【25話】‐29/99‐

「加納いないの?」

 探し人が見つからず、雉尾大介は事情を知っていそうな知人へと声をかけた。

「……うん。帰ったみたいだよ」

 振り返った美桜は、空いている席を眺めて頷く。

 1年2組。4限目の授業を前にした休憩時間。

 話題に挙げられた人物は、登校はしていたようだが気づけば姿を消していた。その生徒が無断で早退する事は少なくなく、美桜含むクラスメイト達が気にかけた様子はない。

 けれども外からやって来たその男子だけは、彼がいない事を残念がっている。

「雉尾くん、雅文のこと心配してるの?」

「心配つーかなんつーか……。やっぱあいつ、無理してる気がしてさ」

 雉尾は感情を誤魔化すように後ろ髪を掻きながら、昨日の出来事を思い返していた。

 海で溺れていた彼を助け出した時の事。一時は意識を失ったもののどうにか目を覚ました彼は、なんだか妙だった。

 命の恩人を見た表情が、やけに怯えたようでそれでいて怒りや苦しみも抱えていて。とにかく、海に飛び込んだ馬鹿とはどうしても重ならなかった。

 悪い噂を聞くようになってから距離を置いていた雉尾だったが、あの顔を見て、人づての話を信じていいのか分からなくなっていた。

 そんな雉尾に、美桜は釘を刺すように言う。

「わたしはもう、味方出来ないかな」

 その視線は、一人の友人へと向いていた。

 顔に刻まれた痕は目立たなくなっている。それでも彼が彼女に手を上げた事実は変えられないし、彼自身も未だにやめようとしていない。

 その理由は知れないが、実害があるのなら対抗せざるを得ない。

 これまで散々苦しめられた美桜の言葉に、雉尾は否定する事なく苦笑した。

「オレも味方する気はねぇよ。でも、間違ったことしてるなら正してやらねぇとな」

「……」

 言い分を聞いて、やはりまだその男子は、加納雅文と言う男をちゃんと目にしていないのだと理解する。

 ただ、まっすぐに言って見せるその様は眩しく思えた。

 自分が捨ててしまった意思。それを未だに握りしめていて。出来るならそれを貫いて欲しいとすら願う。

「ま、なんかあったら教えてくれ」

 会話は途切れ、用のない雉尾は教室を去っていく。

 美桜は、再び空いている席を眺め、授業が始まるのを待った。


◆◇◆◇◆


 雅文は顔をしかめながら靴を履き、玄関扉を開ける。

「あ」

 すると玄関先に希李が立っていた。雅文が出て来るとは予想していなかったようで、口を開けて驚いている。

 タイミングの悪さに雅文も一瞬固まり、すぐにその感情も隠すよう顔を俯けた。

「今からバイト?」

「……うん」

 目も合わせず頷く。じっと向けられる視線に、今は応えられる余裕もない。

 ただそれは、余計彼女を心配させたのだろう。

「休んでも、良いんじゃない?」

 気遣ってくれる言葉。きっと、全てを分かっているのだ。

 だからこそ雅文は、目を合わせたくなかった。

「バイトが終わったら休むよ」

 論点をズラして受け流す。あからさまな強がりに、けれど希李は言及しなかった。

 昨日、砂浜で死に損ねた。今日、学校でも空回りをした。

 失敗が続いている上に、今まで成し遂げてきた感覚を見失い始めている。どうやっていたのか、再現しようとするほどボロが出て、今日は早々に逃げ出した。

 このままでは、運命の日に間に合わないかもしれない。

 それだけは許されない。自分は、美桜を救うと決めたのだ。

 使命を忘れないよう、胸に刻み付ける。明日こそは上手くやると何度も自分に言い聞かせる。

