第一章 願い(2)
少女は、フラフラと覚束ない足取りの男性を、支えるように身を寄せる。
「鬼人種の方ですよね。怪我ですか、病気ですか? お腹は減ってませんか?」
「ああ、ありがとう。身体は大丈夫なんだ。腹が、減って」
「大丈夫ですよ! ここにはコレがたくさんありますから!」
「え、ああ、甘ゲロかあ……」
「おいしいですよね、コレ!」
「あ、うんソウダネ。まあ背に腹は、いや、しかし」
嫌がらせみたいな激臭の銀包装に男性は顔を歪めるも、少女に支えられながら瓦礫の一角へ腰を下ろす。肩の力を抜いた男性は、やや虚ろな目を傍らの少女へ向ける。
「お嬢ちゃんは、人間種か? まだ小さいのに、よく一人で」
「運が、良かっただけです。助けてくれた人も居て、隠れる場所もあったので」
「そうか。今は、居ないんだな……」
俯いた少女の頭を撫でながら、男性は廃墟跡を見渡す。積み上げられた瓦礫、降り積もる雪モドキ、その中に埋まる食糧庫。視線を移していき、ある一点で、止まった。
あっ、と少女が声を上げたその先。
大きな鳥の獣が、死体となって転がっている。
「あ、あれは、その」
少女が慌て、男性を振り向けば。
「魔獣、か。いや、驚きはしないよ。大方、共食いでもあったんだろう? 複数の痕跡もある。かく言う私も、逃げ隠ればかりが取り柄でね」
ははは、と恥じるように笑う男性に、少女はほっと肩の力を抜く。こわばった表情をぎこちなく緩めて、携帯食の一つを差し出せば、男性は微妙な面持ちながらも受け取った。封を開け一口含んで、青い顔でえずきながら飲み込む。
「あれは、火葬してるのかい?」
「あ、はい。助けて、あげられなくて。でも、せめて、弔ってあげたくて」
「そうか。立派なことだな……」
「いえ、そんな。あの、もし良ければお連れの方も」
ん? 少女の言葉に、男性は首を傾げる。
「どうして、俺が一人じゃないと分かった?」
余計なことを言ったと、少女は理解するよりも、早く。
得も言われぬ悪寒に思わず飛び退き、それは正しかった。
「避けるなよ」
振り抜かれた男性の手に、掠めた前髪が宙を舞う。
刃の欠けた鈍いナイフが、握られていた。
「ああ、クソ。やっぱツいてねえなあ、俺。いつも貧乏クジばかり引かされる」
不機嫌を隠そうともしない声音と、感情の抜け落ちた顔が、少女を射竦める。
少女は胸前に両手を抱き、一歩を退く。
「『魔獣飼い』の噂は、さすがにデマか。でも、まあ、そりゃあマトモな訳はねえわな。おまけに甘ゲロかよ。アテ外れにもほどがあるだろ、魔獣でも食わねえぞコレ」
男はナイフを握る右手を垂らし、一歩を踏んだ。靴の下で、打ち捨てられた携帯食料が弾けて潰れる。溢れる激臭を気にも留めず、呼吸を整えるように、長く吐いて、吸い。
「――『
その口が、たった四音の言葉を紡げば、刃を覆うように光が走った。
揺れる刃先が空を撫でるたび、耳障りな風音が静寂を切る。
男は、自慢気に語る。
「俺、切るのが上手くなくてよ。他の医者にも、昔からヘタクソって言われてな。今でも、死ぬまで、何度も切っちまうんだ。痛くて泣き叫んで可哀そうだけどよお、仕方ないよなあ。なるべく早く、死なせてやるからなあ!」
「――ッ!」
頭上から振り下ろされるナイフを少女は背後へ転がり躱す。勢い余り地面へと打ち据えられた刃はしかし折れることも止まることも無く、雪を散らしコンクリートの基礎を割り裂いた。男の舌打ち。続いて跳ね上げられる刃先に少女は地を蹴って距離を取る。
「だから、避けるんじゃねえよお!」
「違う、私は魔獣じゃ、あなたの敵じゃありません!」
「ただのガキが、こんなところで、一人で生きてるわけねえだろうが!」
ビクリと、少女の肩が跳ねる。
目を見開き、震える口を固く引き結んで。
「死体は焼いて手口の証拠隠滅。煙で次のエサを釣る。無害そうな女子供がお出迎え。常套手段じゃねえか。ああ? オイ、まだお仲間は出てこねえのか? あの魔獣をぶっ殺した高位の魔術師が居るだろ!? クソが、ただで食われてたまるかよ……!」
「そん、な。そんなこと」
ふるふると頭を横に振る少女へ「ああー?」と男は首を傾げる。わざとらしく大げさに、糸の切れた人形のようにガクンと、頭を落とす仕草には人間味さえなく、
「はあ? マジで? お前、マジに一人なのかよ?」
「ほ、本当です! 私は、ただ、あなたを助けたく」
「ヤベえ。マジもんのイカレじゃねえか、コイツ」
少女の言葉が、止まる。
侮蔑。困惑。あるいは、恐怖。
あらゆる拒絶をない交ぜにした男の目が、少女を見下す。
「この期に及んで魔術の一つも使わない? まさか工房師のガキが生き残ったってのか? マジかよ。偶然ってなあ、恐ろしいなあ。さすがに憐れすぎるぞ。どうなってんだオイ、どこまでも終わってんなこの世界は」
でも、まあ。
「なおさら、死なせてやらねえとなあ……」
呆れたように、諦めたように吐き出される、呪詛の数々。
少女は口を引き結び、背後へ足を運びながら、
「どう、して。なんで」
「工房師は死んで当然だろう」
心底不思議そうに、男は言った。
「魔力も使えねえ、クズのケダモノ共は、早く死なせてやらなきゃあ。
バケモノに、なっちまう前になあ!」
下卑た笑い声が、響く。
空気を、雪を、震わせて。
心底楽しそうに、喉を開いて。
「こんなクソみたいな世界で、人助けだ? 頭おかしいんじゃねえかお前」
男は、少女の暗い青い瞳を、真正面から見据えて。
「気色わりい目しやがってよ――バケモノが」
振り上げられた、ナイフが。
不意に、止まった。
「そういや、女か」
霞んだ瞳孔が、少女を、舐め回すように見定め。
「使わなきゃ、もったいねえな」
意味を。
少女は強いて、考えなかった。
「生け捕りだ。俺たちにも回せ」
廃墟の外から答える、別の言葉も。
目の前にある、満面の笑顔も。
振り降ろされる、刃も。
『耳が腐る』
頭上から踏み込まれた黒い脚が、男の身体をぶちまける音も。
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