黒魔女と共に傘をさす

空乃晴

第1話

こじんまりとしたカフェで、知らない人と同時に水をテーブルにこぼした。

マスクを鼻先まであげようとした手が反射的にとまった。

コップは割らずにすんだ。机のふちまで転がって、危なっかしいところでとまった。

ジャージに水がかかった。まだお互い被害は少なかった。

私から見て、親くらいの年齢だろうか。タイミングがぴったりとあった女と、目が合う。

「お互い、災難ですね」

柔らかい物言いの女が言った。黒を貴重とした服を着ているのが、印象的だ。短い髪にパーマをあてている。耳には大きなパールのついたイヤリングをつけていた。

「お客様、大丈夫でしょうか」

店員が数名、あわてて駆けつけた。よかった。平日の昼間なので、あまり人はいない。

「申し訳ありません。私たちの不注意です」

ふたりして頭を下げる。ひとりだったら、心細かっただろう。

身体をフクロウのように細くして、ふたたび席へもどった。

「あなた、失敗は誰にでもあるのよ」

その言葉に、不思議な感覚があった。

「私はさゆり。あなたのお名前をきかせてちょうだいな」

「私は美香です」

「なんだろう。はじめて会ったのに、はじめてじゃない気がするわ」

さゆりの背景に、黒魔女の女の絵が飾られてあった。険しい顔をしているように見える。自然とさゆりから目をそらして、その絵を見た。

「多分、水を一緒にこぼしたからですよ」

「あなた、こんなおしゃれなお店にジャージ姿なんて、変わり者ねえ」

美香は悔しくなってくちびるをとじてうつむいた。

あなたもそうとう、変わり者の格好をしていますよ。なんて逆らえなかった。

さゆりが近くまで寄ってきて、手のひらをあたためるように触れた。

「大丈夫。きっとどうにかなるわ」

身勝手な人だ。美香は心のなかで馬鹿にした。


帰り道に、自動販売機のおつりが出てくるところをあさった。

マスクを鼻の上までつけ、やつれている顔を隠した。

数時間かけて、ようやく十円玉が手に入った。今日は運のある日だ。

同い年くらいの女が何人かいる。背中で白い目を向けられていたことを感じていた。

それにはもう慣れている。どうせ怖くて相手は何も出来やしない。

きっと、相手の目には黒魔女のように見えているに違いない。


今日も自動販売機におつりが残っていないか、見て回った。

ジャージ服だけでは肌寒い季節だ。自動販売機のお金を我慢して貯めればいいのに。

そうすれば、あたたかい服装ができて、ひもじい想いをしなくてすむ。

なのに、また月に一度の楽しみのカフェに行ってしまう。


親はこのおんぼろのアパートに無理やり私を連れてきた。

学生時代に一度失敗しただけなのに。

また水をこぼした。もやしを白米の上にのせて、しょうゆをたらしたときに、ひじがコップにあたった。

テーブルからしたたる水を見て、さゆりを思い出した。さゆりという人物を軽薄な気持ちで見ていても、何か惹かれるものがある。不思議と人のあたたかみは感じられないのに、何故か近くにいたいと願う。その人を見ると、複雑な感情の糸がからまっているみたいだ。


