年齢操作
森本 晃次
第1話 第1章
今から三十年くらい前というと、高度成長の象徴でもある団地が、集合住宅として確立し、整備され始めた頃だった。世の中は次第にものが不足することもなく、新しいものがどんどん生まれる時代で、上ばかりを見続けていればいい時代だった。
――だった――
という表現をしているが、実際にそんな時代を詳しく知っているわけではない。やっと学校を卒業し、就職しようかと思っていた時代。胸をわくわくさせていたように思っていた。
男の名前は島崎敏夫という。
敏夫はどちらかというと友達は少ない方だった。
「あいつは考え方が人と違うからな」
と言われるほど、一つのことに凝り固まると、そこから抜けなくなってしまったり、普段から、
「俺は他の人と違う考え方をしていると言われる方が好きなんだ」
と言うくらい、変わり者と言われても、気にしないタイプだったのだ。
確かに大学には、いろいろな考えを持っているやつは多いが、その中でも敏夫は特別であろう。
そんな敏夫は高校時代まで、ほとんど人と話をすることはなかった。
――話をしても、誰も相手をしてくれない――
と思っていたからで、それが大学に入ると話を始めたのは、同じような考えの人が他にも何人かいるのを知ったからだ。
高校時代というと、出席番号で席が決まっていたが、大学に入ると、講義室のどこに座っても構わない。そうなると、ある特徴があることに気付くのだが、中間あたりに座る人が少なく、ほとんどは後ろに集中している。その中でも最前列に座っている連中は、一生懸命に講義を聞き、勉強しようという意思が十分に伝わってくる。
敏夫は、自分がそんな連中と同類であることに気付いた。皆それぞれに個性は感じるが、根本的なところでは同じなのだ。個性を保ちながら、根本的なところが同じ連中ほど、話が合うと思うのは敏夫だけではないだろう。
ただ、そう思っているのは、最前列の連中ばかりで、後ろの方で、授業に参加しているかしていないのかハッキリしない連中に分かるはずはなかった。
敏夫はそれでいいと思っていた。
――あんな連中に分かってもらおうなんて思わないさ――
そういう意味で敏夫は、今の社会があまり好きではなかった。
個性のある人は多いのだが、そんな連中が表に出ることはあまりない。最近立ち並んだ団地のように、どこを通っても同じものでしかないような世界に、少し限界を感じているほどだった。
「どこを見たって同じじゃないか。まるでどこを切っても同じような金太郎飴のようじゃないか」
と言っていたが、
「まさしくその通りだな」
と言いながら、その友達は、時々悩んでいたようだ。
「限界というのはどこにでもあるもので、俺はその限界が最近よく見えるんだ。いくら個性的だと言っても、結局はその限界の中で踊らされているだけのように思えてならないんだよね。俺は限界を見てしまったことを後悔しているんだ」
と言っていた。
「そんなことはないさ。限界なんて自分が勝手に決めた結界さ。俺にはそんなものは見えないけどね」
と、敏夫は言ったが、本心から口に出しているわけではない。敏夫にも限界が感じられないわけではないが、それを限界だとは思っていない。自分でも言ったが、結界なのだ。結界であれば、どんなに難しいことでも突破することができる。自分で勝手に結界と思っているのなら、誰かの力が加われば、いとも簡単に破ることができるものなのかも知れない。
敏夫は、結界の向こう側が見えたような気がした。
それは、こちらの世界と同じようなもので、まるで鏡を見ているようだ。
――結界というのは、その向こうに鏡を持っているのだろうか?
鏡はまったくの左右対称である。敏夫には、同じ世界だとは思えない。こちらの世界よりもわずかに広い世界であり、人や建物の大きさは変わらない。どこかに余裕のようなものが存在することで、広さを感じることになるのであろうそれはまるで交わることのない平行線に似ていた。
――二十歳過ぎればただの人――
という言葉があるが、この言葉を敏夫はいつも気にしていた。
二十歳という年齢にこだわっているわけではなく、人間にはターニングポイントがあり、どこかまでは何も考えなくても成長できるが、ある一点を境に、それがままならなくなり、成長するために乗り越えなければいけない壁があるのだと思っている。
高校時代までは、強く意識していたが、大学に入るとともに、忘れかけていた。その年齢に近づいてくると、敏夫は自分がそのことを忘れかけていることに時々気付いてハッとすることがある。
――逃げているのかな?
