「恩返し、ですか?」

 目の前に座したりくは、きょとんといった様子で、言った。


 小屋は粉まみれだった。

 真っ白な粉が、畳のない板張りの床をすっかり覆い尽くし、三和土たたきから囲炉裏端までは円座が点々と渡され、縁側には手拭いが、置き石のごとく敷かれている。本来、これがこの時期のりくの小屋の常で、小和には見慣れたものだった。かやは体調を回復していたが、毛に粉が付くのを嫌がって、箪笥たんすの上に座布団を置いて丸まっている。日がな一日、あそこから降りないんですよ、と、りくは訪ねてきた小和に呆れたように言った。


「僕は、恩というのはあまり、返せるものではないと思っているんですけどねぇ」

 りくの言葉に、小和は項垂れた。

「――大恩あるのは、分かっているんですけど」

「いえいえ、そういうことじゃなくて」


 囲炉裏を挟んだ向かいでりくは、ひらひらと両手を振ってみせる。

 あまり日を置かずに訪ねてきた小和に、りくは、いつもどおりの穏やかな態度で、棚から茶筒を取り出した。


「たとえば、小和さんが、僕やおかみさんへの恩返しとして、ものすごく親切にしてくれたとします。それで――小和さんは、いつまでそれをすれば、恩返しが終わった、と思えますか?」

「え?」

 囲炉裏に掛けていた鉄瓶から、熱い湯を茶碗に注ぎつつ、りくが言う。


 いつまで――?


 そんな風に考えたことは、一度もなかった。

 いつまでだなんて、期限を決めるものではないとも、思う。


 返せないというのはそう言う意味ですよ、と。

 茶碗で軽く冷ました湯を急須に入れて、りくは微笑んだ。


「恩っていうのは、究極のところ、受け取る側の気持ちなんだと、僕は思います。それが大きな恩か小さな恩かなんて、恩を受けた本人以外が、量れるものではないでしょう? だから、何を、どこまでしたら、恩を返せたと思うかなんて、結局のところ、恩を受けた本人が納得しない限り、返し切ったと思える日は、こないんじゃないかと」

 逆の場合もありますけどね、と、りくはにっこりと笑顔で言う。


「……でも、」

 小和は眉を下げた。

 それはそうかも知れない。けれど、それは、あまりに極論ではないだろうか。小和は大恩を受けたと思っているし、その受けた恩を、こんなに親切にしてもらっているのを、そのままにしておくことはしたくない。


「恩返しなんかしなくてもいい、という話ではないんですよ。ただ、何を恩返しとするかというと、明確な基準などどこにもないものですから……少なくとも僕は、こうして時々様子を見に来てくれるだけでも、とても助かっているんですけど」

 碧水屋のことも、小和さんが今できることで十分だと思いますよ。

 そう言って、りくは蒸らしきったお茶を茶碗に注いだ。


 障子を通して、秋爽しゅうそう漂う木漏れ日が、粉まみれの床にひたりと落ちている。

 山の空気は町より冷たい。乾いた風が床板の隙間から、そっと、小和の畳んだ足先に触れていく。


「……肌寒くなってきましたねぇ。銀杏の、内側から黄葉こうようして落ちていくのが、まるで大きな鳥が卵でも落としていくようで、僕は好きなんですけれど」

 りくが、茶碗を小和に渡しながら言った。

 夏の終わりに摘んだ三番茶だ。高温で淹れた、すっきりとした香りが、鼻をくすぐる。


 りくが、これ以上はもう何も言うつもりがないのだろうことを悟って、小和も、そうですね、と応じた。


「銀杏の木の根元に、真っ黄色の葉がうずたかく積もっているのは、何だかきらきらして見えます」

「もう少しすれば、尾羽もすっかり紅葉しますね。ここも段々と色づいてきていますが、小和さんはあれから、変わりないですか」

「はい」


 小和は一口、お茶を口に含んだ。キレのある苦みとともに、温かいお茶が、乾いた喉を通って肺を温める。


「前からそう日は経っていませんからね……そうだな、最近、読んでいる本とかは」

「あ、実は、笹岡先生のところのご本を読ませていただけることになって」


 小和が本を読むきっかけは、りくの書斎にあった草紙だった。

 拾われた当初、体力のなかった小和にできるのは読書くらいのものだった。他に娯楽と言えるものが小屋にはなかったのもあって、小和はそれらをひたすら読んだ。それは、小さな農村に生まれた小和が、初めて出会う本だった。


 りくの蔵書は、動物や草木の図鑑、それに薬学書などがほとんどで、読み書きを一から教わっていた小和にとっては、満足に読めない本ばかりだった。それでも、絵や、りくの説明を頼りに、何度も紐解いては眺めて読んだ。


 草臥くたびれた古紙の手触りも、めくる時の微かな乾いた音も、黒くのたうつ墨の形も。

 何より、その真っ黒な文字が、それだけで、これまで知らなかった世界をあざやかに形作る。それが、小和には新鮮な驚きだった。


「読み書きを教えてくれたりくとおかみさんには、本当に、感謝しています」

「小和さんはとても熱心に本を読んでいましたから。僕も、教えるのが楽しかったです。体調の方は、大丈夫ですか?」

「はい。お薬もちゃんと飲んでいます」

「少し予備をお渡ししますね。まだまだ三角の時期ですから、用心に越したことはない」


 りくが立ち上がって、栢の丸まっている箪笥の戸を開けた。粉まみれの床から、りくの所作に合わせて小さく粉塵が舞い上がる。袴の裾が粉まみれなのを見て、小和は懐かしさに笑った。

 薬を受け取って、りくに、町で入り用の物はないかと問う。

 そうですねぇ、とりくは首をひねった。


「そろそろ、冬に備えて綿入れを出そうと思っているんですけれど、そういえば、去年虫食いを見つけたような」

「俺の綿入れも見といてくれよ、去年は布団で間に合わせたんだから」


 不意に、箪笥の上から栢が口を挟んだ。これまでずっと黙っていたから、寝ているのかと思っていたが、どうやらしっかり話は聞いていたらしい。


 街にはストーブってもんがあるのに、ここにはないんだもんなと、栢がぼやく。

「栢君は寒がりだよね」

「ここが寒いんだよ。俺は一年前までは街にいたんだぜ」

「尾羽の町より、ずっと都会にいたんですよね」

 小和が言うと、りくが可笑しそうに口をゆるめる。


「狸たちの縄張りを荒らして、ここに逃げ込むまではね」

 栢は、ふん、と鼻を鳴らして、座布団の上で再びそっぽを向いてしまった。



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