下層観測

哲学サークルDreal

本文

 好美は、自室で机に向かっていた。今日出された宿題を片付けている最中のようだ。

「ふう」

 溜め息を吐き、顔を上げる。宿題をやろうと何をしようと、どうにも気が晴れない。

 沈痛な面持ちで、好美は引き出しから一通の手紙を取り出した。そこには、「いつも見ています」とだけ、書かれていた。

(これ……何なんだろう)

 差出人の名前もなく、どうにも気味が悪い。本当なら捨ててしまいたいくらいだった。しかし友人が、もしストーカーとかだったら、警察に提出する必要があるだろうから、捨てない方が良い、と云っていた。

(ストーカーなんて……そんな……)

 再び、溜息を吐く。

(いつも見ています……。いつもって……)

 不意に、好美は背筋が粟立つのを感じた。

 誰かに、見られている……?

 慌てて振り返るが、勿論夜の自室に、誰かが居るはずがない。しかし、好美はどうにも落ち着かない気持ちだった。

(どうしてだろう……急に、誰かに見られている気が……)

 溜息は、いつまでも溢れ出した。

(考えすぎなのかな……。もう、どうしよう……)

 好美は、机に突っ伏す。

 次第に、意識が微睡んでいく……。


   *


「ねえねえ好美、ちょっと来て!」

 翌日、教室の扉を開いた瞬間に、親友の凛がやってきた。

「えっ、どうしたの……?」

「犯人が判ったのよ」

 凛は、まるで自分の事のように怒ってくれている。

「とにかく、ちょっと屋上に行ってて。犯人連れてくから」

「ええっ、でも……」

 犯人というのも大袈裟だとは思ったが、確かにこの数日、恐い思いをさせられた。しかし、直接対面するとなると、それはそれで恐かった。

 だが、とにかくそれで事情がはっきりするならありがたい話だ。ホームルームまでは、まだ時間がある。好美は云われるまま、屋上へ向かった。


   *


 屋上で暫く待っていると、凛が誰かを連れてくるのが視えた。

「ほら、こっち来て。ちゃんと謝りなさいよ」

 そこに居たのは、隣のクラスの直弥だった。彼は泣き出しそうな顔で、もじもじとしている。

「えっと……直弥君?」

「あ、あの……僕……」

 直弥はもじもじするばかりで、その先を続けない。呆れたように、凛が溜息を吐いた。

「この子ね、まああんたも知ってる通り、内気な子でしょう。あんたの事が好きみたいだけど、告白する勇気が無くて、ラブレターを出したつもりだったんですって」

「ら、ラブレター」

「ごめんなさい……まさか、恐がらせてるなんて思わなくて……」

「それにしても、差出人名くらい書きなさいよ。返事だってしようもないじゃない」

 凛が云うと、直弥は再びもじもじとした。

「その……恥ずかしかったし……」

「あんた……でもそれじゃ、何にもならないじゃない……」

「お、想いを伝えられるだけで、僕は……」

「あんたが良くても! 好美が困るでしょ! ストーカー被害に遭ったようにしか思えないわよ!」

 直弥は初めて気付いたというように驚き、恐縮している。

 確かに呆れた話だが、好美は安堵の息を漏らした。とにかく、犯罪的なものではなくて良かった。

「まあ、これで事件は解決ね。恋の行方は、あんたらに任せるから」

 そう云って、凛は去っていった。これは気を遣ってくれたのだろう。

「え、え、え、え……」

 当の直弥は、ひたすら慌てていた。ここまで来て、なお勇気が出ないらしい。

「え、えっと……返事をした方が良い、のかな……?」

「え、ええと……」

 怯えたようにしていた直弥だったが、覚悟を決めたのか、泣きそうな目で、まっすぐに好美を見据えた。

「返事は……聞かなくても解ります。駄目、なんですよね」

 好美は、静かに頷いた。

「本当に……恋人になりたいとまで、思っていた訳じゃないんです。ただ、何とかして、想いを伝えたかっただけなんです」

「うん……」

 直弥は、頭を下げた。

「恐がらせて、ごめんなさい。本当に……すみませんでした」

 そう云って、直弥は去っていった。

 折角の愛の告白も、こんな事になっては台無しだろう。断るつもりだったとは云え、好美は少し可哀そうな気もしていた。

 でも、とにかくこれで……。

「……えっ?」

 再び、好美に悪寒が走った。今までは直弥に気を取られていたが……。

(まだ……誰かに見られてる?)

 辺りを見回すが、勿論人影は無い。

 しかし、この感じは――?


