初めては小指から

 お風呂を済ませた後は、自由時間だった。

 外は月や星がキレイで、観測してもいいことになっている。

 いつもだったら、春香を誘っていたかもしれない。

 だけど私は1人、トイレにでも行くフリをして、施設の外に向かった。


 外は、思った以上に他の生徒がいて、感傷に浸れる雰囲気でもない。

 あまり遠くへ行ってはいけないことになっていたけれど、私は少しだけ歩くことにした。

 ハイキングコースの入り口までくると、さすがに他の生徒は誰もいない。

 もう春香のことは好きにならない。

 この気持ちはすべて忘れる。

 悲しみも心の傷も、すべてここへ置いて行く。

 春香がいい子で、これまで誰かに言いふらしたりしなかったのがせめてもの救いだ。

 そもそも、言いふらすような子だったなら、好きになってないだろうけど。

 そんなことを考えていると、ハイキングコースの方から、足音が聞こえてきた。

 私は、零れそうになっていた涙を慌てて手の甲で拭い、足音の正体を確認する。

「あ……」

 思わず、声が洩れた。

 そこにいたのは、まるで人形みたいにキレイな女の子。

 私と同い年くらいか、もう少し上だろうか。

 一瞬で奪われた目が、離せない。

 月明かり以外、彼女を照らしているのは少し離れた施設の照明だけで、神秘的な存在に思えた。

 服装も、漫画から出て来たみたいにかわいいドレス姿だ。

 さきほど決意した通り、悲しみやを心の傷を忘れそうになる。

 こんな些細なことで忘れてしまえるほど、軽い恋心だったのかと、考えた瞬間、そんな自分が少し嫌いになった。

 でも、仕方がないとも同時に思った。

 だって、目の前の少女は、それほどまでに綺麗で、かわいくて、異質で。

 不自然な存在だったから。

 暗い中、はっきりとは見えないけど、髪は銀色で、目は装飾品のように美しい。

 そんなお人形のようにかわいい少女が手にしていたのは、蝶だった。

 羽をつまむようにして、胸の高さで持っている。

 普通、網とか使いそうなものだし、夜に捕まえるものでもないと思うけど。

 そんなことを思っていると、目の前の少女が、私に声をかけてきた。

「……あなたの目。とてもキレイ」

「え……」

「水っぽい。ううん、露っぽい。ん? 艶っぽい……かしら」

 もしかしたら、日本語に慣れていないのかもしれない。

 私の目が濡れているのは、さっき泣きかけていたから。

 泣かないように必死にこらえたけれど、それでもじわりと滲んだ涙が、目に潤いを与えてくれたんだと思う。

 それが、話しかけてくれるきっかけになったなら、ラッキーだなんて思ってしまう。

「あなたの瞳の方が、すごく綺麗……」

 こんなことを言うなんて、慣れないけれど、いま言わなければ、おそらく、もう言う機会はない。

 後悔しないようにそう告げると、少女はとくに喜んだ様子もなく『そう……』と、一言だけ答えてくれた。

 私と違って、褒められ慣れているのかもしれない。

「あ、あの……蝶、好きなの?」

「好き……とか、そういう感情はない。食べるだけ」

「食べ……え……」

 私は、その子の言葉の意味が、よく理解できなかった。

 日本語が得意じゃないから、うまく訳せていないのかもしれない。

「でも、食事しているところは人に見せるものではないから、しまっておくの」

 そう言うと、彼女はポケットから取り出した瓶に、蝶を詰め込む。

 ああ、この子は普通じゃない。

 言葉が通じないとか、そういう問題ではないのだと理解する。

 私も……きっと、普通じゃない存在だった。

 自分では普通だと思っているし、社会だって、そっちに流れているけど、本当の意味で理解されてるわけではない。

 この子は、きっと社会に受け入れられる子ではない。

 私なんかより、よっぽど。

 そう考えたら、私が春香から少し距離を取られたり、可能性を消されたことなんて、小さなことのように感じた。

 それと同時に、この少女に対して、申し訳ない気持ちも芽生える。

 蝶を食べるだなんて、受け入れられるわけがない……そう決めつけて、自分の方がまだ普通だと、安心するなんて。

 謝りたくなったけど、謝ることも失礼だろう。

「……あなたを見ていたら、悲しかった気持ちがなんだか少し消えた気がする。ありがとう」

 感謝の気持ちだけは伝えたくて、そう告げる。

「見ているだけで消える? ありがとうって? 消えて、よかったのね」

「ええ、よかった。悲しみなんて、いらないもの」

 そう告げると、少女は瓶をポケットにしまい、私に体を近づけた。

「いらないなら……私にちょうだい」

「え……」

 どういう意味だろう。

 なにかに例えているんだろうか。

「いまも悲しい?」

「……少し。それと、混乱してるかも」

「それは? いる?」

「混乱? 混乱は……いらない、けど」

 いらないからといって、消せるものでもない。

 そう思っていたのに。

「じゃあ、それもちょうだい」

 彼女はそう私に願った。

 わからないまま、私は頷く。

 いらないものだし、彼女にならあげてもいい。

 そんな気がして。

「痛いのは、平気?」

 平気な人なんて、いるわけない。

 そう思ったけど、普通とか常識とか、たぶんどうでもいい。

 彼女はいま、私に聞いてるんだ。

「痛いのは、苦手……。少しなら耐えられるけど」

「麻酔、使ってあげる。ここで眠らせていい?」

「寝ちゃうのは……ちょっと、困るかも」

 あと少ししたら、施設に戻らなくてはいけない。

 結局、自分はルールに捕らわれていて、自分の意思ではないけれど。