 その様子を、希李はやっぱり見つめている。チラリと顔を上げただけで彼女の方に逃げ道が見えてしまって、雅文はその可能性を振り払った。

「今日は、大宮さんも帰っていいよ」

 そうして、玄関の鍵を閉める。来訪した少女を入れないまま。

 相変わらず視線は逃がして背中を向けた。自分だけで強くならないといけないと、雅文は歩き出す。

「……」

 希李はその場から動かず、変わらない足取りを眺めていた。


◆◇◆◇◆


「昨日は、急に休んですみませんでした」

 バイト先に着いた雅文は、店主を見つけるとまず頭を下げた。

 カウンターでメニューを見直していた40代男性。彼は謝罪に対しても柔和な笑みを返す。

「ああ、大丈夫だよ。それより今日は平気?」

「はい。昨日は……用事が出来ただけなので」

「そっか。じゃあ着替えてきて」

 店主からは一切のお咎めもなく、いつものように送り出された。その気遣いに感謝しながら、雅文は店の奥へと入っていく。

 喫茶こもれび。

 個人経営の店で、2階部分は店主の家族が住む住居になっている。商売よりも趣味を優先した営業らしく、来客のほとんどは常連で売り上げも赤字に近い。

 アルバイトも必要ない落ち着いた店内だが、店主が雅文の父と古い付き合いで事情を知っている事もあり、無理に働かせてもらっていた。

 暇な時間は休憩室で勉強をしていても良いとまで言われており、雅文にとってはこれ以上にない仕事場だった。

 一度目の時はそれで給料が貰える事に気が引けて、別の仕事を見繕ってもらったものだが、今回はそんな余裕もなく甘えている。

「………」

 息を整えた雅文は、エプロンを身に着け自分のためだけに用意されたタイムカードを切る。それから店内へと戻ると、丁度カランカランと来店を知らせる鐘が鳴った。

 早速仕事かと身構えた雅文だったが、聞こえた声に背中を壁に預ける。

「ただいまー」

 入店したのは、セーラー服を着た二つ括りの少女だった。背丈はその歳の平均ぐらいで、朗らかな表情もまだ幼さを残している。

「おかえり、花香」

 その少女の父である店主は、穏やかに帰りを迎えた。

 東寺花香とうじはなか。中学3年生の彼女は、この喫茶店の看板娘だ。

 花香の帰宅に常連の客も嬉しそうに手を振り、対する彼女は人好きのする笑顔を振りまいている。

 そのまま、住居である2階へと向かう間際、雅文の姿を見つけるといつもの挨拶を寄越してきた。

「あ。お疲れ様でーす」

「おかえりなさい」

 雅文も平時通り会釈する。それ以上の会話はなく、花香は2階へと上がっていった。

 そうしてまた、店内は静寂を取り戻す。

 今いる客は老夫婦一組と、スーツ姿の長身の女性が一人。どちらともに注文を終えていて、店員としての仕事はない。店主すら暇そうにしている。

 さすがに客がいる間は店内を離れる気にもなれず、雅文は接客として待機し続けた。

 それからしばらくして、花香が2階から降りてくる。

「お父さーん。なんかやることあるー?」

「ないよ。練習でもしたらどうだい?」

「そうしよっかな」

 父に言われると花香は、注文も来ていないのにカップを取り出した。

 度々店の手伝いをしている看板娘は、将来継ぐ予定でもあるのか、日々ラテアートの練習に励んでいる。それは父の腕前も超えて、裏メニューとして常連からはよく頼まれていた。

 一つのカップを覗き込みながら、あれやこれやと模索する父娘の声。店内BGMと化しているそのやり取りは、店の雰囲気を締りないものしていたが、それを気に入っている客も多いのだろう。

