2.寒露

 宵闇の中、宿も兼ねた料亭以外は、すっかり灯りを消してしまう尾羽の大通りで、碧水屋あおみやの二階に煌々と灯がともる。


 碧水屋では、毎年春と秋、店の中庭を使って大きな茶会をする。普段は開放していない中庭に席を設けて、席主となる娘たちが、自分で組み立て考えた趣向で、店のお茶をお客に振る舞う。茶会には町の名士や近隣の有力者も多く集まるので、商談や政談、人脈づくりなどをする場にもなっていて、そういった性質から、この茶会に出られるのは、特に茶をいれるのが上手い娘たちだけで、さらには余興として琴の演奏があるので、従業員の娘たちにとっては、またとない晴れ舞台となっていた。


 ティン、デン、と碧水屋の二階から、弦をはじく音が響きはじめる。この時期、尾羽に響く琴の音は、つたないそれも含めて、尾羽の風物にもなっていた。


「……今年のもう一人は、小和でしょうね」

 碧水屋で一番の年上である奈緒が、琴を教える手を止めて、微笑んだ。向かいに座していた小和こわも手を止める。

 前に屈めていた体を起こして、奈緒は白地に萩と蝶が舞う小紋のえりを、そっと手で押さえて整えた。


 茶会での琴は、元々は名手だったという先々代――おかみさんの祖母にあたる人――が、客に求められて弾いたのが始まりだったそうで、その時に客から譲り受けた数面の琴を、碧水屋では今も大事に使っている。茶会が近くなると、ベテランの姉さんたちに、年若の子が教えを請うのが、常だった。小和も、幼かったためこれまでは茶会に出ることはなかったが、指導だけなら、碧水屋に預けられた五年前から受けていた。


「ちかはもう決まりだけれど、今年は人数的に、あと二人は新しい子が選ばれるからね。年の若い中では小和は一番だし、おかみさんも、そのつもりで今年から参加させてるんだと思うわ」

「……上手くなれたのは、姉さんたちのお陰です」


 ちかは碧水屋に来て三年。小和は、五年も前から碧水屋にいた。年は若くても、働いている年数で言えば、十分古株なのだった。幼いうちからおかみさんや姉さんたちから茶のいれ方も琴の弾き方も教えられていたし、それは特に、小和の面倒を一番見てくれた、奈緒のお陰でもあった。


「小さいうちから頑張ったのは、小和の努力よ。胸張りなさい。でも……そうねぇ」

 大きくなったのねぇ、と、息を吐くように微笑んで、奈緒は言った。


 奈緒は、小さい頃の小和の面倒見係だった。仕事のこと以外でも、手遊びや話の相手になるのはいつも奈緒で、おかみさんがどうしても家を空けなければならないときは、奈緒が泊まりにきて、小和と一緒に寝てくれた。古株と言っても奈緒はまだ三十路手前で、小和にとっては、姉のような人だ。


 奈緒は小和を見て、少し首を傾けた。


「……ここは、おかみさんの厚意で、他で働き口を見つけられなかった子たちの受け入れ場所みたいになっているから、」

 奈緒はそう、前置く。


「その内みんな、お嫁にいったり、新しい就職先を見つけたりして出ていくけれど……私は、どっちもちょっといき遅れたから、おかみさんに心配させてるのよね」


 奈緒は困ったような顔で笑う。牛爪のかんざしで軽く纏めただけの、明るい色の髪が、柔らかく肩に落ちる。


 奈緒は、農家の十人兄弟の真ん中で、早くから女中奉公に出ていた。それが、十四の時、突然奉公先から追い出されたのだ。理由は奉公先の女中減らしだったが、実際のところは、奉公先の息子が奈緒に色目を使い出したからだというのは、奈緒と同時期に碧水屋にやってきた姉さんたちが、話していたことだった。その姉さんたちも、今では結婚して町を出て行ったり、都会で電話交換手などになって働いていたりして、もう店にはいない。


