校長先生
「これで全部……かな」
もう一度辺りを見回して、メグはバックパックのファスナーを閉じた。備え付けの家具だけが残る部屋はがらんとして空気まで違う気がする。部屋を出て鍵をかければもう二度と戻ることのない場所だ。
メグは立ち上がり窓を開けた。少し高台にある寮からは遠くの山並みがよく見えるはずなのだが、残念なことに今日は春霞が邪魔をしてぼんやりとしている。
入学当初、期待と不安で心が乱れていたあの頃、故郷に似たこの山並みを見ながら心を落ち着けたものだった。その後も辛いこと苦しいことがあるたびに、この窓を開けて吐き出してきた。
「三年間ありがとうございました」
頭を下げると、ふわりと甘い香りが顔を撫でた。思いがけず涙が頬を伝う。窓を閉め、鞄を背負い、ドアを開け、もう一度部屋を見回してから鍵を閉めた。宿直室前の箱に鍵を入れたら本当のお別れだ。
ドアにそっと手を添えてもう一度お礼を言い、さあ歩き出そうとしたその瞬間、突然目の前に校長の顔が現れた。のけぞって倒れそうになったメグに構わず、校長はにこやかに語りかけた。
「ごきげんよう、望月さん。今日で退寮ですってね。出て行く前にちょっと校長室に来てくださらない?」
「え、校長室に、ですか?」
メグにとって校長は常に壇上の人だった。これまで一度だって言葉を交わしたことはない。その校長がメグにどんな用があるというのか。まず褒められることはないだろうが、だからといって断る理由もない。
メグが躊躇していると、少し困った顔の校長が再び口を開いた。
「大した用事ではないの。お菓子をたくさんいただいて食べ切れないのよ。寮には今あなたしかいないし、手伝ってくださらないかしら」
こんな時ゴン太なら迷わず瞬間移動するだろうが、そういえば朝から姿が見えない。それならそれでいっそこのまま置いていってしまいたいとメグは思った。
いや、それよりも今は校長先生!
「わかりました、これから伺います」
「ありがとう、助かるわ」
そう言い終えると、朗らかな笑顔の映像は音もなく消えた。メグは気を取り直し、改めて一歩を踏み出した。鍵を箱に入れ、寮の玄関を出て赤レンガの校舎へと向かう。目指す校長室は正面玄関のすぐ脇だ。
メグが聞いた話によると、若い頃の校長はかなりの有名人で、定年退職後に是非にと乞われてこの学校に赴任したらしい。さっきのホログラムは本人がそこにいるかのような鮮明さだった。実技の先生の画像がもっとずっと粗かったことからしてもその実力は想像できる。言うまでもないが、メグは画像を結ぶことすらできない。
メグは校長室の前で鞄を下ろし、軽く深呼吸してからノックした。
「どうぞ」
「失礼します」
初めて入る校長室は思ったほど広くなかった。奥に大きめの机と椅子があり、壁には本棚、手前には応接セットが並んでいる。校長は椅子から立ち上がるとメグにソファを勧めた。いつも通り、赤毛のアンに出てきそうな詰め襟の裾の長いワンピースにショートブーツといういでたちだ。
「どうぞお座りになって」
「ありがとうございます」
メグの声は上ずっていた。何故って、テーブルの上にはバイキングでしか見たことのない三段重ねの皿がドンと置かれ、溢れんばかりにスイーツが盛られているからだ。チョコボンボンにマカロンにマドレーヌにクッキー、真ん中の段はしっかり膨らんだボリューミーなスコーン、そしていちばん下には目にも鮮やかなフルーツサンドが隙間なく並べられている。メグは噴水のように湧き出す唾液を飲み込むのに必死だった。
「今紅茶を淹れてくるわね。私はもういただいたから、好きなだけ召し上がれ」
「いただきますっ!」
メグに遠慮する余裕はなかった。ゴン太に六千円奪われたせいで昨日からろくに食べていない。散々迷った挙句フルーツサンドを手に取った。艶々のいちごの断面がたっぷりのクリームに包まれて整列している姿は神々しくさえある。
「こりゃ旨いな」