とも感じるが、逆に近づいてくることで、感覚がマヒしてしまうこともあるのだという意識が芽生えてきたのも事実だった。
もちろん個人差があるので、いつ訪れるかも分からない。年齢というよりも、精神年齢に近いものであるならなおさらで、精神年齢ほど自分では分かりにくいものはないと思っているからだ。
――皆、一生懸命に勉強して大学に入ったはずなのに――
後方の座席にいる連中は、出席するだけが目的である。講義の前に出席を取った時にはたくさんいた学生が、講義が終わる頃にはほとんどいなくなってしまっているなどという光景は、日常茶飯事であった。
「教授はこれでいいのかな?」
「いいんじゃないか? 教授こそ自分の研究ができさえすればそれでいいのさ。それでも寂しいと思うのなら俺たちが一番前に陣取って講義を聞いてあげているんだから、それでいいんじゃないか?」
どうにもやる気など失せてしまうセリフである。
だが、そんなセリフも慣れてくると、虚しさよりも感覚がマヒしてきたことに対して、
――俺だけは、他の奴らとは違うんだ――
という意識が強くなってくるのを感じる。
元々あった感情ではあるが、
――他の連中と同じでは嫌なんだ――
という気持ちがさらに強みを増す。この気持ちが基本となって、大学生活の中心に居座っているのだ。
高校時代までは男子校だったが、大学に入ると共学である。男臭い男子校の中にいれば、自分が男であることを恥かしく感じるほどの気持ちになり、それがそもそも、
――俺だけは、他の奴らとは違うんだ――
という考えの元になっていた。
――女を求めているのだろうか?
高校時代にはそう思っていたが、実際に女性がまわりにいないので、女性がそばにいるという感覚を想像することすらできなかった。もしできたとしても、それは妄想というだけではなく、自己嫌悪に陥るだけの十分な精神状態になる感覚があった。それだけ男の中にいる自分に違和感があるくせに、女性を想像することはいけないことなのだという矛盾した考えを生む結果になるのだった。
敏夫は中学の頃までは身長が低かったのに、高校時代に一気に伸びて、大学に入学する頃には、百八十センチを超えていた。当時百八十センチを超えるというのはすごいことで、自分で考えているよりも、相当目立っていたに違いない。
実は敏夫は知らなかったようだが、密かに女性の間で人気があったようだ。中には、
「あの人、変わり者よ」
と、言っている人もいたようだが、よく敏夫のことを分かっているとも言えるだろう。だが、人気があるのも事実で、要するに、
――敵も多いが、味方も多い――
と言えるだろう。
――味方も多いが、敵も多い――
というのではない。似た言い回しだが、まったくの逆である。前者の方が聞こえはいいし、実際に味方の方が多いだろう。敏夫が聞けば、絶対に前者だと言い張るに違いない。変なところでこだわりのある敏夫だったが、
「これが俺の個性だ」
と言うに違いない。
敏夫の口癖は、
「失敬な」
という言葉だった。
自分が堅物だと認めたくないと思っているわりに、人に対してこの言葉を吐くというのは、それだけ敏夫が考えている「堅物」な人間に失敬というべきではないだろうか。
そんな敏夫に分岐点が訪れたのは、大学の三年生になる少し手前、二十歳になった頃のことであった。
一人の女性が、敏夫のことを気にし始めたことから、敏夫が少しずつ変わっていったのだ。
女性から賛否両論のある敏夫だったが、自分を気に入ってくれる女の子がいるのは分かっていたが、敏夫のこだわりの中で、
――相手が、自分を好きだという素振りを示してくれないと、相手を好きになることはない――
という思いがあった。
自分を好きになる女性は引っ込み思案な人が多いのは分かっていた。しかも、そんな女性を自分が好きなのも分かっているのに、リアクションを相手に望むのは、
――他の人と同じでは嫌だ――
という発想の元にあった。
引っ込み思案で告白できない人は、まず他の女の子から、
――抜け駆けしたと思われたくない――
という思いがあるからだ。
いじらしい考えではあるのだが、敏夫にとっては、
――自分より女友達を優先された――
という気分にさせられることに腹が立つのだった。好きな相手であればあるほどその思いは強く、自分を頑なにしてしまうことへのジレンマを感じてしまう。そんな思いにさせたのは相手であり、自分ではないという勝手な思いが、敏夫の一番の欠点である。
敏夫は、そのことも気づいている。しかしそれを覆すだけの思いがない。