「マスター、ごちそうさまでした」

 不意に席を立った老夫婦が店主に片手を上げる。するとアルバイトが入る間もなく、世間話とレジ打ちが並行して始められた。

 再び待ちの体勢に戻ろうとした雅文だったが、そこへ声をかけられる。

「雅文さん、バイトのお金、何に使うんですか?」

「えっ?」

 視線を向ければ、花香が横歩きで距離を詰めてきていた。店主が離れて手が空いたのか、軽い暇潰しに問いを投げてきたようだ。

 予想外だと面食らう雅文に、花香は心外だと笑う。

「そんなに驚くことですか? 別に普通の質問じゃないですか」

「いや……」

 確かにおかしな事はない。話題もありきたりだ。それでも雅文は驚いていた。なにせ、彼女からこうして踏み込まれるのは、今までになかったのだ。

 それは、一度目でも。

 朗らかに笑って誰とでも分け隔てなく接し、言動に嫌味はなくて年頃の振る舞い。

 ただ、雅文が彼女に抱いている印象は、人との距離感を不気味なまでに理解している女の子、だった。

 相手との間に線を引くとそれを決して踏み越えない。嫌われないよう好かれ過ぎないよう、常に同じ立ち位置を保ち続け、たまにまるで心を読んだかのような行動までとる。

 普通に接するだけなら違和感もないのに、振り返ってみれば会話を誘導されていて。

 歳不相応な成熟した内面。人間関係の天才と言ってもいい。

 しかし目の前の花香は、いつか引いていた線を越えていた。その歴史の食い違いに、雅文は妙な不安を覚える。

「それで、お金、何に使ってるんです?」

 雅文が戸惑い口を閉ざすものだから、花香が返答の催促をしてきた。とりあえずやり過ごそうと当たり障りのない答えを用意する。

「……貯金、だよ」

「えー、遊んだりしないんですか?」

「……まあ」

 顔を覗き込まれ、雅文はとっさに顔を逸らした。でも急に体は動かなくて、壁に預けていた体重が変に移動してしまう。

 一瞬歪んだ顔を取り繕いながら、再び視線を戻す。

「……」

 するとなぜか、無言のまま見つめられていた。

 丸い瞳。邪気なんて一切感じられず、相も変わらずにこやかで。中学生らしい顔立ち。

 見つめ返していれば年下だという事を思い出し、抱いていた疑問は不思議と撤回させられる。

 ……考え過ぎだったかな。言動の全てに意味があるという訳もない。

 頭が疲れを訴え、思考を放棄する。そこで忘れていた仕事に気づき、雅文は布巾を取りに行こうと足を踏み出した。

 とその時、歩みを止めるよう、右腕を抱き寄せられた。

「っ?」

 花香が、腕を絡めてきている。

 若い女の子の少し過ぎたスキンシップ。そんな風を装って、雅文の体重を支えようとしていた彼女はそのまま父へと確認を投げる。

「お父さーん、雅文さんちょっと借りていい?」

 会計を終え、老夫婦を見送っていた店主は、娘の声に振り向くといつもの穏やかな表情で頷いた。

「ああうん。迷惑かけないようにね」

「はーい。じゃあ行きましょ雅文さんっ」

「えっ? あの……?」

 雅文の困惑は置いておかれたまま。

 看板娘はアルバイトを引っ張り、休憩室へと連行していくのだった。



 四畳半の中にあるのは、ちゃぶ台と書類が詰まった棚。小さな上がり框は三人も靴を脱げば一杯になる狭さだった。

 カウンター奥にあるこの空間は、元々店主が仕事の合間を縫って作業をするための部屋だったが、アルバイトを雇った今は、更衣室を兼ねた休憩所が主な用途となっている。

 畳の上。ちゃぶ台を前にして雅文は居心地悪く座っていた。ここへ連れてきた看板娘は、何かを取りに行ったようで今はいない。

「お待たせしましたー」

 しばらくして戻って来た花香が手に持っていたのはお盆だった。

 店の配膳に使っている物で、上にはピッチャーとコーヒーの入ったカップが乗っており、慣れた手つきでちゃぶ台へと置いていく。

「あの、東寺さん、これは……?」

「ハナでいいですよ。お父さんと紛らわしいじゃないですか」

 よそよそしい呼び方に、花香はまたも距離を詰めようとして訂正を要求する。雅文はどうすればいいかも分からず、呼び名は放置した。

「えっと……それで、どうしてここに?」

 雅文は改めて疑問を提示するが、花香は応えずピッチャーでコーヒーにミルクを注いでいる。見事な手際でパンダが描かれると、その完成品は雅文へと提供された。

「どうです?」

「……上手、だね」

 戸惑いながら取りあえず感想を伝えると、花香は年相応の笑顔を見せる。

「でしょー。自分、将来絵を描く仕事したいんです。これもその修行の一環です」

「……継ぐんじゃないんだ」

 会話のペースをすっかり奪われたまま、更に「飲んでいいですよ」と行動を促される。言われた通りにする雅文をよそに、花香は自分用のカップにハートを描いていた。

 ……この時間はなんなのか。

 抱き続けていた雅文の疑問は、二つ目のラテアートが完成してようやく答えられた。

