第6話 失語症の「特効薬」

「あのね。今更、坂木さかき君が三木みき高文芸部に顔出したんだよ。それも、呉碧くれあおいの妹の顔見たさに。馬鹿だよねえ」

 僕にとっては、実質的に、ほぼ母親である長女の石矢秋華音いしやあかね。今は、現役の獣医師である。ダイニングテーブルを挟んで、目を丸くしている。

「そりゃあ、世津奈せつなあおいちゃんの妹を知っているけれど、坂木さかき君は違うでしょう。馬鹿ってことはないと思う」

 姉にたしなめられて、確かにと思い直す。

 朝の紅茶を飲んでいた秋華音は、台所の天井を見上げる。

「そうだ。その妹さん、もう高校生なんだよね。だったら、そろそろ世津奈が口説いてもいい年頃なんじゃない」

 僕は、むせた。

「あの、秋華音さん?」

「だって、ほら。姉の碧ちゃんも、そのおじいさんも、是非にというお話だったのでしょう。だって、世津奈、呉先生のこと大好きでしょう。お父さんになるんだよ」

 それは、話が飛躍しすぎである…。言葉を失う。

「ねえねえ、聞かせてよ。その子、どんな子なの」

 前のめりになる姉。

「いや、どんなって…。そうだな、音彩ねいろちゃんに少し似ているかも」

 横に目を遣る。小さい頃から、よく横笛を吹いていたらしい次女。

「あなた、どちらかと言えば、音彩ちゃんのことが好きだものね」

 息を呑む。バレバレだったか。

「いいの、いいの。どこの家だって、お父さんが好きとか、まあ、いろいろあるものだから。そうね。じゃあ、少し昔話をしようか」


 母の葬式が終わってから、秋華音はぶっ倒れたらしい。

 中学生の身空で、秋華音は言わば家庭の主婦であり、将来の獣医学部進学を見据えて、三木高理数科を狙いつつ、がんの母の看病もしていたのである。どう考えても、働きすぎである。獣医師である父には、「お母さんが本当に死にそうでもない限りは、動物たちを優先して」と言い切り、実際に守らせた。しかし、子供である。限界だったのだ。

 寝床にいると、遠くから妹の吹く笛の音がする。ピッコロである。豪傑な姉に似合わず、身体も小さく、どこか妖精じみた妹である。

 何故、妹のことを妖精みたいだと思ったのだろう。

 天井を見上げて考える。次の瞬間、布団をはねのけていた。

「音彩、あんた、声が…」

 中庭で振り返る音彩。こくんと頷いた拍子に、涙が一筋。

 姉がぶっ倒れたように、妹は妹でぶっ壊れていたのだ。音彩は、ぴろぴろ笛を吹く。秋華音はホイッスルを買ってきて、音彩の首にかけた。

 この家には、絶対的に「癒し」が足りていない。

 秋華音は、そう結論した。そうして、父に、犬を飼うことを提案した。私も数年後には大学進学することだし、その後には音彩も。これは、お父さんのためでもあると。そんな折に届いた、手紙。亡くなった母の名前が書かれてあって、きっと母は自分の死後の家族を想像して、先に手を打っていたのだと思われた。闘病中なのに、なんと敏い母であろう。

 夏休み、父と姉妹で盆地にある美陰みかげ学苑を訪れた。

 うすうす何かおかしいとは、全員が感じていた。どう考えても、ここは学校なのである。地元の獣医学部のサークルのように犬猫を育てているのかもしれない。果たして、現れたのは人間の子供であった。世津奈である。職員は言った。

「あなた方の弟さんですよ」

「かわいい」

 幼子を胸に抱き、妹が「かわいい」と何度も呟く。

「ああ…」

 口元に手を寄せて、咽び泣いた。父が私の肩に手を置き、何度も頷き合う。

 母が残してくれた最後の贈り物。それが、世津奈だった。


「結局、音彩はね。あなたと出会って、一気に失語症が治ったんだよ。中学校では、反対に『かわいい』しか言わないって心配されたみたいだけれど」

 上目遣いに、微笑む秋華音。どこか呉碧を彷彿とさせる。だから、あんなに夢中になった。

「だからね、何が言いたいかと言うと。あなたが隣に居さえすれば、きっとその子は大丈夫だよってこと」

「うん。そうだといいな」

 目を閉じて、呉紫織くれしおりを想った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る