――人と同じでは嫌だ――
という思いは、もはや信念である。少々の理屈では解決できるものではない。その思いを分かってあげられる相手でなければ、敏夫の相手は務まらないというものだ。
「お前と付き合う女性は、相当しっかりしている人なんだろうな」
という皮肉を友達から言われたことがあったが、敏夫にはもちろん、それが皮肉であることは分かっている。分かっていて甘んじて受け入れようと思うのだが、そこまで来れば個性というよりも意地であろう。
意地というものが悪いというわけではない。悪いという考えは、他の人の尺度で考えた時だ。
――尺度という言葉は、何という都合のいい言葉なんだろう――
と思わずにはいられない。そんな自分に敏夫は、時々自己嫌悪を感じるのだった。
敏夫を好きになった女性が一番敏夫のどこが気になっているかというと、時々自己嫌悪を感じるところだった。そのことを彼女は最初から分かっていたわけではないし、さすがに敏夫も、そこまでは分からなかった。ただ、
――彼女は他の女の子とは違う――
というイメージがあり、どこが違うのか、漠然としてではあるが分かっていた。それが自己嫌悪だとは、さすがに思っていないだけだったのだ。
彼女が敏夫を見つめる目を、敏夫は自然と避けていた。今までに女性の視線を避けるなど考えたことはなかった。それまで女性と付き合ったこともない敏夫だったので、当然女性を知らない。恥かしさを感じることもあったが、それは本能の成せる業であり、自分の感覚ではなかった。
敏夫は、本能を自分の感覚ではないと思っていた。本能というものは、人間に限らず誰にでもあるもの、そして個人差は、あくまでも誤差の世界だとしか思っていない。それは子供の頃から考えていたことであって、中学時代に、ある程度自分の中で確立された考えになっていた。
年季の入った考えなので、この思いを覆すにはかなり難しいだろう。まず自分で覆すつもりもなければ、他人が覆そうとするものでもないことが分かっていたからだ。そもそも人が介入できるものではなく、そういうことは、他の人は誰も考えたりすることはないだろうと感じられることだった。
あまり本能に対して考えていないように思う敏夫だったが、細かいことを考えていないだけで、意識はしていた。本能がなければ考えの中で成り立たないものもあると思っているからで、本能の大切さは知っているつもりだった。
そんな敏夫を好きになった女性は、名前を古坂美沙と言った。美沙は敏夫に対して何かを言おうという素振りを見せながら、実際には口にしなかった。それが敏夫には気に掛かったのだ。
何も言わない女性を好きになることはない敏夫だったが、それは自分の気持ちを押し殺そうとする意識が感じられるからだ。美沙の場合は押し殺そうとするところは何もない。きっかけがないだけなのかも知れないと思わせるだけだった。
だが、実際には美沙から声を掛けられない気持ちが本人に強かったのだ。それを感じさせないのは、美沙の中にも、
――他の人と同じでは嫌だ――
という思いがあるからで、敏夫はそのことはすぐには分からなかった。
気になっていることが、まさか自分と同じ性格であることから来ているなど知らずに意識しているというのは、実に皮肉なことであった。
美沙は敏夫を意識し始めて、実際に変わった。
「美沙、最近あなた綺麗になったわね。誰か好きに人でもできたの?」
と友達から言われて、ハッとした。
「そんなことないわよ」
と言い返したが、相手は含み笑いを浮かべるだけで、分かったとも何とも言わない。完全に美沙の言葉を信じていない素振りだった。
美沙も、それほど友達が多いというわけではない。だが、敏夫と違って、
――自分は他の人とは違う――
という気持ちはあまり強くなかった。本人には、ないと思っていたほどだった。
――他の人と同じでは嫌だ――
というのとは少し違う。自分という言葉がついているのといないところが違っているのだ。
後者の方が、言葉としては汎用性がある。つまりは、「他の人とは違う」と言いきれないところがあるということだ。
美沙は自分が綺麗になったという自覚を持っていた。しかも、人を好きになったからだということも自覚していた。相手も誰かは分かっていた。だが、告白するまでには行かなかった。
――告白してしまえば、今まで築き上げてきたことが壊れてしまうような気がする――
と思っていたのだ。
それは自分からの告白では成立しない。敏夫からの言葉でしか成就はないという気持ちが強かったからだ。