財布の中身を確認した。カフェに行く日だというのに、十円玉が数枚しかはいっていない。

「仕方ない。今日は公園か」

アパートからかなり離れた場所の公園に、キャンピングカーが何台かとまっている。

おしゃれな建物が多くて、おおげさにも自分のような人間が立ち入れる場所ではない。

女はさゆりのように個性的だが、おしゃれな服装をしていて、男は清潔な雰囲気の服装が多かった。

キャンピングカーの人たちは、何故これほど人と対面で話せられるのだろう。

しかも、料理をつくりながら。

私にとったら、ここにいる人たちは皆、遠い人間だ。

平日だというのに、家族連れやカップルの人たちが多い。

ひとりでジャージ姿でベンチに座っていることが、なんという恥さらしなのだろう。

ひざの部分の生地が薄れている。いつ穴があいてもおかしくはない。

今の自分の立場が恥辱的で足元が微かに震えてきた。


キッチンカーで黒いスカートをはいた女がラーメンを購入していた。特徴的な髪型を見て、すぐにさゆりだと理解した。

「どうしてあなたは、事あるごとに現れるの?」

他に空いているベンチはいくらでもある。なのに、隣に座ってさゆりはラーメンをすする。

チャーシューが麺とからまって、スープにひたっている。

そのチャーシューはのんきな人に見えた。

平日の昼間まで、ずっと布団にこもっている人。

麺がチャーシューにからまっている。

この陰湿な生活から抜け出せない、私のようだ。

さゆりが麺をすすっても、立ち向かおうともしないで、ずっとチャーシューはそこにいる。

ついに暗闇にすっぽりつつまれた。

「きっと、水をこぼしたときみたいに、偶然居合わせたのよ。この麺とチャーシューが、偶然一緒にこの器にいることになったかのように」

心うちを読まれた気がして、美香の背筋は凍った。

「ああ、美味しかった」

このラーメンをさゆりが食べていることを見たあとに、もやしご飯を口にすれば、屈辱という味がひろがってしまいそうだ。

さゆりの満足そうな表情に、美香は腹がたって、こきざみに貧乏ゆすりをした。

はじめて、私だって変わりたいという想いが芽生えた。ひざの上にそえた拳を強くにぎった。


キッチンカーのラーメンが忘れられない。

いつもの月に一回の楽しみのカフェにも、メニューにラーメンはあった。

お寿司よりは手が届きやすそうだった。

自動販売機からくすねたお金では足りない。

もどかしい気持ちでラーメンの値段を眺めていると、またさゆりが姿を現した。

「どうしてあなたは、事あるごとに現れるの?」

この前と同じことを質問してやった。

黒魔女の絵を背景に、さゆりはほほ笑んだ。

「麺とチャーシューの関係よ」

少し喜々とした感情が声にこもっている。

「違います」

美香は頭から否定した。魅力的な女には変わりはない。でも、そのことを肯定するつもりはなかった。

ラーメンを涼しい顔ですするさゆりが忘れられない。

「また会えたら嬉しいわ」

微塵たりとも会いたくない。美香はそれでも頭を下げた。

 

