あの世とこの世のそのさきで

月山朝稀

1


『ようこそ、生者の世界からお越しの皆さま』


 明るい声が頭の中に響く。周りを見渡せば薄暗く、何もない空間がどこまでも続いていた。私以外にも人がおり、彼らも同じように周囲を見回している。

 

 私は自身の姿を見下ろした。いつものスーツに黒い革靴。鞄は持ち合わせていないようだ。

 確認を終えると、周りに目を向ける。

 私の一番近くに立つのは、タクシー運転手のような制服を着込んだ男。そして遠くにいる人たちの中では、何かを探すようにあたりを見回す中年の女が目についた。


『ここは、いわゆる〈生〉と〈死〉の中間にある世界です』

 声の聞こえるほうへ向き直ると、真っ黒の人影が立っていた。明るい声色でこの場所の説明をしはじめる。

 影の言うことには、我々はどうやら死んでいるらしい。この何もない広場は、あの世とこの世の境目。

『あなたがたはこの選別の間で、死ぬか生きるかを定められます』


「娘は!?」

 黒い影の声を遮るようにして、中年の女が声を上げる。

「娘はどこにいますか! 一緒にいるはずなんです!」と女は泣き叫ぶ。

『娘さんは別の場所にいます』

「同じところに連れて行ってください! あの子と幸せになるために、私は……」

『では、あなたは死んだことを後悔しているのですね?』

「娘は、まだ生きているのですか!?」

 血走る目を見開いた女は、「意味がない!」と狂気じみて叫ぶ。

『死を後悔しているのならばこちらに』

 影が、真っ黒の片手を横に差し出す。すると、何もない空間に巨大な黒い扉が現れた。豪邸に備わっていそうな豪奢な片開きの扉だ。

 ゆっくりと押し開かれた扉から、眩しい光が解き放たれた。私が薄く開いた目を凝らす間に、女は一目散に扉の中へ飛び込んでいった。女の姿が光に溶けると扉は自然と閉まった。


『他に、後悔している方はございませんか?』

 黒い影が問うと、周囲はしんと黙り込んだ。

 そしてひとりが意を決したような顔で手を挙げ、「やっぱり生きたいです」と言う。すると、次々に周囲が「私も」と声を上げた。

『では、死を後悔している方はこちらに』

 影が言うと、人々は次々に扉の奥へと入っていった。

 

 あの扉をくぐれば、生きていた世界に戻れるのだろう。娘を探す女も、続いて扉を抜けた人たちも、今頃は病院だろうか。

『他には?』黒い影に顔はないが、こちらを向いている様子だった。

 いつの間にか、タクシー運転手と私のふたりだけになっていたらしい。

 

「わ、私は、」運転手が両手を前に突き出し首を振りながら言う。

「事故を、起こしてしまいました。少し、少しだけならと思って、お酒を飲んでしまったんです。そしたら運悪くパトカーのランプが見えて――、だから、その、ちょっと焦ってしまったんでしょうね」

 男はツラツラと語る。その中で私は思い出した。酒臭いタクシー乗ったことを。

 ドアが開いた瞬間、漂う臭いに眉をひそめたが、こちらも上司から急ぎで書類を届けるようせっつかれていたので致し方なしと乗り込んだのだった。

 そして今、ここにいると言うことは――。

 

『死を後悔しているのですか?』

 男の言い訳トークショーをぶった切って黒い影が問う。

「いえ、その……。少し、とはいえ飲酒運転で事故なんて、マスコミは大げさに書きたくるでしょう? 逃げるというのではないのですけど、ここで消えたほうがいいのではと思いまして」

 

『では、人生に後悔はないと』

 

「ええ、なにも。女房にはいつもどやされてましたし、いい思い出なんてありゃしません」

 にこにこと笑いながらタクシー運転手は言う。

『他に、いらっしゃらなければ場所を移しますがよろしいですか?』

 影が見ているかどうかはわからないが、私はこくんと首を縦に振る。


 後悔は何ひとつない。



 

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