敏夫の方も、自分からの告白などありえないと思っている。二人の間で気持ち以外の告白という点で、平行線が生まれてしまったのだ。
このままでは、お互いに前に進むことはできない。敏夫のまわりの男は、そんな敏夫の気持ちには気付いている人はいなかったが、美沙のまわりの女の子には、気にかかっている人もいた。
――何とかしてあげたいんだけどな――
その女の子は、美沙がうまくいくことが、次は自分だと思う気持ちになっていたのだ。
――何をやっても、美沙には追いつかない――
その友達は、美沙に憧れていた。
――憧れの相手というのは、追い越すことができないから憧れなんだ――
という思いを抱いていた。その娘は美沙に対して自分の中で、勝手に平行線を描いていたのだ。
その子にしてみれば、
――美沙に幸せになってもらいたい――
という気持ちもあるが、それ以上に、
――美沙がここで彼氏ができれば、私は美沙を追い越すことができるかも知れない――
と思っていた。
だが、その裏で、
――追い越してしまったら、何を目標にしていけばいいのか分からない――
という思いを抱いているのも事実だった。
自分の中で認めたくないという思いから、必死に否定しているのは自分の本能であって、甘んじて受け止めようという気持ちがあった。そのせいもあって、美沙に直接話をすることができなかったのだが、美沙には感覚で分かっていたのだ。
――彼女に言わせるわけにはいかないわ――
と、美沙が感じたことで、その時初めて、敏夫に対して告白してみようという気になったのだ。
ただ、告白と言っても、どのようにしていいのか分からない。今まで男性に告白などしたことのない美沙は戸惑っていた。何しろ相手はまわりから堅物と思われている敏夫である。美沙自身にはその気持ちはなくとも、自分と平行線をたどっていた相手だという意識は強く残っていたのだ。
ただ、一度覚悟をしてしまうと、機会は自ずと訪れるものだ。
いや、訪れたわけではなく、いつもそこにあったのかも知れない。平行線だと思っていたことで見えるはずのものが見えなかっただけだと思うと、理屈に合っていることなのかも知れない。敏夫という男性を本当に正面から見ていたのかということすら疑問に思えるほど、目からウロコが落ちたとは、まさにこのことである。
◇
美沙が住んでいるところは、団地の一角であった。父親が転勤のほとんどない仕事なので、団地住まいができたのだ。
「この団地は、以前は米軍のキャンプ地だったな」
と父親から聞かされてその頃のイメージが頭を過ぎった。
――そういえば、兵隊さんが多かったわ――
と、軍人の姿を思い出すと、子供の頃に家の近くに住んでいた兵隊のお兄さんを思い出した。
その人は流暢な日本語で、いつもニコニコしていた。母親は兵隊さんと仲が良かったようだが、父親は兵隊を嫌っていた。両親がそのことで喧嘩しているのを何度か見たことがあったが、どうして喧嘩になるのか、疑問で仕方がなかった。
新しくできた団地もそうであるが、団地だけではなく米軍のアパートも皆同じような建て方になっていて、意識せずに入り込んでしまうと、自分がどこにいるのか分からなくなってしまう。
美沙は、子供の頃に米軍のアパートに入り込み、その時に「兵隊のお兄さん」と出会った。
青い目をしたその人に見つめられると、身体が萎縮してしまったが、同じ日本人でもどこかで顔を接近させたことがなかっただけに却って新鮮な気がした。見つめられて恥かしいという思いを初めて感じたのがその時だったのだ。
兵隊さんと仲良くなったことを母親に話すと、
「じゃあ、挨拶しておかないとね」
と言って、兵隊さんに話しかけていた。
驚いたことに、母親は英語が達者だったのだ。兵隊さんは大層喜び、楽しそうに会話をしている。その表情は美沙に見せたことのない表情で、楽しそうな表情をしてみたり、照れている表情だったり、時には寂しそうな表情になったりした。
美沙は、その時初めて母親に嫉妬した。
今まで母親は、父親の影に隠れて目立たない性格だと思っていたのだが、印象が変わってしまった。本当であれば、母親の颯爽とした姿に誇らしさを持ってもいいのだろうが、美沙は違った。
――どうして今まで隠していたのかしら?
欺かれたような気がしてきた。
もちろん、母親にはそんなつもりはないに違いない。娘に対して自分を誇張しているわけでもないのだろうが、誇張しているように美沙は感じた。
――これって嫉妬?
子供なのに、嫉妬する対象は何だというのだろう?
――まさか、兵隊さん?