「雅文さんを連れてきたのは、勉強を見てもらいたかったからなんです」

「勉強?」

「はい。自分、今年受験生ですしね」

 と言って、花香はお盆の下に敷いていた教材を取り出した。

 数学の教科書と問題集。ちゃぶ台の上に広げられたそれらを見つめ、雅文は自然と納得する。

 彼女には、一度目でも勉強を教えていたのだ。

 あまりにも暇な時間を埋めるため、店主から与えられたもう一つの仕事。その時も、この休憩室で彼女の教師役を務めた。

 それから考えると、今はまるで歴史が元の流れに戻ろうとしているようで。

 強引な提案だったにも関わらず、雅文はもう追及する事をやめていた。

「えっと、俺で良ければ……」

「これはあっさり受け入れるんですねー」

「えっ?」

 ふと零された言葉に、雅文はとっさに首を傾げる。しかし、花香はそんな発言などなかったとばかりに瞳を畳へと向けていた。

「ではでは、家庭教師として今後もよろしくお願いします。あ、お父さんには言ってあるんでご心配なく」

 相変わらずの溌溂とした笑顔で、彼女は違和感を上書きした。雅文はぎこちない会釈しか返せず、勉強会は始められていく。

 ピッチャーとお盆は畳の上に避けられ、ちゃぶ台には数学の問題集と二人分のコーヒー。勉強机には少し狭く感じたが、当の本人は気にした様子もなくペンを取り出した。

 花香が問題を解き始めるのを眺めていた雅文だったが、しばらくして手持無沙汰に気づく。

「俺は、何すればいいかな?」

 すぐに質問が来るものと思っていたのに、花香は構わず問題を解き進めていた。教師が生徒に情けなく問いかけると、にこやかに告げられる。

「分かんない問題あったら聞きますよ。それまではせっかくですし適当にくつろいでいてください」

「え、あ、うん……」

 頷きながらもくつろぐことに気が引けた雅文は、もう少しの間回答欄が埋められていくのを見つめる事にした。

「………」

 時間が経っても、雅文が必要とされることはない。その生徒は、間違いには自分で気づき答えと照らし合わせていて、そのまま次の問題へと挑んでいる。

 なぜ勉強を見るよう頼んだのか不思議になった。

 記憶の中ではもう少し頼られていたような気がする。彼女との会話のほぼ全てが、勉強によるものだったはずだ。

 花香に対しての違和感が更に膨らんでいると、ついに問いが投げられた。

「雅文さんは、彼女とかいないんですか?」

 それは勉強に関係なく、けれど中学生らしいと言えばらしい。

 雅文は疑うような目で生徒を見返しながら、一応答える。

「いないよ」

「えー、高校生なんですから、気軽に作っちゃいましょうよ」

「いや……、そういう気分にもなれないし」

「そう言う時こそ、彼女作った方が良いんですよ?」

 勉強の手を止めてまでそのアドバイスを告げる。じっと見つめてくる視線。雅文は返す言葉も思いつかず、休憩室に置いてあった自分の荷物に手を伸ばした。

「あ、雅文さんも宿題あったんですか?」

「いや、復習……予習しようかなって」

 教える必要がないなら、自分は勉強をした方が有意義だろう。問題集はあらかた埋め尽くされてしまっているから、雅文はもう習った予習範囲に目を通した。

「偉いですねー。自分、予習なんて絶対しませんよー」

 年頃の女の子のようにけらけらと笑う。その場で見る言動に違和感はないのに、思い返すとどこか整合性が取れていない気分になる。

 それから、花香の他愛無い質問は何度も繰り返された。今までになく踏み込まれ、けれども傷は避けていく。奇妙な感覚を味わいながらも、少女の明るい声で、生まれた影は全て消されていった。

「雅文さんは、分かんない問題があったらどうします?」

 ペンが、空白を前に止まる。それでも彼女は教えを求めない。

「……分かるようになるまで考えるよ」

「自分は、すぐに答え見ちゃいます」

 と言うと、花香は今まで通り問題集の解答を開いた。そうして空白を自分で埋める。

「頼れるものは頼らないと損ですしね」

 その瞳は解説を読みながらも、視界の端に自分を見ているとなんとなく分かった。観察されているのだと知って、雅文は足を組み替える。

「そうかもね」

 それ以上見られてしまわないよう、視線を手元の教科書へと固定する。どうせ、彼女に教師は必要ない。

 結局、店主が定時を告げに来るまで、数学の話題は出てこなかった。


◆◇◆◇◆


「彼女いないんならいいじゃないですかー」

「いやっ、そういうのじゃないでしょ……っ」

 雅文は、上ずった声で体を硬直させている。その原因は、右腕に絡みつく花香にあった。

 夜更け。アルバイト終わりに看板娘の言葉で店主に車で送ってもらう事になった。それだけなら天候の悪い日などにもある事なのだが、なぜか少女もついてきて、挙句、車を降り、玄関に向かうまでの道もこうしてくっついてきている。

