ハングリー・ペローという男
実はトロイの木馬の中には空洞があった。
その空洞には王国軍の精鋭部隊が身を潜めており、奇襲を仕掛ける機会を今か今かと待っていた。
しかし、その機会は永遠に訪れることはなかった。
なぜならば、トロイの木馬の正中線に、鬼神のごとき漆黒の斬撃が走ったからである。
【鬼殺し】の刀身から放たれた大輪の黒い
その斬撃は横回転しながら燃え盛り、木馬を一刀両断の真っ二つに――咲き裂いた。ひらりひらりと黒い火花が舞い散ると、夏の終わりを告げるように新たな火種を戦場に蒔いていった。
精鋭部隊はトロイの木馬と運命をともにして、命を儚く散らせた。
それから巨大な黒馬はくるみ割り人形のように割れて、いびつな茶碗のように草原に転がった。木馬を押していた兵士は下敷きとなりぺっちゃんこに潰れる。木馬の横腹から大量の血液が染み出した。
トロイの木馬は紅く染まり、黒く燃えて、やがて白い灰となった。
絶えず、黒向日葵は直進する。
そのまま王国軍を分断し、空の雲さえも
お天道様が、戦場をあまねく照らす。
立て続けに、カラバ侯爵の横を黒向日葵は通り抜けて椅子の肘掛けを寸断した。
その際、灰色オオカミの毛皮に黒焔が燃え移る。
「アッツアアッッツ!」
草原でのたうち回るカラバ侯爵。
それから慌てて毛皮を脱ぎ捨てると起き上がり命令した。
「あの鬼にゅの首を討ちゅ取りぇ!」
だがしかし、その命令に従う兵士はもはや生き残っていなかった。
残りの兵士たちは、
「うわあ、あんなの手に負えねえよ。助けてぇ!」
と、悲鳴を上げながら回れ右をして逃げ出してしまったではないか。
「おまえらぁ……! 鬼退治を……あっ、ちょっ、待て……俺様を置いていくでない!」
カラバ侯爵は腰を抜かしながら、兵士たちに追随した。
撤退する軍勢を見送りながら、3匹の子ブタは、クワ、トンカチ、コテを合わせる。ビョーキはエプロンスカートの汚れを払った。
ハスキーは首なし馬から降りて父親の毛皮を拾い上げると、焼き焦げた毛皮を握りしめながら天を仰ぐのだった。
あとに残ったものは、
血も涙もない地獄絵図。
そして、そのさなかに日本一美しい薄桃色の鬼が立っていた。
「触らぬ鬼に祟りなしじゃ。命乞いなら神にせえ」
そう捨て台詞を吐いて、鬼は【鬼殺し】を納刀する。
そののち、お腰に付けた豆まき用の大豆の練り込まれたきび団子を囓った。
「この身体になるとまるでナメクジでも食うとるようじゃ」
苦虫を噛み潰したようにきび団子を咀嚼する鬼。
またたく間に薄桃色の毛髪はすーっと枯れたように黒く染まっていった。桃瞳も同様に腐敗し黒くしぼむ。犬歯は短くなると、漆黒の2本の角もズヌヌーッと頭皮に埋没していく。
憑き物が落ちたように、いつものモモタに戻った。
【鬼殺し】に殺されたのは、やはり一匹の鬼だった。
一行の視線は自然とモモタに吸い寄せられ、その瞳は説明を求めていた。
「あのなー……じゃから、これはのう」
モモタが何を言おうかと困っていた、まさにそのとき――
「モモタァ!」
と、レンガの家から飛び出してきたシンデレラが問答無用で抱きついてきた。
「……オニ心配したんだからね、バカァ」
あげーな僕を見て、躊躇なく抱きつくか……普通。
モモタはシンデレラに心から感謝した。
人間に救われた気がした。
しかし何を言ったもんかと思案してからモモタは言う。
「おい、シンデレラ」
「んぅ? なに?」
「おめえ……まだおったんか?」
「そらいるわよ!」
シンデレラは顔を起こして怒った。
「ずっとモモタの傍にいてやるんだからね! そしていつの日か、あんたを恋の魔法にかけてやるわ! せいぜい覚悟しときなさいよ!」
「……なんちゅう恐ろしい魔法じゃ」
そういや、こいつ魔法使いやったな。
忘れかけとったわ。
モモタが思い出していると、続けて忠猫ビョーキは言った。
「角のことはモモタにゃんの話したいときでいいにゃん。いつまでも待つにゃん」
モモタは新しい仲間たちを見つめた。
「まあ食えない情報に価値はないブゥ」