「でも、おかみさん、子供がいないから。その内私がここを継ごうかな、なんて考えていたんだけど……ねえ、聞いてもいい?」

「はい」

 小和は居住まいを正す。


「小和は、ここを継ぐの?」


 言葉に、詰まった。


 膝に置いた手をぎゅ、と丸めて、そしてそれを、意味もなく開く。

 何かを言おうとして、けれど言葉にならず、しばらくして、結局、顔を俯けることしかできなかった。


「……おかみさんからは、そんな話は、されたことなくて」


 ゆっくり、考えながら、小和は言う。

 実際、おかみさんがそんな素振りを見せたことは、一度もなかった。小和は、りくに言われるままにこの碧水屋に来た。りくに拾われてからは、りくの小屋で調薬の手伝いをしたり、字を教えてもらって、本を読んだりして過ごしていた。水を裏手の滝から汲んできたり、摘んできた薬草を乾燥させたり、りくの書斎で本を読んだり、そんな暮らしを続けていたある日、いつものように縁側で薬草を並べて干していたところに、りくがふと、そろそろ、町に下りてみませんかと、言ったのだ。


 りくが言うのであれば、拾ってもらった小和に否やはなかった。


 麓町のことは、りくから教えられていた。山に学校が建つときには、町の長老だという人が何度もりくの小屋に相談に来ていたし、預けられた先のおかみさんはとてもいい人で、姉さんたちはみな、優しかった。


 ――りくはおかみさんに、小和を「預かってほしい」と頼んだ。


 りくにどんなつもりがあるのか、あるいはあったのか、小和は知らなかった。りくは恩人だったが、彼の考えを読むのは、とても難しいことで、けれど、もしかしたらおかみさんは、ずっと、そのつもりなのかも知れなかった。


「……りくが、どういうつもりで私をここに預けたのか、聞いてみないと」


 りくにもおかみさんにも、大恩がある。

 その恩返しもできていない。

 将来のことなど、小和には想像もつかなかった。


「そう……そうね、」

 奈緒は少しだけ、寂しそうな顔をしたあと、言葉を飲み込むようにして、頷いた。そうして、さ、続きをしましょうか、と微笑む。ティン、テン、と、弦を弾く音が、再び小和の鼓膜を震わせた。座敷では四、五人の姉さんたちが懸命に弦を弾いていて、自分たちが思いのほか、長く手を止めていたことに気付いた小和は、慌てて弦に指を添えなおした。


 奈緒にも。

 ちかや、他の姉さんたち、この町の人や、笹岡にも。

 色んな人に助けてもらっていて、その恩返しを、まだ何もできていない。


 その晩、小和は風呂から上がると、おかみさんに今度のお休みにりくのところへ行くことを話した。


「この前行ったばかりだろ。大丈夫かい、今あたりが一番、三角が流行ってるし」

「少し聞きたいことがあって。大丈夫です、お薬はもらってますから」

「それでも、気を付けなよ。お菓子は何があったっけ」

「おかみさん、私、自分で買いに行きますから……」


 寝床から立ち上がって、棚の中を探し出すおかみさんに、小和は慌てて止めに行く。


 碧水屋で働いた分を、小和は給料としてもらっている。衣食住をお世話になっているのだからと小和は断ったのだが、それを差し引いてこれだけ、小和が働いたんだよと、おかみさんは毎月、小袋を渡してくれていた。


「そのお金は、あんたが服を買ったり、本を買うのに使いなさいって言っただろ。お菓子なんてうちじゃ余ってるんだから」

 おかみさんは、これにしようかね、と落雁らくがんを持ってきた。小さな花弁と大きながくが菱形にひらく、秋海棠しゅうかいどうの花をかたどった、薄紅色の砂糖菓子だ。


「……ありがとうございます」

「ついでに今、少し食べちまおうか。これ余ってるし。夜更かしのお供にね」


 おかみさんの悪戯めいた声が、どこか、冷えてきた夜を明るくする。

 そろそろお山の方では、秋海棠の茎にむかごができている頃だろう。


「じゃあ、少しだけ」

 小和が言うと、おかみさんは嬉しそうに笑って、小和と一緒に、お茶の用意を始めた。

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