キッチンカーのある公園から別れたあと、カフェで数か月後にまたさゆりに出会った。

今回は視線を合わせず、一言も話さなかった。

キッチンカーのラーメンが忘れられない。

水たまりがある。カフェにいたころに、雨が降ったのだろう。

雨の香りがする。このカフェにもう通いたくはない。さゆりなんて名前も、忘れたい。

美香はカフェの入り口においてあったビニール傘を手にもって歩いた。

誰のものかは知らない。雨がまた降るかもしれないなら、濡れたくない。

ビニール傘がなければ、惨めな私はさらにみじめになる。

良心がとがめることも、もうなくなった。親も別に期待していないみたいだ。

親はこのおんぼろのアパートに無理やり私を連れてきたのだから。

学生時代に一度失敗しただけなのに。

また水をこぼした。もやしを白米の上にのせて、しょうゆをたらしたときに、ひじがコップにあたった。


土砂降りの雨だ。この前盗んだビニール傘をさした。ビニールの素材に穴があいている。

それでも自動販売機へと歩いた。寒くても、少量しか手に入らなくても、生き延びなければいけない。

それも、楽して。人と対面して働くくらいなら、まだこうしている方がマシだ。

雨だというのに、駄菓子屋でバイトが終わった女子高生の四人組が騒いでいる。

若い子はいつまでも元気だ。遠目に観察していると、無理をしている子がひとりいた。

一番背の低い少女は、騒がしいあいだにどこかに隠れてしまった。

今も昔も変わらない。こういう人は、一定数いる。無理にオオカミみたいに群れなくてもいいのに。

背伸びをしようとして、こける。まるで私みたいに。

あの子は傘もないのに、風邪を引いてしまう。

心に引っかかった光景だったが、美香は無視をして自動販売機を探した。

帰り道に、まだ少女がすすり泣いているのを耳にした。

美香は足を動かすか迷って、しかめっ面をした。

一歩前へ出た。マスクにジャージ姿の不審な女に驚いたのか、少女が短い悲鳴をあげた。

「これ、よかったら使って」

「でも、あなたの傘がなくなります……」

恐怖で怯えていて、おどおどしているのか、少女の肩が震えている。

「いいの。私は他をあたるから」

「結構です」

少女はまだ土砂降りの雨のなか駆け出した。

怖い思いをして、雨で顔が塗れていても、泣いているのがわかった。

過去の自分が未来の自分を否定しているかのようだった。もう居場所はない。

チャーシューが私なら、麺は布団だ。黒いマスクに、ジャージ姿で、ビニール傘をもった不審な女。

あの少女は悪くない。わかっているのに、また悔しさと憎しみが募った。


この前の少女だ。美香に気がつくなり、怖がって友達の後ろに隠れていた。

小さな背の少女の友達が、怪訝そうにこちらを見てくる。

怖かった。その鋭い目つきは、過去の傷跡を深く傷つけるかのように、鋭い。

まだマスクをしていてよかった。

はじめて、誰のものかもわからないビニール傘を手にしていることに、恥をかいた。


カフェに通うことは、一か月に一回の楽しみだった。今日もためらったが、欲に負けた。

人影が見える。あのさゆりが、今日もいる。少し猫背だ。黒い杖をついて、左手を背中の腰あたりにまわしている。

ドアが重くて開けられないみたいだ。

「大丈夫ですか?」

理由はわからない。何故助けたいと思ったのだろう。嫌いなはずなのに。

よく見ると、黒い魔法の杖は宝石で埋め込まれていた。

黒い魔法の杖を見て、つばを飲み込んだ。

「また会えて嬉しいわ。ねえ、私たち、会うべくして会ったかのように思いません?」


「そうですね」

別にそんなことは思っていない。麺とチャーシューみたいだと言われたとき、否定したのだから。

さゆりに近づいて、この黒い枝を盗らないと。

美香は息を短く吸ったあと、黒い魔法の杖を盗んだ。

姿勢をかたむけるように走ろうとかまえた。

黒い魔法の杖は、いつの間にかビニール傘に変わった。

「まさか」