「ポクでよければいつでも相談に乗るトン」
「俺たちはともに死戦をくぐったんだ。もう立派な兄弟だぜ」
3匹の子ブタはふくよかに笑った。
「モモタお兄ちゃんはどう変身しても、あたしの大好きなモモタお兄ちゃんだし……。それは変わらないし」
赤ずきんも面映ゆそうに屈託なく笑った。
「……おめえら」
温かく迎えられて、モモタは柄にもなく感極まってしまった。
ハックは「ヒヒーン」と鳴き、レンガの家から出ようとしたが、ドア枠に刺さった矢に身体が引っかかり、どう足掻いても出られそうになかった。
とそこで、焼け残った父の毛皮を持つハスキーは一同の元へ戻ってきた。
「桃兄の事情は聞かないよ」
戦前よりもどこか
「お兄……ちゃん?」
赤ずきんはハスキーに駆け寄ろうとして、そこで立ち止まった。
それほどに、ハスキーの透き通ったブルーの瞳は充血して見る影もなかった。
「間違いない。ハングリー・ペローはまだ近くいる。奴の匂いがプンプンするんだ」
「……お兄ちゃん」
妹が眼中に入っていないのか、ハスキーはヨダレを垂らして眼光は鋭い。まるで薬物を乱用したかのように高揚していた。
もしかしたら実際に兵士が所持していた物を摘まんだのかもしれない。
「あのな、ハスキーやー……」
「何も言わないでよ。桃兄」
ハスキーは機先を制した。
「その代わり、ぼくもあなたに何も聞きません。これはあくまで、ぼくたち家族の問題です。まだ弔い合戦は終わってないんだ」
これでもう何度目か、ハスキーとモモタはにらみ合った。
お互い、腹にケダモノを飼う者同士。
食うか食われるか。
「別に僕の言うことなんか聞かんでもええんよ。じゃけど、妹の言うこたー耳に入れぇ」
モモタは言った。
「おめえは何のために、そないでけー耳をしてるんよ? 赤ずきんの言葉をうまく聞くためじゃなかったんか? どうなんじゃ、その大きな口で言うてみぃ!」
モモタに問われて、ハスキーはハッと我に返った。
隣の赤ずきんを見下ろす。
そして何かハスキーが言うよりも先に、赤ずきんは血まみれの兄に抱きついた。
「……お兄ちゃんまで、あたしの前からいなくならないでほしいし」
それだけで充分だった。
兄を引き止めるには妹のその言葉だけで充分すぎるほどに充分なのだった。
「うん、わかったよ。ごめん。もう赤ずきんをひとりにしないから……帰ろう」
オオカミ兄妹は血の匂いのする赤い抱擁を交わした。
家族愛を再確認してから和やかなムードが流れる。
「ほいたら、帰るんよ。僕たちの学園に」
と、モモタは日直ではないが授業終了の号令をかけて歩き出そうとした。
しかし、そんな一行に忍び寄る影があった。
***
伝説の猟師。
ハングリー・ペロー。
彼自身、15歳までを野生のオオカミに育てられた。
そして、オオカミ狩り専門の猟師を追い払った日の夜のことだ。
彼が初めて猟師の銃を手にしたとき、自分は獣ではなく人間だと本能で悟ったのだ。
次に湧き上がった激情は、自分を畜生に貶めたことに対する家族への復讐だった。
次の日の早朝、ペローはオオカミの群れを全滅させた。
ついに夜から抜け出して野生と決別し、彼に人間としての夜明けが迎えに来た。人としては曲がりくねった生い立ちだった。
あれから15年の月日が経った。
今、彼の目の前には抱擁するオオカミ兄妹。
やることは何も変わらない。
オオカミのフリをする人間を殺し、人間のフリをするオオカミを殺す。
彼からすれば、それは同じことだった。
そんな彼はいったいどこに隠れていたのか?
答えは単純だった。
ペローは死体の山に紛れていた。
地道に匍匐前進しながら、ベストポジションに着いた。
おかげさまで鬼という奇怪な種も拝めた。
しかし、あくまでペローの標的はオオカミ専門だった。
同族でじゃれ合い、重なり合った瞬間。
どんな動物だろうと油断する――刹那。
ペローは照準を定め、ペロッと舌舐めずりして、猟銃の
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