【13話】‐4/99‐

 雅文はしばらくそうしていた。

 目を覚ますと自宅の玄関前に座っていて、アパートの通路の隙間から覗く空をボンヤリ眺めている。

 思考の中は空白。夢から覚めた感覚で、己が誰なのかも意識していない。

 1時間ほどが経ってようやく彼は腰を上げた。家の鍵は最近閉め忘れている事が多く、ドアノブは抵抗なく回る。

 そうして家へと踏み入り、その瞬間、

「——っ!?」

 吐き気に襲われた。

 それはフラッシュバックにも似ている。自分がやった行為。抱いた感情。被った仮面による悪辣が、途端に雅文の体内で拒絶反応を起こしていった。

 なぜあんな考えが思いついたのか。なぜ何の疑問もなく行えたのか。

 自分の事なのに理解が出来ず、自己否定が繰り返される。ほとんど食事を摂っていないはずなのに嘔吐感が止まらなかった。

「………」

 彼が精神と格闘している時間は相当長かったのだろう。気づけば同居人が帰って来ていて、便器を前にしてうずくまる家主を見下ろしていた。

 その気配に気づいた雅文は振り返り、そしてその顔を見た途端、強烈な後悔を覚える。

「ご、ゴメン。殴って……」

 考えるよりも先に謝罪が口を出た。

 ユーリの怪我はそれほど大きくはなく、口端は切れてしまったのか絆創膏が張ってあったが、相変わらずの無表情で痛みも感じていなさそうだ。それでも、人を故意に殴ったという事実が、被害者を捉えた視界から自分の右拳へと伝って体を蝕んで来る。