「食事する様子を、見せてはいけないのだけど」

 なんでいま、食事の話になるんだろう。

「どうして?」

「はしたないんだったかしら。私、食事のマナーがなってないみたいなの」

「そんな……」

 マナーなんて、誰かが作ったルールだ。

 きっと必要なものなんだけど……。

「マナーとか、私は気にしない」

「ありがとう。それじゃあ、なるべくこのままの私で、食事する。それなら……きっと、あなたも怖くない」

 どういう意味か、私が考えるより早く、彼女が私の右手を取った。

 指先を絡めとられ、心臓がバクバクと音を立て始める。

「なに……するの?」

「あなたがいらないって言ったもの、もらうの」

「どうやって?」

「あなたを食べてよ」

 食べられるはずがない。

 そう思っていたからか、あるいは、彼女に指を絡め取られているからか、恐怖心はない。

 好奇心と、興味と、興奮が入り混じる。

「少し、チクッとするかも」

 そう言われた直後、手のひらにチクリとなにかが刺さったような気がした。

 反射的に手を引きそうになったけど、抑え込むように、私の右手を、彼女が両手で包み込む。

「あ……」

「動かないで。いま、麻酔をきかせているだけ」

 いつの間にか、注射でも打たれたんだろうか。

 注射器なんて持ってなさそうなのに。

「見たくないと思ったら、目を伏せて」

「……大丈夫」

 私がそう告げると、彼女は私の小指に舌先を伸ばした。

「え……」

 それがなんだかすごく、美しいもののように思えた。

 舌先が、味を確かめるみたいに私の小指に這わされる。

「あ……」

 そのまま口に含まれ、温かい粘膜が私の小指を包み込んだ。

 美しいと思っていたのに、いやらしいものに感じてしまう。

「ごめん、なさい」

 申し訳ない気持ちになって、私は彼女に謝った。

「ん……なぜ謝るの? わからない」

 彼女は、小指を口内に入れたまま、私に尋ねる。

「……変なこと、してるみたいに思ってしまったから」

「変なこと……それは、あなたの嫌なこと?」

 私は、首を左右に振った。

「嫌じゃない。でも……意識しそうってこと……」

「意識?」

「これ以上なにかされたら……そういう目で、あなたを見てしまいそう」

「そういう目って……?」

 本当に理解していないのか、煽っているのか。

 たぶん、本当に理解していないのかもしれない。

 味わうように小指をしゃぶりながら、私に尋ねる。

 初対面なのに。

 信頼できる相手かもわからないのに。

 ああ、でも、うちの学校の子ではないだろうし、こんなことをしてくるくらいだ。

「くすぐったい……ジンジンしてるの。あなたに……欲情、しそう」

「それは、いらない感情?」

「わからない……」

「とりあえず……続ける」

 続ける……ああ、いいんだ。

 私に欲情されても、構わないんだ?

 ほっと一安心した瞬間、これまで抑えていた思いが溢れるみたいに、体が熱くなってきた。

「ん……」

「それじゃあ……いただきます」

 そう彼女が告げた直後、ボキッと、なにかが折れる音がした。

 きっと普段なら、不快な音だと感じていただろう。

 聞いてはいけない、人がケガをする音。

「あ……ああ……!」

 痛くはない。

 きっと、麻酔がきいているんだろう。

 私の小指を咥えたまま、太いストローでなにかを飲むみたいに、彼女がなにかをすすり上げる。

「うぁっ……ん……」

 彼女が口を離した瞬間、自分の小指の第一関節より先がなくなっていることに気づいた。

 本当に、食べられた?

 でも、私は小指を食べていいとは言ってない。

 言ってないけど……。

「換えを持ってきていないから、私の小指をあげる」

 彼女はそう言うと、両手で掴んでいた私の右手から、右手だけを外すと、今度は自分の小指を口に含んだ。

 ポキンと音を鳴らした後、口の中から小指の先を取り出す。

 私のじゃない、彼女のだ。

 そうして取り出された小指の先を、私の小指に押し当てる。

 断面がくっつくように。


 どうしてこんなことをされているのに、頭は混乱しないんだろう。

 理解が追いついていないから?

 彼女が、美しいから?

 ……違う。

 きっと、彼女が私の悲しみや混乱を、食べてくれたから。

 恐怖心さえも、食べられたのだろう。

 ありえないほど、私は落ち着いていた。

 正確には、混乱していないだけで、少し興奮していた。

「大丈夫。もう少しして馴染んだら、ちゃんと動かせるから」

「うん……」

 もともと、誰かに認められたかったわけじゃない。

 私は、普通じゃなくていい。

 私以外にも、普通じゃない別の誰かが、どこかにいてくれるから。

 ここにいて、私に小指をくれた。

「食べてくれて、ありがとう」

「眠っていない人を食べたの、初めてなの。だからこんな風に感謝されたのも、初めて」

「……私、あなたの初めてになれたのね」

「そうね」

「また……会える?」

「この奥にある館に住んでるの。来てくれたら、会えるわ」

 儀式のような行為の余韻が、少しずつ落ち着き始めた頃、遠くで私を呼ぶ声に気がついた。

 タイミングよく、いま呼ばれ始めたのかもしれないし、ずっと呼ばれていたけど、耳に入っていなかっただけかもしれない。

「戻らないと……」

「ええ。それじゃあまた……」

 私は、彼女が見えなくなるまで、その背を見送った。

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