先ほどまでドアにいたさゆりが、私の目の前に立っている。

「あなた。一度や二度の失敗はあって当たり前よ。そんなにくよくよしないで、正当な人生を歩んでくださいな」

「あなたは……魔女ですか……?」

「まあ、鋭い目の持ち主だこと。どうしてわかったのかしら」

「このカフェの魔女の絵とあなたを見比べて、少し胸騒ぎがしました」

「あなたは、そういう能力なのね」

「え?」

「本当にこの黒い杖をさしあげます。だから、なんとしてでももう一度努力することを覚えてほしいの。そうやって身体と心がなまってはいけない」

「どうして急に……」

「麺とチャーシューって、言ったでしょう?」

さゆりは柔らかい日の光のようにほほえみながら、黒い杖を手渡した。

「あなた、失敗は誰にでもあるの。大丈夫。きっとどうにかなるわ」


騙された気分だった。黒い魔法の杖に埋め込まれていた宝石は、値打ちのあるものだ。

さゆりは、この杖でしばらく生活の足しにしたらいいと思って、わたしてくれたのだと思った。

売却しようと考えたとき、黒い魔法の杖はビニール傘に変わった。

醜い感情とともに、わなないた。ビニール傘を持つ手がこきざみに震える。

本棚に、『黒魔女には騙されない』と背表紙に書かれた本が目にとまった。

「馬鹿みたい、私。親切な魔女がいるなんて。今から考えたら、変な話だわ」

この黒い魔法の杖で、キッチンカーのラーメンを食べて、寿司屋さんにいけたら。

どれだけ満たされるだろう。今ごろさゆりは、細く笑っているはずだ。

魔女の手のひらでもてあそばされている状況に、腹が立った。

今日の晩御飯は、焼き肉のたれを数滴、白米の上にたらしただけだった。

もし黒い魔法の杖を売却できていたなら、とろサーモンとか、鯛を味わっていたはずだ。

懐かしい。最後にそれを食べたのがいつだったか思い出せない。


あの魔女に何か痛い目に合わせなければいけない。

行く当てもない。こじんまりとしたカフェで働かせてもらえるか、訪ねてみようか。

それも勇気が出ない。きっと三日坊主になる。

「魔女みたいに魔法が使えたらな」

ないものねだりになっているのはわかっていた。言葉足らずな人種にとって、カフェの職業は荷が重い。

美香は玄関の入り口に立てかけられていたビニール傘を横目で見た。

魔女が意地悪く目を細めてせせら笑う顔がよく思い浮かぶ。腹が立った。見返してやりたい。

あの魔女を、後悔させてやりたい。

鈍い炎が心のなかで湧きあがり、美香は決意の証に拳をにぎった。


足がくすんだ。店長にアポをとれるかわからない。コップをこぼした私に、接客業はできないのかもしれない。

「どうしたのかしら。カフェに入りませんこと?」

聞きなれた声に、美香は険しい顔になった。勢いよくドアを開けようとかまえた。

肩にふわりとさゆりの手のひらが触れた。

「私のした行いを許して。あなたにその意欲を発揮させるために仕向けたの」

美羽は戸惑い、ドアノブをつかんだ手をゆるめたが、また強くにぎった。

「私は黒魔女なんかに騙されない」

日々はどうせ何をしても過ぎていくだけだ。何もしなくても、魔女のように老いていくというのに。

立ち止まっても、明日はやってくるというのに。

ビニール傘を見たら、そんな単調な日々を放っておけなかった。

悔しいという感情のバネが手の芯にあるかのように、ドアを勢いよくあけた。

一歩がなかなか踏み出せない。なのに、自分は一歩踏み出せた。

その一歩は、百歩の力を秘めている気がする。

カフェに飾ってある魔女の絵が、この前よりも笑っている気がした。


日に日に接客をするごとに、声の震えがおさまっていくのがわかった。

コップの水をこぼすことは日常茶飯事だったが、店主は快く許してくれた。

「あいかわらずね」

コップの水をこぼすと、さゆりと初めて出会ったころに、こぼした水を対応してくれた先輩が苦笑した。

このカフェに来ると、いつもさゆりと魔女の絵に胸騒ぎをしていた。

