2
カタン、カコン、と、下駄の音が高く響く。
楓や
車が通れるよう、広く土が
カコン、カタン。
小和の後ろから、下駄の音が続く。ちらりと振り返れば、小和の数歩後ろを、
りくの小屋を発つ際に、自分で持つと言ったのだが、御堂は頑として頷かなかった。その上、りくの小屋を出てから、一言も口を開かない。小和も決してお喋りな方ではなかったが、申し訳なさと、それからほんの少しの怖さで、道中ずっと気不味い思いをしていた。
カタン、カコン、下駄の音だけがやけに大きく響く。小和は持て余した手をきゅ、と組んで、意を決してあの、と御堂に声をかけた。
「御堂さん、」
「……」
「あの、」
御堂はこちらに視線も向けない。仕方なく、小和は返事を待たずに口を開いた。
「あの、おかみさんに、御堂さんのことをどうお話ししたらいいですか」
そこでようやく、御堂がこちらを見る。太い眉をわずかに上げた。
「りくの知り合いだと言えばいい。碧水屋のおかみなら、それで大体は通じるはずだ」
小和は眉を下げた。
確かに、おかみさんならりくのことを知っている。町の古くからいる人たちも、それで納得するだろう。けれど、姉さんたちは。
――昔から、近隣の親を亡くした子とか、親戚の子とかね。引き受けてお茶汲みをやってもらってたんだけど。私の時にはとんと人手がなくてねぇ。お客の子がたまたま住むとこがないって言うもんだから、その子を雇ってからかねぇ。今みたいなのは。
いつだったか、おかみさんはそう言っていた。
昔は、薬師は今よりも頻繁に町に下りていた。お茶汲み娘の姉さんたちも、当然、薬師のことはよく知っていたのだから、暗黙の了解をしていたはずだ。けれど、今の姉さんたちは、お山の薬師そのものを知らない。りくも町にはほとんど降りない。
時代は移り変わっていくのだと、りくは言っていた。
「……旅の修行僧だとでも言っておけ。それ以外は知らぬと言えば、十分だろう」
俯いたまま、黙ってしまっていた小和に、御堂が耐えかねたように口を開いた。首の後ろをがしがしと掻いている。
「分かりました」
小和は、少しほっとして頷いた。
ふと、山の匂いが変わる。
秋の
大通りには板葺きの屋根が立ち並び、右手の山沿いには茶畑が、左手には魚を養殖する溜め池と、その手前の、広々とした屋敷の棟が見えている。あの一帯は町の名士が軒を連ねている。
小和が生まれた村より、尾羽の町はずっと活気があった。商店が並び、家々が隙間なく建ち、白い土が踏み固められた、大きな道がある。ここより人の多いところは、小和には想像がつかないが、笹岡や姉さんたちなどは、帝都はもっとすごいのだと言っていた。鉄道の大きな駅があり、町中をたくさんの馬車が行き交い、お山の学校のような洋風建築が、いたるところに建ち並んでいるのだと。
「随分変わったな」
立ち止まった小和の、隣まで来た御堂が言った。小和は一瞬びくりとして、その巨躯を見上げる。小和よりも、頭二つ分は高いところにある顔が、静かに町を見下ろしていた。
「変わったんですか?」
その表情が、存外穏やかなことに助けられて、小和は問いかける。
「ああ。以前はもっと畑が広かったな。屋根も茅葺きが半分、洋風の建物などは、ほんの十年前には全く無かった……道だけがいつも変わらん。尾羽の山から続く商店の大通り、茶畑に上がる坂、溜め池と繋がった水路、商店と屋敷の間にある少路、」
文句のような口調で御堂は言ったが、その声はどこか、懐かしそうな、優しい響きを持っていた。
ああ、と小和は思う。
――御堂にとって、尾羽の町は、長く見てきた町なのだ。
変化も不変も、その長い時間の中では、繰り返されてきた話なのかもしれないのだった。
山道の入り口まで下りると、尾羽山に一番近い商店である
「あれっ、小和ちゃん」
煙草を口から離して、目を丸くする。
「おじさん、お久しぶりです」
「いやあ、しばらくお山から帰ってこないから、心配してたんだよ、三角はもう大丈夫なのかい」
「はい、ご心配をおかけして、すみません」
小和が頭を下げると、おじさんはそこで、後ろに
「小和ちゃん、こちらさんは」
「あ、あの、りくの知り合いで、旅のお坊様の……」
「御堂と申す」
強く太い声が、小和のあとを引き継ぐ。
「修験の道の途中で尾羽に立ち寄らせていただいた。りくに勧められてしばらく逗留するが、よろしく頼む」
「ああ、りくの……」
牟田のおじさんは、少し目を瞠ってから、御堂に丁寧に頭を下げる。
「碧水屋さんはここから八軒先のお茶屋です。ご宿泊は」
「碧水屋は女ばかりだろう。できれば近くに宿を頼みたいが」
「でしたら、はす向かいの倉戸屋さんに話をしてみますが」
「よろしく頼む」
御堂が頷くのを見て、おじさんは煙草を店先の樽に乗せていた盆に捨てると、手早くそれを片づけて足早に通りを去っていく。
