第45話 パリ集合

 パリに今の夫も遊びに来たし、ブルターニュにいた環も来てくれたし、智子も南仏から来た。

 とりあえず、一つの部屋を確保していて、夫(当時は恋人)がホテルをとっていたので、そこに私が泊まり、環と智子が確保していたワンルームに二人で泊まった。その部屋にソファベッドがあるのだが、どうしても真っ直ぐにならない。何だか背もたれが斜めになってフラットにならない。それでもいいと、初めは智子一人が寝ていたのだが、環が来て、フラットになる方法を考えてくれた。

 結局、思い切り引っ張ればフラットになったのだ。何かの引っかかりがあったが、勢いつければ、フラットになる。

 お湯は小さなタンクに貯める方式なので、シャワーは簡潔に浴びないと二人分はない。工夫して暮らしてくれていたようだった。私は環がブルターニュからせっせと持ってきてくれたお皿を鍵を開けようと、ドアノブにかけてしまい、当たり前だが重さでドアノブが下に下がって、そのまま…使う前に割ってしまった。今でもあれは浅はかだし、悪いかったなぁと時々思っている。なんでそうしようと思ったのか、今でも分からない。


 引っ越しと同時に来た夫はかわいそうにどこも観光できずに私の引っ越しの手伝いをさせられていた。

 ただ今も思い出せないのだが、私に何かの用事があって、夫が一人で何処かへ出かけたことがある。バスが好きな夫は行き先も確認せずにバスに乗った。もちろんフランス語は出来ない。

 そしてポルトマイヨーというところで降りたらしいが、そこがどこなのか分からなかったらしい。なんとか地下鉄の駅を探して戻ってきたが、あの時はグーグルもなかったから、地図と人に聞くくらいしか、解決法がなかった。だからか、別に行きたい場所でもなかったポルトマイヨーに一人で行けたことが、旅をしているという気持ちが強くて、一番楽しい思い出だった、と言っている。それも少し胸が痛い。


 そんな夫もすぐに帰り、私は学校も始まった。大家さんはちゃんとした人で(トゥールのことがあったから、普通なのかもしれないけれど、心の中ではめっちゃいい人だと思っていた)、アロカシオンという制度を使ってもいいと言ってくれる人だった。これは人によっては所得を隠したい人なんかは、使えないという人もいた。

 このアロカシオンというのは留学生でも使える家賃補助だった。学生に対して行われる家賃補助だが、フランス国民だけではなく、海外の留学生にも補助を出してくれるというありがたい制度だ。私のところの家賃が六万円(二十年前の話よ)くらいで、3万円くらい補助が出たから、実質3万円くらいでワンルームを借りれることになる。色々申請書類を書いて提出しなければいけないのだが、大家さんはちゃんと書いてくれた。

 もうこれだけでなんていい人だ、と思わず思ってしまうくらい、私は大家さん問題で気持ちがやられていた。

 その申請に必要だったと思われるが、家の保険に加入しなければいけなかった。私は最寄り駅すぐにあった保険屋さんに入って、留学生であること、家賃補助のために保険に入りたいことを告げた。

(今考えたら、よくふらっと保険会社に入ったなぁ…)


 保険屋のお兄さんはすぐに手続きをしてくれた。


「給湯器の大きさはどれくらい?」

「え? 給湯器?」と聞き返すと「何リットル?」と言われる。

 さすが数字の好きなフランス国民だ。給湯器のあの小さいタンクが何リットルなのか、さっぱり分からない。

「あー、知らないけど…。けど、これくらいかな?」と手で大きさを示した。

「え? 小さいけど」

「小さいの? でもこれくらい」とまた手で表す。

 渋い顔をしたが、こいつと話してても埒が開かないと悟ったのだろう。私の手の大きさでお兄さんが判断した容量を書き込んでくれた。


 私物にも保険がかけられるらしくて、

「テレビは何インチ?」

「テレビ? ない」

「え? ないの?」と聞かれた。

「ノン。ない」

「じゃあ…パソコンは?」

「ない」

「え? パソコンもないの?」

「ノン。ない」

「じゃあ…カメラ?」

「…ない」

 っていうか、無いって言うのが段々恥ずかしくなってきた。保険かけるものが無さすぎる。お兄さん、そろそろ察して欲しい。もちろん自転車、バイクも何もない。


 そんな訳で保険料は格安で一年で、一万円程度だった気がする。保険屋さんを出てから、ちょっと見栄はって「テレビはある」って言えばよかったかな、と流石に恥ずかしくなった。

 そんなことを考えて、思わず一人で笑ってしまった。パリの生活は何だか幸先がいい気がした。

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