そんなバカなことはないと自分に言い聞かせた。
ただ、兵隊さんと最初に仲良くなったのは自分である。途中から出てきて横取りされたような気がしてきたのは、兵隊さんの美沙に対しての視線が、まるで大人の女性を見るかのようだったことで、自分が初めて恥かしいと思ったことが影響しているのだろう。
母親に対して嫉妬心が浮かんだのは、美沙にとって、虫の知らせのようなものがあったからなのかも知れない。
母親は兵隊さんと浮気をしていた。もちろん、誰にも分からないようにしていたのだろうが、分かる人には分かるようだ。近所の奥さんたちから、不穏な噂を聞いたことがあった。
幸い父親の耳に入る前に、二人は別れたようだ。
別れたというよりも、兵隊さんが本国に送還されたので、どうしようもなかったのだった。兵隊さんと、地元の奥さんとの間での不倫というのは、意外と多かったのかも知れない。
兵隊さんは、まだ若い男性だった。日本人女性の、しかも主婦に誘惑されれば、コロッと参ってしまうのかも知れない。奥さんの方も、若い男性からちやほやされることを喜びに感じることだろう。そのあたりの関係は、暗黙の了解のようになっていたのかも知れない。
父親から、米軍キャンプの話を聞かされるまで、正直言って忘れていた。数年で忘れてしまうほどなので、まるで夢のような記憶だったに違いない。今ではありえないような米軍の住まい、それだけ幻のように思えてならないのだ。
――どこまで行っても同じような建て方――
その思いは、団地にそのまま受け継がれた。
――この場所に前は兵隊さんが住んでいたんだ――
と思うと不思議な感覚に見舞われる。子供の頃の美沙にとって、軍人とはどのように写っていたというのだろうか……。
母親は、美沙と似ているところがあった。そのことを、美沙も母親も気にしていた。
「あの娘は私と似たところがあるから」
と、母親が言えば、
「私はお母さんと似ているところがあるような気がするの。どこがって聞かれるとよく分からないんだけど、それがいいところだったらいいんだけどね」
と、美沙は言うだろう。
母親に比べて美沙の方が、漠然としている。母親は似ているところがあっても、自分から口にしようとしないのは、それだけ似ているところがあまりいいところではないからなのかも知れない。美沙の方としても、漠然としててはあるが、あまりいいところが似ているわけではないと思っているからこそ、漠然とした言い方しかできないのだろう。
ただ、二人に言えることは、まわりが見てハッキリと似ていると言えるところは、口下手なところなのかも知れない。
――思っていることを正直に言えないこと――
それがある意味、二人にとって悪い意味で似ているところに繋がっているのだった。
ただ、成長するにしたがって、娘の方が似ているところを意識するようになっていた。
――私とお母さんの似ているところ、それは何事も「嫌だ」と言えないところなんだわ――
嫌だと言えないということは、相手主導になってしまって、相手が望めば何でもする。母親が軍人さんと不倫をしたのは、決して母親からの誘惑ではないだろう。相手の男性が強硬に押したのか、それとも、あまりにも純情なところが母親の「嫌とは言えない性格」に火をつけたのかのどちらかなのだろう。
相手を憐れむ気持ちは、嫌とは言えない性格というよりも、思っていることを正直に言えないことの裏返しに近い考えなのかも知れない。この三つの感情は長所短所の背中合わせの境界線上に微妙に存在しているのかも知れない、そう思うと、娘の美沙が同じような性格であったとしても、それはどれかが遺伝だったとしても、他の性格は、そこから付随したもので、育つ環境から委ねられてきたものだと言えるだろう。人の性格を司るものは、遺伝と育った環境だというではないか。それを強く感じているのが、美沙の方だったのだ。
美沙は、母親の不倫を知りながら、何も知らない父親が可哀そうだとは思わなかった。
――お母さんを放っておくから、こんなことになったのよ。仕事も大切でしょうけど、もっと家庭を顧みるようなお父さんじゃないとダメだわ――
と思っていた。
母親は、心の中に後ろめたさがあるからか、父親に逆らうことはできないだろう。その分、美沙が父親に睨みを利かせればいいのだろうが、どうやら、そんな睨みなど、馬耳東風。父親には分かっていなかった。
美沙の家庭の均衡は、その時はそれなりに取れていた。ただ、両親の関係は完全に冷え切っている。娘から見ると、修復が不可能なところもまで来ていた。
――どうして離婚しないのかしら?