不意にすぐそばで、メグが最も聞きたくない声が聞こえた。いつの間に来たのか、ソファに腰掛けたゴン太が肉球しかないはずの手で器用にサンドイッチを掴み、次から次へと口に放り込んでいく。見る間に減っていくサンドイッチ。その肉球は次にスコーンへと伸びた。うかうかしていたらすぐに無くなりそうな勢いだ。メグも負けじと手を伸ばし、必死で咀嚼する。最早味わうどころではなくなっていた。
「あら、レオ、来てたのね」
校長の声にふと我にかえると、メグの前には大量の食べこぼしが散らかっていた。
「まあ、望月さん……」
「いや、あの、違うんです!」
本人はそう言っているつもりなのだが、実際にはスコーンのカスが飛び散っただけだった。隣のゴン太をキッと睨むと、自分はひとつも食べてませんとばかりにすました顔をしている。
「余程お腹が空いていたのね。喉が乾いたでしょう。紅茶を召し上がれ」
そう気の毒そうに言うと、押してきたワゴンから紅茶のカップを取ってメグの前に置いた。いつの間にかテーブルの汚れは綺麗さっぱり消えていた。
「すみません」
心の中では尚も「違うんです」と繰り返してながら、メグは差し出された紅茶をひと口啜った。甘い香りが鼻の奥いっぱいに広がり、思わず幸せなため息が漏れた。
「はあ〜、美味しい〜」
「でしょう? ローズヒップティーよ。若返りの秘薬なの」
「無駄な抵抗やな」
「レオったら、またそんな憎まれ口」
「あの……」
メグはおずおずと口を挟んだ。
「レオって、まさかとは思いますがゴン太のことですか?」
「ゴン太?」
今度は校長が不思議そうな顔をする。
「あなたゴン太って呼ばれてるの?」
「そうや。わしの日本での名前や。なかなかええやろ?」
「ゴン太、ゴン太ねえ……あと、その話し方も気になるんだけど」
「上方新喜劇のビデオ見て日本語覚えてん。あれおもろいで。それに大阪は食い倒れの街や。わしにピッタリやないか」
メグと校長は顔を見合わせて首を振った。まともな会話は成り立ちそうもない。
「わかったわ。じゃあ、そういうことにしておくわね。ところで……」
校長はメグの方に向き直ると、白い封筒をテーブルに置いた。
「昨日はレオが迷惑をかけてごめんなさいね」
「これは?」
「あなたから借りたお金よ。中をあらためてちょうだい」
メグが封筒を覗くと、きっちり六千円入っていた。
「どうして校長先生が……」
「これを見て」
校長が脇の壁を見ると、視線の先に屋上の様子が映し出された。そこには教科書で見た噂草の花が咲いていて、ヘリウムガスを吸った時のような甲高い声で何か喚いている。
「昨日の……まだ残ってたんだ!」
隣から小さな舌打ちが聞こえた。
「レオには私からきつく言っておいたわ。迷惑をかけて悪かったわね」
「いえ、そんな」
メグはゴン太を見た。例のごとく寝そべって、爪楊枝を咥えてシーシーやっている。とても反省しているようには見えない。
「あの、質問してもいいですか」
「何でもどうぞ」
「あの、私以外の卒業生はみんなシュッとした黒猫だったのに、どうして私だけ茶トラのデブ猫……えっと、ゴン太だったんですか」
メグは思い切って訊ねた。今訊かなければ、この先こんな機会は二度とないだろう。校長が少し困り顔になった。
「ああ、そうね。それはね、今年は例年になく卒業生が多くてね、魔猫が足りなかったのよ。それで、昔馴染みのレオを呼び寄せたの」
「でも、何で私が……」
「こう見えてレオは優秀なのよ。きっとあなたの助けになるわ。それに、何かあったらいつでも私を頼ってくれていいから。これは私の連絡先よ。いいこと、困ったときは必ず連絡するのよ」
「ありがとうございます」
答えになってないとメグは思った。けれどこれが精一杯だ。メグは渡されたメモを黙ってポケットにしまった。
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