は話を聞き終わるな否や蝶を追いかけ始めた。


「ああ、もう言ったそばから。玉水、姫様を。」


 少納言の指示を待つこともなく姫様に追いつくべく駆け出していた。頭2つ分の体格差があるため苦も無く追いつき、次に息をしたときには姫様は腕の中に収まった。


「そのように走り回っては今度こそ少納言様に連れ帰されてしまいますよ。」


「うぅ…………玉水……じゃあ、おとなしくするから。」


 まだ帰りたくないという気持ちとはしゃぎたい気持ちがせめぎ合い葛藤していたが、はしゃぐと叱られてしまうことが予想できるのだろう。少ししょんぼりしながらこちらを上目で見つめてきている。


「はい。では草花などを摘みましょう。」


 そして、黄色い花、赤い花、白い花、青い花を摘み、腕輪にして車で待っている少納言の元まで連れ立って歩き出す。今度は姫様がいつ駆け出しても、つまづいても対処が可能なようにそばで付き添っている。

 和歌やお琴の練習が大変だとか、貝合が楽しいだとか、とある絵巻物が面白いだとか姫様の話は車に着くまで尽きなかった。

 車に姫様が乗る直前に突然振り返り、私に微笑んだ。


「ありがとね。玉水!」

「従者として当然です。」


 奉公冥利に尽きるというものだ。

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