懺悔

「メグ! どうしたの? ちょうど今連絡しようと思ってたところよ」


 病室には雛子ひなこがいた。返事もそこそこにベッドに駆け寄ったメグが見たのは、様々な器械に繋がれ酸素マスクをしているアンナの痛々しい姿だった。


「具合いはどうなの?」


 見上げた雛子の目が見る間に潤む。


「昼過ぎに発作を起こしてね、やっと落ち着いたところよ。意識はないけど今は安定してるわ。今度発作を起こしたら危ないって前に先生に言われてたのよ。多分今夜が山だと……」


 雛子はうつむいて鼻をすすった。


「お母さん、大丈夫?」


「ん、大丈夫よ。仕事で慣れてるはずなのにね。メグ、お母さんあちこちに連絡しなきゃならないから、ここでおばあちゃん見ててくれる?」


「わかった」


 メグは廊下にいた紫苑しおんを雛子に紹介してから病室に招き入れた。驚いたことにその僅かな時間にゴン太が現れアンナの枕もとに座っていた。


「ゴン太! いったいどこにいたのよ! 今日会議でね……」


 ゴン太に詰め寄ろうとするメグを紫苑が制した。ゴン太は愛おしげにアンナに頬擦りしている。


「アンナ、すまんな、わしのせいで辛い思いさせて」


「ゴン太?」


 紫苑が唇に人差し指を当てたので、メグは不審に思いながらも口をつぐんだ。


「アンナから母ちゃん奪ったんはわしなんや。どうしてもひと言謝りとうてな」


 えっ……


 その言葉と同時にメグの脳内に映像が流れ始めた。それはゴン太がアンナに見せているものだと、メグには直感的にわかった。


 木の塀が続く細い路地で、茶トラの子猫が二匹の猫にいたぶられている。子猫はゴン太だ。茶トラの模様と可愛げのない顔が少しも変わっていないからすぐわかる。毛はむしり取られあちこちから出血して、目を背けたくなるほどの酷い有り様だ。


「魔界から追い出されたわしは人間界を彷徨さまよっとった。こっちでは魔力のあるもんがそばにおらな、わしら魔猫はよう生きていかれへん。わしは弱り切って、のたれ死ぬ寸前やった」


 そこへ若い女性が現れ二匹の猫を追い払った。シンプルなワンピースに亜麻色の髪、背が高く色白で瞳はエメラルドグリーン。写真で見た若い頃のアンナそっくりだ。


「え、おばあちゃん?」


 思わず声が漏れる。


 アンナ似の女性は、傷だらけのゴン太を拾い上げると買い物袋から手拭いを取り出してそっとくるんだ。そして、瓦屋根の日本家屋が立ち並ぶ砂利道を歩いて大きな洋館へと連れて帰った。彼女を嬉々として出迎えたのが、同じく亜麻色の髪とエメラルドグリーンの瞳を持つ幼い少女だ。そこでメグは合点がいった。これは祖母の幼い頃の話なのだと。


 メグの曾祖母は献身的にゴン太の世話をした。祖母のアンナも一緒にだ。ゴン太は少しずつ元気になり、やがてアンナの家の飼い猫として穏やかな日々を送ることになった。そこには一見厳格そうだが優しい目をした曽祖父の姿もあった。


「オリガは百年にひとりと言われた魔法使いやった」


「!」


 思わず紫苑の顔を見ると、彼女は静かに、だがしっかりとメグの目を見て頷いた。この人は何もかも知っているのだとそのときメグは悟った。


「オリガはわしに会うまでは魔力を封印してたんや。せやのにわしを助けるために魔法を使うてしもた。それが終わりの始まりやった」


 景色は突然異国の田舎町に変わった。町外れの粗末な小屋に恐らくは両親と弟、そして十代のオリガと思われる少女がいる。皆貧しい身なりをして、テーブルには僅かなパンとほんの少しのスープしかない。それでも温かな笑顔が家族の幸せを物語っていた。


 突然扉が開いて、銃を持った男たちがなだれ込んできた。怯えきった家族の顔。覆面をした中央の男がオリガの腕を掴んで引きずり出す。すがった父は足蹴にされて銃で容赦なく殴られた。泣き叫ぶ母と弟、そしてオリガ。しかし、抵抗も虚しく引きずられるようにして馬車に押し込まれた。


