望月家の人々

「メグ! いつまで寝てるつもりなの! 片付かないから早く起きてちょうだい!」


 翌朝、メグは母のドア越しの声で目が覚めた。いつもなら布団を剥ぎに来るのだが、今朝はゴン太に遠慮しているのだろう。中学の頃はこうして起こされることが当たり前で腹立たしくさえ思っていたけれど、三年間の寮生活を終えた今は起こしてくれる人のいる有り難さを思わずにはいられない。


 そんな幸せを噛み締めながら再び夢の中へ落ちかけたメグを、突然の息苦しさが襲った。


「ぐ、ぐるぢい……」


 堪らず目を開けたメグの目の前にゴン太のぺちゃんと潰れた顔があった。


「ゴン太!」


 咄嗟に両手で押し除けようとしたのだが、その巨体はびくともしないどころか、大岩が載ったかのごとく身動きさえできない。メグは声を振り絞った。


「ちょっと乙女の胸の上に乗るなんてどういうつもり、この変態デブ猫! 早くどきなさいよっ!」


「洗濯板と変わらへんやん」


「何ですって! こう見えてCカップよ! いいから早くどいて!」


「わし腹が減って動けへんねん。早よ起きてんか」


「わかった、起きるからからどいてっ!」


「よっしゃ」


 その声と同時にゴン太がふわっと浮いて、メグは尋常でない息苦しさから解放された。いったい何キロあるんだ、ゴン太!


 ベッドから下りて素足にスリッパを履き、カーディガンを羽織ってカーテンを開ける。朝日が差し込む部屋は時間が巻き戻ったように三年前と変わらず、まだ荷解きしていない段ボールの山と、ゴン太のために母親が用意してくれたソファーだけが時間の経過を教えてくれた。


「ほんとに帰ってきたんだなあ」


「何でもええから飯や、飯!」


 感慨にふけるメグの気分を台無しにするセリフを吐きながら、さっさと歩いていくゴン太。


「え、ゴン太が歩いてる⁉」


「わしかて歩くがな。ええか、ここは一般家庭や。不要不急の魔法は禁止やで」


「ゴン太が当たり前のこと言ってる」


「これでも一応公務員やさかいな」


「学校から帰る時は散々魔法使ってたくせに」


「あれは、ほれ、移動をスムーズにするための方便や」


「あ〜、はいはい、マカロンよろしくぅ」


「がめつい女やなあ」


「どっちが!」


 台所では母親がキビキビと動き回っていた。


「おはよう、お母さん」


「あら、やっと起きたのね、おはよう。わかってると思うけど、仕事が始まったらそろそろ出掛けなきゃいけない時間なのよ。いつまでも学生気分でいちゃだめだからね。自分のことは自分でするのよ。お母さんだって朝はものすごく忙しいんだから」


 立板に水とばかりにまくし立てるのはメグの母の雛子ひなこだ。近所のクリニックで看護師として働いている。ちょっと口うるさいが、明るく働き者の自慢の母だ。


 雛子はしゃがんでゴン太の顔をのぞき込んだ。


「はじめまして、猫ちゃん。これからよろしくね。ソファは気に入ってもらえたかしら」


 するとゴン太がこれまで聞いたこともないような可愛らしい声でみゃあと鳴いた。


「キモっ」


「やめなさい、そんな言葉。メグがぶっさいくなオヤジ猫だなんて言うからどんな子が来るかと思ったら、ぽっちゃりでふわふわで凄く可愛いじゃないの。名前は何て言うの?」


「お前ぶっさいくなオヤジ猫って言うたんかっ」


 ゴン太の怒気のこもった声は軽く受け流すメグ。


「ゴン太って言うんだって。自分で決めたって言ってた」


「ゴン太?……ユ、ユニークな名前ね。自分で決めたって……あっ、そうか、メグとは話ができるんだものね。羨ましいわ。まあ、とりあえずご飯食べちゃって。お母さん、八時には出ないといけないから」