当時はまだ離婚というと、
――戸籍に傷が付く――
と思われていた時代だったのかも知れない。
父親からすれば、出世に響くとまで思っていたのかも知れない。家族がバラバラになってまで、何が出世なのかとも思うが、父親の気持ちになってみれば、それも仕方のないこと。
――家庭の憂さは仕事で晴らす――
という気持ちになったとしても、当然と言えば当然である。
父親が何を楽しみに生きているかなど、美沙には関係のないことだった。もう、美沙の中で父親は見えてこない。鈍感なところは見ていると、腹が立つばかりである。
しかし、その思いは逆に自分が以前父親に憧れていたところでもあった。
――バカ正直なほど人を信じるところがあるわ――
子供から見ていて、父親のそんな性格はいい面しか見えてこなかった。悪い面、つまりすぐに騙されやすかったり、一点だけを見つめてしまって、まわりを見なくなるという悪い面での性格が出ていることを知らなかった。
それは無意識であろうが、巧みに父親が見えないようにしていたのかも知れない。自分のいい面だけしか見えないようにするという性格は、いいことなのか悪いことなのか、娘としては分かりかねるところであった。
敏夫にどのように言って告白したのか、美沙は覚えていなかった。
――放っておいたら、誰かに取られるかも知れない――
という意識があった。
敏夫は女性から人気があったが、なぜか誰かと付き合っているという噂が流れてくることはなかった。敏夫くらい女性に人気があれば、誰かと付き合っているとしても、誰も不思議には思わない。それなのに誰とも噂にならないというのは、普通に考えれば、性格的に何かあるからなのかも知れないと思って不思議はないだろう。
美沙の告白に敏夫は不思議がっていた。
「俺に告白してくる女性なんていないよ」
という敏夫を見て、
「だって、女生徒から人気あるわよ」
というと、さらに意外そうな顔をして、
「そうなのか? 俺は逆に嫌われているから、視線が痛いぐらいなのかも知れないって思ったほどだ」
美沙はそれ以上、その話題に触れなかった。これ以上触れてしまって、敏夫が自分がモテることに自信を持ってしまうと、このまま自分が捨てられてしまう気がしたからだ。敏夫ならそれくらいのことをしても不思議がないと思った。そんな冷徹なイメージのある敏夫をどうしてそんなに気にするのか、よく分からない。一つ感じるのは、彼の自分への視線が、他の女の子に対してのものと違うと思うからだった。
自分を他の女の子と違うという視線で見られることが、美沙には一番嬉しかったからだ。だからそんな視線をしてくれる敏夫を離したくないと思ったのだ。
敏夫と美沙は、結構お似合いのカップルだった。
デートと言えば映画に出かけたり、遊園地に出かけてみたり、まさに、
――憧れていたデート――
だったのだ。
子供の頃の憧れが、次第に大人の男女に変わってくる。
敏夫よりも美沙の方が、感受性が強い性格のようだった。それを美沙本人は、
――臆病だから――
と思っているようで、臆病なのが、幸いしているのか災いしているのか、考えてみた。
美沙は敏夫と付き合いながら、二人が結婚した後のことを想像していた。もちろん、結婚が甘いものではないということは分かってはいたが、実際に結婚したことがあるわけでもないし、想像だけなので、憧れだけしか頭に浮かんでこない。
どうせ想像だけなのだから、甘い夢であっても、それはそれでいいのだろうが、憧れが次第に相手を慕う気持ちより大きくなってくると、夢が現実か分からなくなってくる。
美沙にもそんな時期があったのだろうか。今から思えば、まだ頭が幼かったのだとしか思えない。デートに憧れていた時期、そして、彼に委ねたいと思った時期が完全に分かれていたことは自覚しているが、どちらの方が先に感じたことだったのか、すぐに忘れてしまったのだ。
付き合った時期もそれほど長かったわけではない。
したがって二人の間に破局があったのは、間違いないのだが、別れを意識した時期はそれほど長かったような気がしない。気が付けば別れを迎えたような感じだった。
美沙は別れが近づいた頃になって、初めて付き合い始めた頃に抱いていた憧れを思い出した。その思いは楽しいもので、その思いのまま付き合いを続けていれば、別れることなどありえるはずなどないと思ったほどである。
付き合い始めには、結婚してからのことを思うようになって、逆に別れが近づいた時になって、付き合い始めた頃のことを思い出す。この思いは、実は美沙だけではなく、美沙の回りの人たちも同じような考えを持っていたりした。
始まりには先のことを考え、破局が見えてきたり、出口が見えてくると、今度は始まりが見えてくる考えは、今後の美沙の性格を形作っていく大切なものとなってしまっていた。その考えは、本当は女性らしい考えではないような気がした。男性に多い考えで、男性の中でも力強さを感じない、弱弱しさを孕んでいるように思えるのだった。
