☆第33話 その声のするほうへ

 ひんやりとした冷たく暗い世界に、自分自身が身を置いていることに不意に気が付く。


 必死に身体を動かそうともがくのだが、鉛のように重たい身体は、中々思う様に言うことを聞いてはくれない。


 早くこの場を移動しようとして、焦れば焦るほど、自身の身体が固くなり、段々と動かなくなっていくことを、小夜子はひしひしと感じていた。


――ここ、この間読んだ、天野柚木也さんの詩に似ている。


 周りを埋め尽くす果てしない闇の中で、小夜子は今、自分がどこに居るのかを必死に考えていた。


 だがまるで海底に居るかの様な、広く冷たく全く光が射さない世界で、一人きりで居る自分には、ここがどこであるのかどうかが、小夜子には全く検討が付かなかった。


――とにかく、早く、ここから抜け出さなくちゃ。


 果てしなく続く暗闇の中で、小夜子は懸命に身体を動かしてもがいていた。

 段々と意識が薄れていくのを感じる。


 頭の中でサイレンにも似た、警告音が鳴り響く。

 そして、本能的に、小夜子は、今ここにいることは危険なのだと察した。

 

「早く、早く」と自分を奮い立たせて、逃げ出そうとするが、自分を捕らえる闇は、どんどん自分を飲み込もうと、じわじわと近づいてくる。


 小夜子は恐怖を感じて、走って逃げようとした。しかしだんだんと冷たい闇に身体を侵食されて、一気に底へと身体を引きずりこまれそうになる。


「あぁ、もう駄目だ」と、小夜子が思ったその瞬間。


 朦朧とする意識の中で、誰かが自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。




――立花。立花、しっかりするんだ。




 その声にハッとして目を開く。


 するとLEDのライトの光が急に目の中に飛び込んで来て、その眩しさに思わず目を細めた。


「小夜子!気が付いたのね!」


 重たくて中々動かない頭を、声がした方向にゆっくりと傾ける。


 すると目を赤くした母が、小夜子の枕元に立っている事に気が付いた。


「……お母さん?」


「気が付かれたようですね」という看護師の姿に、小夜子は酷く混乱する。


 重たい頭を懸命に動かしてみると、自分が白いベッドの上に仰向けになっていて、左腕には点滴の管が入れられている事に気が付いた。


「……え、えっと、ここは?」

「病院よ、病院!あなた、昨日公園で倒れたのよ」

「……た、倒れた?」

「そうよ。あなた、もう少しで肺炎になるところだったんだから」


「立花さんが目を覚ました事を、先生にお伝えして参ります」と言って病室を去る看護師に深々と礼をすると、母は小夜子の方を振り向いてこう言った。


「あなた、運が良かったのよ。通りかかった宮野さんと若菜先生が介抱してくださって……。お二人がこの病院まで運んでくださったんだから」

「……な、なっちゃん、と。……若菜先生、が?」

「そうよ。だから貴女、元気になったら、ちゃんとお二人にお礼を言うのよ」


「お父さんとお兄ちゃんにも、小夜子が目を覚ました事を早く連絡しなくちゃ」と言う母の声を遠くに聞きながら、小夜子はぼんやりとベッドの中で物思いに耽った。


――助けてくれたんだ。二人とも。きっと自分たちの事で精一杯だったはずなのに。


――何でこんな時に、私に優しくしてくれるのかなぁ?


 強い怨嗟と、大きな感謝と。


 相反する二律背反の感情で埋め尽くされた小夜子の心は、もう限界で、大きな悲鳴を上げていた。


 父と兄に慌てて連絡を取ろうとして、病室から移動しようとする母の反対側の方向に、小夜子が目をやる。


 するとそこには大きなアルミサッシで出来た長方形の窓があり、その奥の漆黒の暗闇の中にはひとつ、大きな赤い満月が浮かんでいた。


――綺麗。


 そう思って点滴の針が刺さっていない右手を、月が浮かぶ空の方へと翳す。

 すると小夜子は、何だか自分の小さな手の平で、優しい月の光が掴めたかのような気がした。


――なっちゃんも、若菜先生も。私は二人とも大好きなはずなのに。……何で私はこんなにも汚い感情でいっぱいなのだろう?


 そう思って小夜子は天に向けていた右手をゆっくりと下ろす。そしてその手を、異変を感じた自身の右の頬に当てる。


 すると小夜子の頬は手で拭えるほど、温かい涙で濡れていた。

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