 しかしその少女は顔色も変えず、ましてや加害者を責める事もしない。

「構いませんよ。むしろ想定していた使い方です。今後も多用してください」

「………っ」

「何をそんなに怯えているのですか?」

 どうやらユーリからはそう見えるらしく、首を傾げられるが、雅文にも自分が分からない。

 答えが返ってこないと分かると、神の使いはもう用が済んだと踵を返す。

「今の雅文は、とても歪ですね」

 それはただの所見。感情すらこもっていないその言葉を残して、ユーリは雅文の側を離れた。


◆◇◆◇◆


 ガシャン、と椅子を巻き込んで倒れる。

 うずくまるその少女の下に、友人は駆け寄った。

「だ、大丈夫っ?」

「はい、問題ありません」

 二つのお団子を結わえる女子生徒の心配に、銀髪の少女は場違いにもにこやかに応える。

 彼女らの会話に注目している生徒は他にいない。クラスメイトは漏れなく『彼』の奇行から目を離せないでいた。

 同じ流れ。同じ反応。しかし誤魔化された認識の中では誰もが目を見開く。

 ただ一人、飽きを覚えていたユーリだけが冷たい瞳で眺めていた。

「悠里、ちゃん……?」

 突如表情を消した友人に、八坂陽未は戸惑いを見せる。

 親しい彼女をまるで別人のように感じ、陽未は問いの口を開こうとして。

 飛び散った赤色が、二人の間を通り過ぎる。

 その瞬間、教室内全ての人間の瞳が虚ろに変わった。



「あの、悠里、ちゃん」

 朝。登校を終えて席に着こうとしたユーリに、陽未がぎこちなく声をかけてきた。

「どうかしましたか?」

「その、顔……」

 指を差されたのは痣だ。右のこめかみ辺りから目尻まで広がる青色。痛々しいその痕が手つかずで放っておかれていれば、普通の感性なら気にかけてしまうだろう。

 その道理を理解して、ユーリは心配いらないとその痣を触って見せた。

「大丈夫ですよ。痛くもありませんので」

 屈託のない笑顔で応えると、陽未はなぜか表情を引きつらせる。それから、口を閉じてしまった彼女に代わるようにして別の声が投げられた。

「いや、痛くないからって触るの恐いわ」

「おや、楓さん。おはようございます」

 多々良楓はその気だるげな目つきを細めて率直に指摘する。朝礼までの時間、暇を持て余して彼女が遊びにやってくるのはいつもの事だ。

「変でした?」とユーリが尋ねると、楓はハッキリと頷き、こっそりと陽未も賛同を見せる。そして楓は嫌悪を膨らませ、問い詰めた。

「それ、また加納?」

 応えず、いつものように笑みだけ見せれば、呆れたため息を放たれる。

「加納くん、なんで悠里ちゃんのこと殴るんだろうね……」

 非難の色を乗せて、友人二人は彼の席を眺めていた。彼の登校はいつもギリギリで、この時間はまだ空席だ。

 彼への印象操作はかなり順調と言っていいだろう。その事を実感していたユーリは、ふと気になって二人に質問をする。

「二人は、彼の事をどう思いますか?」

「暗くて頭おかしい」

「えっ、話したこともないしよく分かんないけど、怖い、かな……」

 楓は相変わらず物怖じせずに告げて、陽未は探るように打ち明ける。概ね想定通りの回答に、なぜかユーリはガッカリしていた。

 その意味を自ら導く前に問いを投げられる。

「悠里ちゃんはっ、どう思ってるの?」

 思い切って放たれた問いに一瞬考えようとして、だがそれは間違いだと修正する。

「乱暴な人だとは思いますが、彼にも何か理由があるのでしょう」

「……」

 1年2組での向井悠里は、行き過ぎた善人である。それは正に、対照的な存在の悪辣さが際立つほどに極まっていく。

 その性質はずっと見せてきたはず。しかし質問者である陽未は、求めていた答えでなかったとばかりに瞳を曇らせたままだった。

 けれど掘り下げられる事はなく、会話はいつものように流れていく。

「にしても、理由があったって暴力は起こしちゃダメだと思うけどね。てか何で人殴って学校来れてんの?」

「確かに、停学ぐらいにはなってもおかしくは……あれ? 加納くんは、直接暴力は振るってないんだっけ?」

「あーそうだっけ」

 浮かぶ疑問は浅い内に散らされていく。その神の御業を目の当たりにする度ユーリは、彼女らが紛れもない一般人なのだと理解させられた。

 そして、不思議な感情を芽生えさせる。

 それが何かはまだ分からない。

 ただ少なくとも、以前のような主への歓喜はなくなっていた。


◆◇◆◇◆


 代表に選ばれたその生徒は、教卓の前に立ちクラスメイトを見渡している。

「えー、体育祭に向けての話し合いを行いたいと思います」

 そう切り出され始まったのは、約1か月後に控える行事に関する会議。実施予定の種目が書記担当によって黒板に羅列され、生徒から参加者を募っていった。

 にわかに賑わい始めたクラスに、雅文は少し煩わしく思って机に突っ伏す。

 つい先日、殺された数は10を超えたところだが、人死にが起きたとは思えないほど、教室は平穏に営まれている。数少ない形跡は、被害者の痕と加害者へ向く視線だけだった。

 認識を誤魔化すという神の力は、雅文の死の前後を対象にしているらしく、一般人は雅文が死んだという事実を知らないし、ニュースにも取り上げられていない。ただし、それまでに行った奇行は強くこびりついている様子だ。

 神とは『見えないもの』を操れるらしい。それは大雑把に言えば意識や記憶などで。反して運命が『見えるもの』を司っている。それは物理的でもあるし、歴史的でもある。

 いわば結末は、運命にしか定められない。しかしそれまでの過程なら、神も横槍を入れる事が可能だった。

 運命の日である3月8日。その結末へと向かうまでの過程の中であるのなら、多少の強引な力も働かせられ、帳尻合わせは全て運命の日に行われる。地道に99回を稼ぐのは、運命による誤認を知らぬ間に起こすため。美桜と言う死の重要性を薄れさせてから、運命の日を迎えるためだ。

 最初は受け入れられなかったそれらの説明も、成果を出し余裕すら抱き始めている今では、じっくりと反芻する事も出来ていた。

 そうして教室の中、独り閉じこもっていた雅文だが、全くの不参加は許されない。

「え、えっと、加納くんはどこがいい?」

 恐る恐る、代表の生徒が声を投げる。クラスメイト達も様子を窺うように静まり返っていた。

 対して雅文は、なんてことなく顔を上げて、親しみやすい笑みすら向ける。

「なんでもいいよ」

 すると代表生徒の彼は顔を引きつらせ、それでも自分の役目を全うしようと余っていた3種の競技に『加納』と記入していった。

 けれど雅文は、その競技名も確認せずにまた机に突っ伏す。

 1度目で得ていたはずの楽しい思い出は、もう思い出せはしなかった。

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