「当時はまだ魔法使いの売り買いが当たり前の時代でな、人さらいが横行しとった。悪い魔法使いがいてな、子どもの魔法使いを値踏みして売りさばくんや。中には自ら売り飛ばす親もあったらしいが、オリガの親はオリガを庇って転々としてたんや。けど、ある日とうとう見つかってしもた」


 オリガは大きな屋敷に連れて行かれ、地下牢のようなところに入れられてしまう。そこには同じように連れさられたであろう少年少女が手足を鎖で繋がれて打ちひしがれていた。時折買い手と見られる者が訪れて、恰幅のいい主と値段交渉をして、成立すれば子どもを連れて行く。二十四時間銃を持った見張りがいる地下牢では、オリガと言えども逃げ出すことは叶わなかった。


 ある日、オリガは軍服を着た男に買われた。車に乗せられたオリガは、家の近くを通る際にこっそり魔法で車を故障させ、隙を見て逃げ出した。鎖をほどき、走りに走って家にたどり着いたオリガが見たものは、黒焦げになり崩れ落ちた我が家だった。


「この時オリガは悟ったんや。魔法使いでいる限り自分は決して幸せにはなれへんてな。だから指輪に魔力を封印した。二度と魔法を使わないと誓ったんや。そして生まれた国を離れ、孤独な闘いの末にアンナの父親と出会い、やっと家族を持てたんがこの日本や」


 メグはこのとき、出会ったばかりの頃にゴン太が言った言葉を思い出した。


「凄い魔法使いだからって幸せとは限らへん」


 ゴン太が言っていたのはこのことだったのだ。


 場面はアンナの生家へと戻り、穏やかな日常の風景が映し出された。


「わしはほんまに幸せやった。後にも先にも、あんなに幸せやったことはあらへん。せやけどな、それは長続きせえへんかった。あの日は突然来たんや」


 アンナが真新しいランドセルを背負って学校へ向かった直後、家の前に黒塗りの車が停まり、ふたり連れの外国人がオリガに面会を求めた。応接間に通された男たちは、対峙したアンナの父親に唐突に銃を向けた。


 オリガは深いため息をつくと左手中指にはめた指輪に口づけをした。するとすぐさま指輪から紫の煙が吹き出し天に昇った。百年にひとりの魔法使いが蘇った瞬間だった。オリガは目の前のふたりを睨みつけた。見る間に銃が溶け、慌てふためくふたりは逃げる間もなく見えない縄で縛り上げられた。僅か数秒の出来事だ。


 もがく男たちには目もくれず、オリガは夫の横に座った。


「驚かないんですね。ご存知だったのですか」


 年の割に落ち着いた、それでいて清らかな声がメグの脳内に響いた。


「ああ」


 低くて張りのある、けれど悲しげな声だ。オリガは夫の手に自分の白い手を重ねると震える声で言葉を絞り出した。


「私はここを去らねばなりません。たとえ今この者たちを黙らせても、また同じことの繰り返しだからです。でも、アンナのことを思うと……」


 オリガは声を詰まらせむせび泣いた。その肩をアンナの父が強く抱き締める。その眼もまた悲しみに暮れている。


「わしはオリガに『魔界に逃げよう』って言うたんや。その時見せられたんがさっきの黒焦げの家やった。オリガはもう二度と家族を苦しめとうなかったんや」


 ゴン太はアンナにもう一度頬擦りをした。愛しくて愛しくて仕方ないという風に。


 その時、アンナの目からひとすじの涙がこぼれた。


「レ、オ」


「アンナ! 気ぃついたんか?」


「おばあちゃん!」


 アンナは布団からゆっくりと手を伸ばすと、目を閉じたままゴン太の首筋を撫でた。


「あなた、レオ、だったのね」


 ようやく聞き取れるくらいのか細い声だ。


「アンナ、ほんまにすまんかった。全部わしのせいなんや」


 アンナは薄っすらと目を開けて、苦しい息の下から言葉を絞り出した。


「レオ、ありが、とう……もう、自分を、責めな、いで……ママ……来てくれ……」


 突然枕元の器具がけたたましい音を立てた。


「アンナ、まだや、まだ逝かんといてくれ!」


 メグが呆然と立ち尽くす中、紫苑がナースコールを押し看護師が駆けつけた。メグが気づいたときにはゴン太の姿はもうなかった。


 間もなく病室はメグの両親、叔父夫婦、いとこたちで埋め尽くされ、皆が見守る中、アンナは静かに永遠の眠りについた。その顔には穏やかな微笑が浮かんでいた。

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