最近は心になじんで、日の光が頬にあたっているみたいに、魔女の絵の視線を感じる。

「よかったわね。ジャージ姿から卒業できて」

先輩は少し嫌味ったらしく言うくせがある。それでも根は優しいことを知っていた。


「お姉ちゃん。来たよ」

今日の外は土砂降りの雨だった。気重な天気とはよそに、女子高校生の元気な子がカフェに入ってきた。

「いらっしゃいませ」

少し緊張で声がうわずった。さゆりの他にこのカフェに人がはいるのは珍しい。

何も気に留めない様子で、先輩の妹である女子高生の接客をした。

「あれ……?」

美香は眉間にしわを寄せ、考え込んだ。

「この子、知っているわ」

「えっ。そうなんですか? 私は知りませんけど……」

「人違いですか。すいません」

美香は先輩に注意され、少し恥をかいた気分になった。

美香は考え込むことをとめて、先輩の妹のために冷えたコップに水をそそいだ。

「注文決まりました」

先輩の妹の声に、美香は頭が真っ白になりかけた。

「すいません。すぐ行きます!」

慌てて厨房付近から顔をのぞかせた。

水をおぼんの上にこぼしてしまった。先輩のため息をつく様子に、美香は青ざめた。

「もうここで働いてから数か月も経つのに。やめさせようかしら」

心に重たい石がたまったみたいに気持ちが落ちた。

「気をつけます」

「お水もタダじゃないんだから。これからはもっと注意してくれないと困るわ」


不注意な出来事が起こるばかりで、先輩は呆れかえっていた。

いつまで経ってもコップの水をこぼしてしまう自分に嫌気もさした。

もうやめてしまいたいとまで思った。貧乏な生活のままでいい。

また自動販売機のおつりの中をあさる方が、自分に向いている気がする。


カフェで働くようになってから、はじめてキッチンカーのある公園に足を運ばせた。

さゆりが食べたラーメンをようやく味わえると期待した。

ラーメンのキッチンカーは、あいにく今日は来ていなかった。

代わりに、海鮮類をあぶったものが売ってあった。

まだそこまで買えるほどの余裕はない。

諦めがついて帰ろうとしたとき、

先輩の妹とその友達が別のキッチンカーで注文しているところが目にとまった。

やはり、先輩の妹は少し居心地が悪いのか、そわそわしている。はやく帰りたそうな表情だ。

カフェで働いているときの私みたいだった。

公園の出口へ向かうとき、先輩の妹の愚痴が聞こえた。

「どうしよう。受験に失敗したら、大学にいけなくなって、働けなくなるかも……」

知らなかった。昔学生だったときの私のような悩みを彼女は抱えていた。

先々のことを深く考える癖は、私にはなかったが、彼女の悩みには共感できた。

声をかけてみようか。今はジャージ姿ではないし、

彼女の姉がいるカフェで働いていることを、知っているはずだ。

彼女はビニール傘を貸したあのときの私だとは認識していない。

しかし、一度顔合わせをしているのだから。

カフェで先輩に注意されたことを思い出し、肩を落とした。彼女には手が出せない。

先輩である姉の視線もある。勝手なことをしたら、きっと先輩に叱られるはずだ。

先輩の妹に情が移った。あの子を助けたい。

あの子に相談出来るようになるためには、コップの水を不注意でこぼすことを減らすことだ。

美香は俄然力がわいてきた。


先輩の妹の悩みを解決できるように、美香はいつもより真剣に水のはいったコップを運んだ。

店主も先輩も、その姿を見て満足していることが伝わってきた。

先輩の妹が、大学受験に敗れて、私みたいにビニール傘を盗むような真似だけはしないでほしかった。

ビニール傘の持ち主にちゃんと返したかった。でも、一歩が踏み出せない……。それでも、いくしかない。

「先輩、実はお話があって。盗んでしまったビニール傘を、どうしたらいいか……」

「さゆりさんから噂には聞いていたのだけれど、本当だったのね。でも、あのビニール傘はうちの店のものなの。誰か雨に濡れちゃうと困るからって、店主がサービスをはじめたのよ」