その後を追うこともせず、ゆっくり歩きだした御堂に、小和も従った。物慣れた言い方に、少なからず驚いていた。
碧水屋に着く頃には、牟田のおじさんが報せたのだろう、おかみさんと奈緒が、店先に出て待っていた。
「小和!」
奈緒が、ほ、と顔を綻ばせて、小走りに小和に駆け寄ってくる。小和は頭を下げる間もなく、その白萩の袖に抱き竦められた。
「お帰り、もう大丈夫なの?」
「はい、暫くはまだ、いつもよりたくさんお薬を飲まないといけないですけれど」
「そう……でも、顔色は良さそうね。あ、ええと、こちらが?」
奈緒が顔を上げて問う。小和の隣に立つ長身の大男を改めて眺めると、驚くように少し口を開けた。
「はい、りくの知り合いで」
「御堂と申す」
低く張りのある声が、先ほどと同じように短く答えて、会釈した。奈緒はそれを見て、さっと居住まいを正す。
「無作法をいたしました。妹のような子の顔を久しぶりに見たもので、ご容赦ください」
「よい、私はただの行きあいだ」
素っ気ない言い方に奈緒が戸惑った顔を見せるのを、小和はどうにか繕おうと口を開く。しかし、何も言えないうちに、おかみさんが声をかけた。
「御堂さま、どうぞ店へいらっしゃいませ。お礼にお茶をお淹れいたします」
言いながら、おかみさんは、深々と頭を下げた。
「ご厚意痛み入る」
店の二階席の、一番良い席に御堂を通して、おかみさんは厨房で茶葉を用意する。小和はおかみさんの後を追って、客席の常連客や姉さんたちへの挨拶もそこそこに、厨房に入って手伝おうとした。けれどそれを、おかみさんが止めた。
「いいから、あんたはみんなに顔を見せてきな。元気そうで安心した」
「いえ、ご心配をおかけしてすみません。お茶会も、何にも手伝えなくって……」
「いいんだよそんなの、身体が一番。ほら、今日は休んどきな」
「でも……」
迷うことなく選んだ茶筒から、おかみさんが茶葉を取り出し、茶碗で少し冷ました湯を、そっと急須に入れて、蒸らす。
茶碗に注がれたお茶は、美しい
「……去年できた品種ですね」
小和が言うと、おかみさんが、顔をそっと綻ばせた。
「今年の秋はこれが一番良い。茶の旨味が濃くて、それでしつこくない。――小和、お帰り」
「はい、ただいま帰りました」
小和ははにかんで、頭を下げた。
ただいま、と言える場所が、小和には随分増えた。今はもうない生まれた
おかみさんに追い出されて、あらためて客席の方へ顔を出すと、今か今かと待っていたような顔で姉さんたちとお客さんが迎えてくれる。
「姉さんたち、すみません、ただいま帰りました」
「お帰り、小和!」
店で客に茶を出していたちかが、大きな声で言った。茶を飲んでいた常連客も、他の姉さんたちも笑って、小和ちゃんお帰り、お帰り、と口々に言って手を振る。
「二階にお通しした人、りくさんの知り合いなんだって?」
「小和が大男と連れ立って帰ってきたって聞いて、そりゃもうみんなびっくりして」
「帰ってきたばっかりですぐに手伝おうとするところが、小和よねぇ」
「おかみさんが一から全部、お茶を淹れるなんて、よっぽどの人なのね」
「だから言ったろ、りくんとこから来た人なら心配はないよ」
「重さんたちはそれですぐ納得したけどさ、私らはやっぱり、気になるよ」
碧水屋の常連は、町に古くから住んでいる人が多い。やはりみな、りくの知り合いというだけで、何かを納得ずくのようだった。
厨房を振り返る。おかみさんが、茶菓子とお茶を盆に載せて、二階に上がっていく。
あんなにゆっくりとした手つきで――ともすれば、震えそうな繊細さで――おかみさんがお茶を用意するのを、小和は見たことがなかった。いつだって、丁寧な手付きではあるけれど、長年身体に染みこんでいる故の、俊敏な動きにいつも見とれるのに。
やはり、大変な人を連れてきてしまった。
そんな申し訳なさが、胸の底にぼんやりと漂う。
言い付けたのはりくだが、発端は自分だった。否、そもそも、もっと気を付けて、お遣いをしているとはいえ、笹岡たちとあまり親しくならないようにしていれば――と。
そこまで考えたとき、ごめんください、と客の声がした。
ちかが振り返る。
「いらっしゃいませ……あら、」
小和も振り向いて、息を呑んだ。
笹岡が、店の入り口から顔を覗かせていた。その後ろに、見覚えのある少女がいる。
「ああ、小和さん。今そこで、町の人からご快復したとお聞きしたんですよ。お元気そうで良かった」
小和と目の合った笹岡が微笑んだ。
その、後ろ。
艶やかな黒髪を下げ髪に結い、雪輪に紅葉の透かしが入った、
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