百年後にまた
蛙鳴未明
嵐
その日は天気が悪かった。朝からの嵐で窓の外は真っ白に煙って、数メートル先も見えないありさまだった。学校は休みになっていた。俺はベッドボードに寄っかかって、ぼーっと窓の外を眺めていた。ベランダに作ったささやかな庭が、カーテンみたいに揺らぐ雨に隠れたり出てきたりするのを見ていた。頭痛のついでに熱っぽく、ちょっと朦朧としていた俺には、それ以外のことをやる気力が無かったのだ。だから雨の中から女の顔が飛び出てきた時も、三瞬ほど驚くのが遅れて、それっきり驚くタイミングを失ってしまった。無機質な声が天井から降ってきたからだ。
『政府命令です。窓を開けなさい』
俺は瞬時にベッドから降りてカギに手をかけ――そこでふと顔を上げた。青みがかった黒い目と目が合う。
『即座に窓を開けなさい。これは政府命令です』
三度目の命令は無い、ということは誰でも知っていた。俺はカギをあけて窓をぐいと引っ張った。途端に嵐が部屋の中を駆け巡る。黒い塊が部屋の中に転がり込んだ。ものすごい風に飛ばされそうになるのをぐっとこらえ、散弾のような雨に散々体をうちまくられながら、俺は渾身の力を込めて窓を閉じ、息を切らして振り返る。散乱した本。足を回して横たわる回転椅子。そして――倒れ伏している誰かも分からない女。黒いゴツゴツした服に身を包み、じっとり濡れた銀髪から雫を滴らせている。呼吸も体温も感じられない。自動ヒーターの静かな唸り声の中、俺は恐る恐る口を開いた。
「あの……政府の方、ですか?」
ひく、と彼女の腕が動いた。手を付き、ゆっくりと身を起こそうとする。荒い息。よろめく。
「大丈夫ですか!?」
慌てて俺は彼女を支えた。仰向けになった真っ白い顔。閉じられた両目。熱い、ぬるりとした感触。
(血……!)
意識が冴え渡った。勢い良くシャツを引き裂き、彼女の腕に巻き付ける。結ぼうとするその間にも真っ白なシャツは真っ赤に染まる。その度にシャツを破り、布を引っ張り出し、ハンカチタオルティッシュ血を止めれそうなあらゆるものを使って――そうして役目を終えたヒーターが止まった頃、ようやく血が止まった。俺はベッドに寄っかかり、天井を仰いで荒い息をする。蛍光灯が赤く滲んで見えた。がさ、と物音。顔を下ろすと、半身を起こした彼女と目が合った。その濃い青の目が、右腕の二倍は太い彼女の左腕をちらと見てまた俺を見る。
「これはあなたが?」
「え……あ、はい」
「なぜ?」
「なぜって……なんでだろ」
何となく気まずくて唇を舐める。彼女はもう一度左腕を眺めた。沈黙。後、彼女は左手を床に着き身を起こそうとする。慌てて俺はそれを押し止めようとした。
「動いちゃダメですよすぐ病院に――」
「うん、なかなかいい」
え、と呆気に取られた俺の顔を彼女は真っ直ぐに見つめる。
「感謝します」
首筋に鋭い痛み。声を上げて倒れ込む。何が起こったのか、ぐわんぐわんと歪む視界。その中で彼女はゆっくりと立ち上がり、窓に手をかけた。
「さよなら」
凄まじい暴風が吹き荒れた。真っ白な霞の中へ黒い人影が飛び込むのが微かに見えて――そこで俺の意識は途切れた。
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