貴女に届け。この指輪
七海 司
本文
昔は、土というものがあったらしい。
過去には、自生している植物があったらしい。
らしいというのは全て歴史の教科書に書かれていた文字で、僕は本物を見たことがないからだ。
僕たち人類は今、地球の死骸に住んでいる。
玄関のドアを開ける前に、サングラスのズレを直し、黒く見えるネクタイを締めなおす。
「ふぅ」と呼吸を整えて取手を握る手に力を込めて押し開ける。想像通り、氷によって反射された強い陽光が目を焼くために差し込んでくる。偏光レンズ越しでもわかるほどの強い光だ。眉間に皺を寄せながら目を細めて南極化した街中へ繰り出していく。
旧世代型デバイス『スマホ』がぴくんっ有機的に震えて今日の予定を確認しろと催促してくる。去年登録したリマインド――指輪を忘れるな――という文字を確認して、彼女に渡すべき指輪をグローブ越しに握りしめる。擦れた布からぎゅむっと雪を踏んだ様な音が鳴った。大事な指輪だ無くしていない事に改めて安堵する。
辺り一面雪と氷で覆われた銀世界。というのはもう昔の話。今や熱を失ったこの星には白さも堆積した雪が作る透いた青もなく。ただただ、排気ガスで汚れた茶色があるばかりだ。透明なのは家の暖房と世界の冷気によって生まれた氷柱だけだ。透き通った柱の先には宇宙へ伸びる霜柱を連想させる重力放出塔を歪めて映している。複数の氷柱と相まって牙の様だ。
「卒業したらあそこで働くんだ」
不意に彼女が呟いた言葉を思い出して、視界が氷柱越しにみた世界のように滲んでしまった。
氷の反射を利用して作られた立体映像では、ホログラムのヴァーチャルキャスターが過去の大災害について解説していた。
嫌でも目につき、心が目の荒い紙やすりのようにざらつく。
立体映像は重力暴走によって、踏み潰された霜柱の様に潰れて砕けて半壊する瞬間へと切り替わる。
何度も何度も崩壊が再現される。幾度も幾度も施設が潰れていく。
もう、やめてくれ。
見たくもない映像が街中に溢れている。視界に入れないように下を向き、靴跡を雪に残していく。
ぎゅむぎゅむと片栗粉を握りつぶした様な足音を止めて顔を上げると、既にいくつかのミニチュアサイズのテントが空に堕ちていた。
「来たよ。こんな形で来る事になるなんて思わなかったけど」
一人呟く。
約束の場所、約束の時間。彼女はもう、来ることは決してない。
今日は灯籠流し。死者の魂を弔う日。
昔は川に灯籠を流していたらしいが、今は、星空に流すのが常識だ。年に一度、太陽と恒星が出会うこの時間にだけ、重力偏移が起こる。物体は空に吸い上げられる様にして、宙に堕ちていく。
去年はふわり、ふわりと浮かび、雲にめり込んでいくテントの群れを彼女と笑いながら見ていた。そこで来年も観にこようと約束したのだ。白い息を吐きながら「うん」と言った彼女の顔は毎日のように夢にみる。
僕は、小さなテントの中に傷だらけの指輪をそっと仕舞い、宇宙に送った。星になった彼女へ届く事を祈って。
小さなテントはふわりふわりと白い惑星から天へと流れていく。
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