店主に相談をすると、こっぴどく怒られた。

「これからはもっと、このカフェに相応しい人材になってみせます。お願いします」

「……わかっているよ」

不思議だ。店主はすんなりと受け入れてくれた。さっきまであれほど怒っていたのに。

美香は店主が優しすぎる事実に、疑問をもった。


休日のおかげで公園が賑わっている。ここへ来たのは久しぶりだった。

今日も当たり前かのように、さゆりがいる。また同じベンチに座った。

「麺とチャーシューの組み合わせ、最高じゃないかしら」

また同じことを言っている。この光景にもそろそろ見飽きたころだった。

「何を今更当たり前のことを……」

冷たい態度をとると、さゆりが困ったように笑った。

「今日は雨の予報よ。傘はもっているの?」

「折り畳み傘をもっています」

カフェに置いてある新聞で見た。日曜日の天気予報は頭にはいっている。

話題を急に変えて、何かと思えば天気予報のことだ。思った通り、だいぶお節介な人だ。

さゆりは上品に最後のラーメンのひとすすりをし終えた。

「あなたとまたご一緒できて、嬉しいわ」

さゆりはベンチにかけておいた黒い魔法の杖を手にした。

一言も発さずに会釈をしようとした。雨が手の甲にぽつんとあたった。

「天気予報。あたり」

美香はラーメンがのったおぼんを持ちながら、器用に折りたたみ傘を広げてキッチンカーまで戻った。

まだ背中にさゆりの視線を感じる。魔女の絵と同じ、あたたかい日差しのような。

美香はキッチンカーにおぼんを返した。折り畳み傘の持ち手を変えた。

傘からさゆりの黒い魔法の枝が自然と目に映った。

「そういえば」

雨音がするせいで、さゆりは何かつぶやいたみたいだが、聞きとれななかった。

麺とチャーシューと言ったのは、口の形でわかった。

「働けるようになったのって、そのきっかけって、さゆりさんのおかげな気がする」

傘をにぎった手を見て、ビニール傘を思い出した。それと一緒に、女子高生にジャージ姿で声をかけたあとに、盗んだビニール傘を手に持っていることに恥をかいていたことも。

「ありがとう。さゆりさん。私たち、麺とチャーシューだ」

美香とさゆりは自然と足を動かして、距離を縮めた。

「さゆりさん!」

美香は事実に気がついた。感極まって、目頭が熱くなった。

「ようやく気がついてくれたわ。こちらこそ、ありがとう」

さゆりは美香の傘でふさがっていない方の手に触れた。

「魔女はね、少し意地悪で皮肉なやり方でしか、応援できないのよ。本当は素直に応援したいけれど」

「カフェにある魔女の絵のほほ笑み方が綺麗だから、出来るようになる。絶対に」

「あなたにそう言われると、自信になるわ」

さゆりは今まで自分と話してきたなかで、一番嬉しそうだ。

「そのカフェの魔女の絵のことで、少しお話があるの。もしよかったら、カフェに来てほしいわ」

「さっきラーメンを食べたばかりなのに?」

通り雨もいつの間にか過ぎ去って、美香とさゆりの近くに陽だまりができていた。


こじんまりとしたカフェで、さゆりと同時に水をこぼした。

ふたりは緊張がとけて、笑いあった。

「笑っている場合ではないと思うんだけど」

先輩は少し不快そうにしている。

「魔法でなんとかしてくださいよ。水をこぼさせないように」

「まあ。私にそんな口のききかたをしていいのかしら?」

美香は先輩の言葉に違和感があり、顔をごわごわとあげた。

「さゆりさんが魔法を使えること、ご存じなのですか?」

「この魔女の絵はさゆりさんの所有物なの。ここにあずかってもらったときに、噂は聞いたわ。

でも、知っているのは店主と私だけなの。だから声を落として!」

先輩の語尾が必至な口調だったが、だんだん小さな声になっていた。

魔女の秘密に関わっていることに対して、少し得意げな顔をしている。

それに一瞬腹が立ったが、気にしないように努めた。

「そもそも魔女は人間界に紛れて暮らしているわ。

私もその一人だけれど、魔女になりたい人が少なくなってね。

だから、私と同じ共通点のある子を探していたのよ」

美香は今ではさゆりのことに共感がもてたが、共通点は全くないように思えて険しく眉をひそめた。

「魔女は、人間の問題を解決するのがお仕事なの。それも、同じ過去。人間だと、今の悩みに共通のあるものを。その方が、解決する確率もぐんとあがるのよ」

さゆりは美香の手をゆっくりとった。

「お願い。困難をのりこえたあなたなら、魔女になれるわ」

「黒魔女に?」

「あなたのその性格なら、黒魔女も似合うわよ」

さゆりの必死さが仇となった。それでも、さゆりのこれまでの言動に好意をもてるようになった。

「黒魔女っぽい性格っていうのがよくわからないけど。いいわ。魔女になってやる」

「ありがとう。あなたならそうしてくれるって、信じていたわ」


帰り道に、自動販売機に寄った。人間とは思えないような悪さを次々起こしてしまった。カフェから帰る途中、くすねた金額をきちんと交番に届けた。罪を重ねた烙印は重いことはわかっている。これからどれだけ改心しても、その人たちには届かないことも。

「黒魔女だから、そのくらいいいじゃないの」

さゆりに少しからかわれて、複雑な心境になった。


日も暮れようとしていた。いつの間にか冬の時期にはいって、少し肌寒い。

風にまぎれて、すすり泣いている声が聞こえ、耳をそばたてた。

自動販売機の近くに施設があり、その入り口付近に先輩の妹がしゃがんでいる。


「こんばんは。どうしたの?」

黒い服装を着ていない。短い髪の毛にパーマもあてていない。けれど、黒い魔法の杖だけは、左手にもっている。

「受験に合格できなかったらどうしよう。先のことがとても不安だわ」

「あのころの私みたい。昔の私は、先のことに不安になってなかったけれど。もしも結果が同じなら、今を楽しんだほうがいいんじゃない?」

「えっ。やっぱり私は受験に合格できないの?」

美香の少し意地悪な言い回しに、先輩の妹が本格的に泣き出しそうになった。

「そうならないように、最後の最後まで、努力してみなさいよ」

先輩の妹は気持ちがすっきりしたのか、いつの間にか泣き止んだ。

ゆっくりと立ち上がると、目を丸くした。

「カフェで働いているお姉さん?」

「あたり。覚えてない? もっと前のことを話すと、土砂降りの雨のときに、ボロボロのビニール傘を貸したジャージ姿のお姉さん」

じっくりと思い悩んだあと、先輩の妹の表情が明るくなった。

「同じ人だっただなんて、わからなかったわ。あのときは、親切にありがとうございました」

美香が口を開きかけたとき、カフェの先輩とさゆりが近くまでやってきた。

「あなた、涙でお顔が汚れているわ。このハンカチを貸してあげるから、ふいてちょうだいな」

さゆりが慌ててこちらまで駆けだして、先輩の妹にハンカチを貸した。

「雨が降ってきた」

涙をぬぐった先輩の妹が、空を見上げた。

「誰も傘を持っていないじゃん。私が貸してあげる」

美香は喜んで新しく買ったおしゃれな傘をさして、先輩の妹の頭上まで持ってこさせた。

「さゆりさん、黒い魔法の杖もって」

「わかったわ」

先輩の妹からさゆりがハンカチを返してもらっているところが目にうつった。

「さゆりさんも、黒魔女らしくない助け方ができてよかった。」

誰にも聞こえない声で、美香はつぶやいた。今のさゆりは、普通の優しい人間に見えた。

美香も先輩の妹のおかげで、少し黒魔女に近づけた気がした。

(終)








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