美沙にとって、敏夫との付き合いは、まるでお忍びの恋のようだった。実際には皆の知っているところで、公認の仲だったのだが、自分の中では誰も知らない世界を二人の間で作っているという感覚しかなかったのである。
美沙が、お忍びの恋だと思っていたわりには、相手の敏夫は、まわりから公認されているように思える方が嬉しかった。誰かに認められることのあまりなかった敏夫には、美沙という彼女ができたことを、一人でもたくさんの人に知ってもらいたいという気持ちが強まっていたのだ。
敏夫はまわりの人に対して、自分が劣っている方だと思っていた。そう思いたくない気持ちの表れが、他の人と同じでは嫌だという考えになっているのであって、ただ、美沙も同じ他の人と同じだというのが嫌だという考え方を持っていたが、敏夫ほどまわりに対して自分が劣っているという風には思っていなかったのだ。
それは男と女の違いでもあった。
男ほど相手の実力を認めるもののようで、女性はあまり相手の実力を認めてから自分を顧みるよりも直接自分を見てしまうもののようだ。
敏夫は何となくそのことに気付いていたが、美沙は気付かない。美沙は、あまり強く意識することはなかったが、自分が女性であるということで、男性とは性格が違っているのではないかと思うのだった。
時々二人は喧嘩していた。喧嘩の理由はその時々で違っていたが、喧嘩の理由になった元々の考え方の違いのせいであるということに敏夫は気付いていた。根本的な理由が同じなので、根本的に解決できない限り、喧嘩が絶えることはないのだ。
美沙はそのことに気付いていないので、
「どうしていつも喧嘩になるのかしら?」
と、喧嘩が収まって、落ち着きを取り戻すと、喧嘩していたことすら忘れてしまいそうなほど、気持ちが晴れやかになっている。
「ケンカするほど仲がいいって言うだろう?」
と、諭すように言うが、
「そうよね」
と、美沙は簡単に納得してしまう。これほど簡単に納得するくらいなら、それこそ本当に、
「どうしていつも喧嘩になるのかしら?」
と言いたくなるのも無理のないことである。
「熱しやすく、冷めやすい性格だからだよ」
と、まるで今の状況をそのまま口にして説明すれば、それがすべてなのだが、それは口が裂けても、敏夫が口にできる言葉ではなかった。敏夫にも似たようなところがあり、だからこそ、美沙を好きになったのだし、美沙の気持ちがよく分かるというものだった。
付き合っていた時期がそれほど長くなかったわけではないのだが、期間以上に付き合っていた時間が長かったと思っているのは、美沙の方だった。
敏夫が感じている期間は、実際の期間と変わりはなかった。だが、美沙が感じている時間は、敏夫よりもずっと長かったのだ。
破局の原因は、美沙が妊娠したことだった。
敏夫はなるべく気を遣っているつもりだったが、それは美沙の身体のことを気遣ってのことだった。子供ができたのなら、二人で育てようという考えを持ったのは敏夫の方で、美沙の方が、身籠ってしまったことで、少し苛立ちが強くなっていた。
しかも、美沙の父親が猛反対していた。
元々二人のことに関しても付き合っていることを知っていたが、あまりいい気分ではなかった。世間体をすぐに気にする美沙の父親は、敏夫のことをあまり知らないくせに、敏夫の家庭が普通の庶民であることに差別的な目で見ていたのだ、
表に対してはさほど強くはなかったが、露骨な視線を持っていて、その視線に一番敏感だったのが、美沙だった。
美沙はそんな父親の目に反発したかった。付き合う人は父親の眼鏡に適うような相手ではなく、自分が好きになった相手だということを一番最初に感じることのできる人で、その人が父親に対して反発できる相手であることを望んでいたことも事実だったのだ。
敏夫の子供を身籠ったことに美沙はすぐに気が付いた。
――敏夫は喜んでくれるだろうか?
期待半分、怖さ半分だったが、実際に敏夫に話した時、一瞬戸惑いを見せた敏夫を見て、美沙は、一気に怖く感じてしまった。
それからの美沙は、完全に鬱状態に陥った。精神的には完全に殻に閉じ籠ってしまい、誰とも話さずに部屋から出てくることもなかった。
敏夫はすぐに我に返って、美沙と新しく生まれてくる自分の子供に対しての覚悟を決めることができたのだが、美沙が閉じ籠ってしまった殻をこじ開けることはなかなかできなかった。
少しだけ精神的によくなった美沙に対して、敏夫はホッとして、自分の決意のほどを打ち明ける。美沙にも敏夫の気持ちが分かって、嬉しい気持ちにもなっていたが、最初に受けたショックを解消させるまでには至らなかった。
――どうして、最初から今のような態度を示してくれなかったのだろう?