 そう言って見上げた時計は、間もなく七時半になろうとしていた。


「片付けしとくし、洗濯物も干しとくから出かける支度したら? まだなんでしょ?」


 雛子が目を丸くした。


「メグちゃん! そんな大人みたいなこと言えるようになったのね……」


 エプロンの端で目元を拭う雛子。感性豊かなアラフィフである。


「じゃあ、後は任せたわね。ゴンちゃんのご飯は同じでいいって言われたけど、よくわからないからメグが面倒みてよ。お父さんはもう済ませて店にいるからね。あと、お昼は帰ってくるけど一時過ぎるから、お腹が空いたら何か適当に食べてね」


 雛子は早口でまくし立てると、足早に台所から出て行った。


「お前んとこの味噌汁、今時煮干しなんやな。懐かしいて涙が出るわ」


 振り向くと既にゴン太が食卓についていた。


「ちょっとそれ、あたしのお茶碗にあたしのお箸! 勝手に使わないでよ!」


「煮干しがそのまんま具になってるとこもええなあ」


「んもう。お母さんの実家の作り方だって。カルシウムが取れるからって、小さい頃からそうやって食べてきたんだよ」


「ええなあ、美味いなあ」


 ゴン太があまりにも美味しそうに食べるのでそれ以上文句を言う気が起こらず、また大してお腹も空いていなかったので、朝食はそのままゴン太に譲ることにしてメグはサーバーからコーヒーを注いだ。


「ゴン太も飲む?」


「わしは茶がええなあ」


「あ゛?」


「……コーヒー頼んます」


 それにしてもゴン太の食欲は凄まじい。いくら大柄とはいえ、人間と比べたら体の大きさは数分の一に過ぎない。それなのに食べる量は同じか多いくらいだ。しかも見事な箸使い! いったいどうやって持っているのやら?


「ねえ、猫って塩分が多いとまずいんじゃなかったっけ?」


「わしら猫の姿しとっても動物の猫とは違う生き物やさかい心配いらへんで」


「し、心配なんかしてないわよ」


「そうか。ほな、おかわり。このお新香もえろう美味いな」


「それはお母さん自慢の糠漬け。お嫁入りの時に持ってきた糠床で漬けてるんだよ。私もお嫁に行くとき持ってくことに決めてるの」


「メグが嫁に! 彼氏がおったこともないくせに嫁にて」


 ご飯粒を飛ばしながらゴン太がカカカと笑った。


「うるさいなあ、中学の時に一瞬両思いになった人がいたもんね!」


「すぐに振られたんか」


「あたしの方から振ってやったのよ、あんな二股野郎!」


「そら気の毒に。いい出会いがあるとええなあ。はよおかわりよそってんか」


「棒読みだし……はいはい、今やりますよ」


「『はい』は一回やで」


「へいへいほいほいはーい!」


「何だか楽しそうだねえ」


「お父さん!」


 いつの間にかメグの父のさとるが入り口に立っていた。いったいどこから聞いていたんだろうと少し背中が寒くなるメグ。


「僕にもコーヒー淹れてくれないか」


 そうメグに言うと、悟はゴン太の正面に座った。


「はじめまして、猫くん。メグの父親の悟です。メグ、訳してくれるかい?」


「お父さん、ゴン太は人間の言葉はそのまま理解できるよ」


 ゴン太がそうだとばかりににゃあと鳴く。雛子の時と違って凛々しい鳴き方だ。


「君はゴン太っていうのか……随分と個性的な名前だね」


「まあ、本人の希望だからね」


「そない個性的な名前なんか? 何や『太』をつけるんが流行ってるって聞いてんねんけど」


「そうだね、それはそうなんだけど」


 メグは、初めて会った時から言おうかどうしようかずっと迷っていたことを遂に口にした。


「でもね『ゴン太』って一般的には犬の名前なんだよね」


「ガーン!」


 その後、ゴン太の外れた顎は暫く戻ることはなかった。それにしても、驚いた時に「ガーン」と言葉に出す人を初めて見たとメグは思った。正確には猫だけど。

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