 異性の体に慣れていない雅文は、出来るだけ接地面をなくそうと試みていたのだが、その様子に花香は少し声色を落として言ってきた。

「もっと体重預けてください。意味ないじゃないですか」

「………」

 誤魔化すのを諦めたように。それで雅文も彼女の真意を理解する。

 それから、花香は雅文を支えながら歩いた。その表情に嫌な色は一切なく、雅文はなんだか胸に苦しみを覚える。

 すぐに、302号室には着いた。

「あ、ここですか?」

「うん。だからもう大丈夫」

 と伝えても、花香は離れない。鍵を取り出すのも待っていて、玄関を解錠しても彼女は隣にいた。

 まさか、このまま家に上がられるのではと危惧しながらドアノブを回す。

 すると、

「あ」

「えっ……と、おかえり」

 玄関先に、希李が立っていた。

 救急箱を手に提げていた彼女は、雅文にくっつく見知らぬ少女に一瞬呆然としながらも、どうにか出迎えの言葉を投げる。

 雅文も、なんだか不味い所を見られた気分になり固まっていると、右腕の拘束は途端に解けた。

「なーんだ、彼女いるんじゃないですか」

 吐かれるため息。それは呆れと安心が混ざっているようで。

 花香はすぐに笑顔へ表情を切り替えると、早々にその場から去っていった。

「お邪魔しましたー。雅文さんとは何でもないんでー!」

 去り際に念を押す少女。困惑しながら玄関に入る家主に、希李は救急箱を開けながら尋ねる。

「さっきの子は?」

「バイト先の娘さん。……多分、足の怪我を気遣ってくれたんだと思う」

「そっか」

 聞けた事実に希李は思わず微笑み、それから雅文を玄関先に座らせ靴を脱がせた。

「痛い?」

「……我慢出来るよ」

 靴下も脱がせば、その足には赤く染まった包帯が巻かれていた。

 先日の砂浜で、雅文が裸足で岩場を駆け登った時に出来た傷だ。その後、失敗して逃げ出して、傷は余計深く残っている。

 だというのに雅文は平時通り過ごそうとして、傷は一向に塞がらないでいた。

 靴の中敷きにまで血が染みていて、彼の苦痛を思い浮かべ希李も一瞬顔をこわばらせる。それから慎重な手つきで包帯を変え始めると、それには雅文もされるがままだった。

「加納君、ごめんね勝手に上がっちゃって」

「いや……ありがとう」

 不思議と口からは感謝の言葉が出ていた。なんだか張りつめていた心が、少し楽になったような感じがある。

 アルバイトに出る前、家を訪ねてきた希李を追い返したのに、彼女はこうして帰りを待ってずっと心配してくれていた。そう言った行動にはいつも申し訳なく思うのに、なんでか嬉しいような安心するような、手放したくない感情が生まれていた。

 彼女だけでなく、店長や花香もまだ自分を気にかけてくれているのだろう。当然父も。

 その事をきっと、あの看板娘は伝えたかったのだ。

 希李が包帯を変え終わったところで、同居人も玄関に顔を覗かせる。

「雅文、帰りましたか。今日はご飯を食べますか?」

 ユーリが扉を開くと、キッチンの方から良い匂いが漂って来た。するといつもは食欲が湧かないのに今日ばかりはお腹がうずいて、思わず希李を見つめてしまう。

「結構うまく出来たんだ」

 すると彼女は少しだけ照れ臭そうに言って。でも「食べて」とまでは言わない。

「食べないのなら私が残りを頂きたいのですが……」

 そして、相変わらず食い意地を張るユーリ。それにむしろ対抗したくなり。

「じゃあ今日は、食べようかな」

 雅文がそうやって笑うのは、随分と久しぶりな気がした。

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