美沙が求めているのは、かなり男にとっては辛いことだった。きっと敏夫でなくても、最初から美沙が望んだような態度を取ってくれる相手というのは、まず今の美沙のまわりにはいないだろう。美沙にとってみれば、敏夫と一緒にいることが、本当の幸せなのだということをその時に分からなかったのだ。
それでも、最初は敏夫の優しさが嬉しくて、甘えていた。
ただ、美沙は自分で気付いていなかったが、甘え下手だったのだ。甘え下手な人はたくさんいるが、そのほとんどは自分が甘え下手だと意識している。そんな女性の方が、男から見ると可愛げがあって、甘えさせてあげたくなる。美沙のように甘え下手を自覚していない女性は、男性から見ると、甘え方が不自然で、白々しさに変わってくる。
敏夫も次第に美沙に対して疑問を抱くようになった。もちろん、そんな素振りを見せることはなかったのだが、女の勘の鋭さなのか、それとも美沙自身の勘の鋭さなのかは分からないが、美沙は敏夫に見限られていく自分を感じていた。
見限っていないわけではなかったが、子供もできたことで、できるだけ美沙を大切にしていこうという決意を持っていた敏夫も、美沙が自分に疑念を抱いているのを感じると、この先二人でうまくやっていく自信がなくなった。
ここまで来ると、後は破局にまっしぐらであった。
「敏夫さんは一体何を考えているのかしら?」
と、美沙が感じれば、
「せっかく、こっちが優しくしてあげて、これからのことを真剣に考えて行こうと思っているのに」
と、敏夫は思う。
敏夫の考え方は自己中心的なところがあり、それが高圧的な態度となって表れることで、一番神経が微妙な美沙にとって、これほど辛いことはない。敏夫ばかりが悪いというわけではない。元々は美沙が敏夫を信じることができないことから波及していることだからである。
最後通牒は、敏夫が出してきて、それに対して答えられないという返事をしたのが美沙だった。
美沙の父親は、美沙の口から二人が別れたという話を聞いて、すぐに対処を考え始めた。すでに堕胎できないところまで来ていたことで、生まれた子供は養子に出すということで、美沙の将来をリセットした形にしたのだ。
敏夫に対しては、もう美沙や子供に関わらないという約束で、何も追及されることはなかった。敏夫にとってもリセットできたのであろうが、敏夫にも美沙にも、お互いに消すことのできないトラウマが根強く残ってしまったのは、当然であろう。
美沙の親は、子供の精神的なところまで関知はしていなかった。
敏夫に何も責めを負わせなかったのもそれが一番の理由であろう。
その時の美沙には分からなかったが、要するに親とすれば、世間体が一番だったのだ。未婚の母などというのを自分の家庭から出すというのは、耐え難い恥辱である。それは父親だけではなく母親も同じことを思っているようで、ただ、母親が感じているのは、
「お父さんがそう言うのだから」
という、すべてを一家の大黒柱である父親に委ねているだけである。母親には、家庭の中で自分の意志というのを持つことができないのだった、
美沙はそんな父と母を見て育ったのだ。そういう意味では、自分の不安定な性格は、どうしても母親を意識しているからだ。つまりは、自分にふさわしい男性は、絶対的な自信のある人であり、決断力のある人でなければ、自分に物事を判断する力がないのだという意識であった。
美沙の両親が、どこの家に子供を預けたのか、美沙は教えられていなかった。自分が生んだ子供なのに、まったく違うところで育てられ、子供は母親と言う意識を美沙に持つことなどありえない状況にされてしまった。
美沙が生んだ子供は娘だった。美沙には、子供が娘であることと、生年月日しか分からないのだ。その生年月日も、操作しようと思えばできなくもない。自分の父親ならそれくらいのことは平気でするだろうと思った。
美沙は父親に対して、その時から感覚がマヒしてしまった。同じ感覚は母親に対しても持っているのだが、
――きっと私は、両親が死んでも、悲しい思いなんかしたりしないわ――
もちろん、喜ぶこともないだろうが、
――ただ、知っている人が死んだんだ――
という程度のものである。
しばらくして、美沙はお金をもらう形で、近くのマンション住まいをさせられるようになった。どうやらこれも父親の世間体を重んじてのことだったようだ。
――そこまでしなくても――
と思ったのは一瞬で、
――あの人なら、これくらいするわ――
と、家から追い出されたというよりも、親から離れられたという方が美沙にはありがたかった。何しろお金はもらえるのだから、生活に不自由はない。
――私が人間らしい感覚さえ持たなければそれでいいんだわ――
と、美沙は思った。とにかく、一日一日を、ただ何も考えずに過ごしていけばいいだけだった。
――人に関わることはなるべくしないようにしよう――
大学を卒業し、就職先は父親の息の掛かった会社に就職した。娘ということで、大事にはされていたが、それも無関心になってしまった美沙には、何も感じるものではない。当たり前のように出勤し、事務的に仕事をこなし、夕方定時にはマンションに帰る。飲み事などもすべて断ってきたことで、
「付き合い悪いわね。何様だと思っているのかしら?」
と噂されていることも分かっていたが、噂なんて、しょせん力を持つものではないと思っている美沙には、無視することが一番だったのだ。
美沙がその後どうなったのか、美沙のことをよく知っていた大学時代の友達にも分からない。
「あの子は、急に私たちの前から姿を消したのよ」
それはまるで気配を消して、ひっそりと息をひそめるように生きていくことを宿命づけられた女のようで、忽然とその消息が分からなくなったのも、当然のことのように誰もが思ったことだろう……。
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