サイコバニーは眠らない

サイコバニーは眠らない

 マヤだかアステカだかの暦で記録された世界滅亡の日時はとうに過ぎ、僕たちは大きな溜め息と共に一喜一憂した自らの感情を忘れていく。僕たちが生まれてすぐに預言を否定されたノストラダムスに踊らされた大人たちも同じ気持ちだったのだろうか?

 UFOや異星人は映画の中から出てこない。怪しげな画像は手元のスマートフォンで簡単に作られて電子の海に放流される時代に、真偽のわからない与太話がフェイクニュースとして晒し上げられる世界に、神秘は呆気なく刈り取られた。

 17歳までは、そう思っていた。


「ウサギは生と死の象徴なんだよ。繁殖能力が高く、多産だ。一年を通して発情期があると言われていて、バニーガールなんかはそういうパブリック・イメージの象徴だって話らしい。この国だったら、月のイメージと結びつくね」


 六月の午後八時、珍しく雨が降らない校舎屋上。月のない夜空をバックに、その“存在”はフェンスに腰掛けてハンバーガーを貪っている。


 クラスメイトの“ヒメジ”という男によく似ていた。それが苗字だったか名前だったか咄嗟に思い出せないほどには関係性が遠いやつだ。そいつはクラスの中で群れるでもなく、孤立するでもなく、クラス全員との関係値を等間隔にしようとしているかのような動きをする。どこか計算じみた会話の雰囲気に違和感を覚え、避けていたのはクラスで僕だけだった。

 でも、その存在は見るからに女だ。小柄な身体をピンクのオーバーサイズパーカーで覆い、ショートボブに紛れる触角めいた赤いメッシュ。頬のハートマークが妙に目を引く、ウサ耳のカチューシャを付けた少女が居る。顔の雰囲気だけは儚げで、そこはあいつによく似ていた。


「ただ、今日は新月だ。ルナティック……。矛盾だらけの〈狂いウサギ〉サイコバニーは、月のない夜に存在証明ができるのさ」


 サイコバニーと名乗る存在は紙パックのレモンティーを飲み干すと、レジ袋に入ったおしぼりを摘み上げる。濡れた布で出来たそれを満足げに撫でると、サイコバニーは一口でそれを咀嚼した!


「……なるほど、やっぱり六月が旬か!」


 意味がわからない。部活終わり、何かに誘われるように屋上に辿り着いた僕が目撃したのは、奇妙な概念存在だ。

 そいつが何者なのか、何の目的でそこに居るのか。僕には分からないが、そこにあるのが刈り取られたはずの“神秘”だということは分かった。


「何やってんだよ、ヒメジ」

「あぁ、クラスメイトの野木……野木蘭衣らんいくんか! 残念だけど、ぼくはヒメジであってヒメジじゃない。きみの知ってるヒメジなら、こんな無軌道な会話はしないだろ?」


 僕の名前を知っている理由も謎だが、そんなことは今どうでもいい。彼女(?)は屋上のフェンスに足を掛け、逆さ吊りになる。そのまま少し舌を出すと、静かに呟いた。


「0333679393」

「は?」

「0333679393……。ぼくの目的だ。詳しく知りたきゃ、図書室にでも行けばわかるんじゃない?」


 10分後、図書室。

 奇妙な数字の羅列の意味を図りかね、僕はあてもなく本棚を探る。何かの暗号か、モールス信号のようなメッセージか? 何度考えても、その正体を掴めない。数度考え、僕はギブアップをする。買ったばかりのスマホを羅針盤代わりに、教わった数字列を入力する。

 数字の正体はISBNコードだ。本を識別するための数字列で、僕はそれを頼りに本棚を探る。洋書欄にあるその本の邦題は『鏡の国のアリス』。手に取ればずっしりと重いハードカバーを片手に、僕は再び屋上へ向かう。


「不思議の国のアリスの続編だ。ウサギだからってこと……?」

「それもそうかもね。もしくは卓上遊戯か、夢幻の世界か……」


 サイコバニーは書籍をパラパラと捲ると、薄く笑う。読むというよりは“摂取している”が近いのだろうか。楽しそうに何度か頷くと、本を閉じてコンクリートの地面に置く。


「ぼくは与太話だ。存在しているし、していない。ヒメジという生き物の影法師で、理性に押し込まれた欲求だ」

「ヒメジが作り出した存在……?」

「自動的に湧き出すんだよ。知識のように知って識り、体験を餌に生きる。おしぼりを食べるのも、カジノに行くのも、偽物のブランド品を買うのも。新しい恋をして、飽きたら捨てて。そういう刹那を喰らってぼくは生きてる」


 彼女は微笑む。その表情に惹かれる自分がいた。


「だから、ぼくは未知を狩るんだ」


 閉じた本が自ら開き、特定のページを開いたまま風に舞う。その瞬間、空気が痺れるように鳴動した。


履修ユリイカ。ジャバウォックのうただ」


 居ないのに居る。居るのに居ない。眼前に現れた“神秘”は僕の眼では捉えられない。空気の層が作り出したヴェールが巨体を覆うかのように、それは立っている、らしい。

 校舎の一部が損壊した。教室棟から体育館へ続く渡り廊下が折れ、グラウンドには砂塵とともに巨影が痕を作る。地の底に響くような鳴き声は2階教室の窓ガラスをすべて破り、僕は唖然としたままサイコバニーを見遣る。彼女の瞳がギラギラと輝いていた。


物語ものがたりかたり。生み出した神秘を喰え」


 ジャバウォックを倒す聖剣の名は、ヴォーパル。容易に首を狩る一撃に、後世の創作者は自らの作品で殺人ウサギの名を〈ヴォーパル・バニー〉と名付ける。


「最初に言った死のモチーフがこれだよ。ヴォーパル・バニー。人殺しウサギだ。取り出すは、ヴォーパルソード!」


 まるで因果の逆転だ。彼女は虚空から聖剣を取り出し、透明な怪獣に刃を叩き落とす。それは容易に首を刎ねる、致命の一撃だった。


「……いい体験だったよ」


 彼女が笑っている。

 そこから先の記憶は、残されていない。


    *    *    *


 次の日も、また次の日も、破壊されたはずの校舎は何事もなくその姿を風に晒している。あの日から僕はサイコバニーに会うことはなく、例の神秘なんて物も僕の視界から消えた。何事もない日常は変わらず、その裏に何かがあるなんて僕には想像できない。


「それ、何描いてんの?」

「教えないよ!」


 ヒメジは変わらず色々な人に積極的に声をかけ、それでいて誰とも親密になっていないように見えた。彼が時折ノートに描く落書きに映るウサ耳パーカーの美少女の正体を知っているのは、きっと僕だけだ。

 同じ根から分かたれたなら、もしかしたら仲良くできるかもしれない。僕は軽く会釈をすると、他に聞こえるか分からないほど小さな声で呟く。


「また会おうぜ、サイコバニー」


 ノストラダムスも、マヤ文明も、結局は嘘っぱちだった。それでも、誰も知らない神秘は意外とすぐ近くに転がっているのかもしれない。

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