   *


 ストーカー事件が解決しても、好美の気は晴れなかった。

 いつも、と云う訳ではないが、どうにも頻繁に、誰かに見られているような気がしてならない。

(例えば、今は……?)

 好美は、神経を集中させる。

 ……見られている。

(そんな……さっきは感じなかったのに)

「ちょっと好美、どうしたの?」

 一緒に下校していた凛が話しかけてくる。

「まだ何か心配事?」

「え……ううん、大丈夫……」

 何の確証もないのに、これ以上親友に手間を掛ける訳にはいかない。好美はそう思って、何も云わなかった。

「ふうん……でも、何かあったら云ってよね。今更遠慮するような仲じゃないんだから」

 凛は、好美の背中を力強く叩いた。

「うん、ありがとう」

 好美はさり気なく、周囲を見渡す。人通りの多い道ではないので、二人以外に人影は無い。しかし、それでも――。

(……ああ、見られている)


   *


 この町には、小さいながらも荘厳な教会があった。町の人……いや、この国の人は、誰でもこの宗教の信者だった。この国だけではなく、他の国にも多くの教徒がおり、歴史的にも一番古くからある宗教であるらしい。だから、困った事があると、町の人達は皆教会に来て、お祈りをする。

 ある休日、好美は教会を訪れた。シスターが優しい笑顔で迎えてくれる。

「あら、好美さん。こんにちは」

 この笑顔だけで、好美は救われたような気持ちにもなる。

「こんにちは。あの、お祈りをさせていただけますか?」

「ええ、どうぞ。今は他に誰もいらっしゃっていませんから、どうぞご自由に」

 シスターに会釈をし、好美は礼拝堂に飾られた神像の前に跪いた。

(神様、どうぞ私をお助けください。私は、どうしたら良いのでしょう……)

 そうして暫くお祈りをしていると、扉の開く音が聞こえた。

立ち上がって振り返れば、そこには神父が立っていた。

「あ、神父様……」

「お邪魔してしまいましたか」

 柔和に笑みを浮かべ、神父が傍にやってくる。好美は、彼の暖かく包み込んでくれる笑顔も、また大好きだった。

「いえ、丁度終わったところです」

「……どうやら、顔色が優れないようですな。何か私にお手伝いできる事がありますかな」

 神父は、何でも見抜いてしまうようだ。まだ好美が幼かった時分から、困っている時はいつでも助けになってくれた。

 しかし好美にも、巧く事情が説明できなかった。誰かに見られている気がする、としか云えないのだ。それ以上突っ込まれても、何も云えない。

 云い淀んでいると、神父はふと微笑んだ。

「何やら気掛かりな事があるようですね。ずっと思い悩んでいると疲れてしまうでしょう。気分転換になるか判りませんが、説教を受けていかれますか?」

「……そうですね、お願いします」

; 好美が頷くと、神父は別の部屋へ案内した。

「さて、それでは何のお話をしましょうか」

 法典を手に、神父が前に立つ。好美は、姿勢を正して坐った。

「先程も申しました通り、思い悩んでいると疲れてしまうでしょう。特に関係の無さそうなお話はいかがですか。例えば、この世界の構造について」

 世界の構造。神がどのようにしてこの世界を作ったのか。この世界がどのように作られているのか。法典の最初の方に書かれている内容だった。

「はい、ではお願いします」

 好美が云うと、神父は頷き、ゆっくりと口を開いた。

「この世界。我我人間は、地球と云う一つの星に生きている。しかし世界は、地球だけではありません。地球は宇宙と云う空間に浮かんでおり、他にも火星や水星、太陽など、多くの星が同様に宇宙に浮かんでいる。我我が生きているのはその中の、たまたま一つの星に過ぎません」

 好美は、頷きながら神父の言葉に耳を傾ける。

「そしてこの宇宙も、複数ある世界のたまたまの一つに過ぎません。地球の他の星が同じ宇宙にあるように、宇宙の外の世界には、他の宇宙も存在している。そして、地球の外に宇宙があるように、宇宙の外の世界というものもまた、存在している。それは、より上位の世界であり、上層と呼ばれています。相対的に、中に存在する世界を下層と呼びます。例えば我我のこの世界は、宇宙の外の世界の、下層世界となります」

 神父は、好美の目を真っ直ぐに見詰めた。相手が、ちゃんと話の内容についてこれているか、気に掛けているのだろう。

「さて、神は上層に存在しておられます。また神は、それぞれの世界に対して存在し、それぞれの世界の上層に存在しているのです」

「あの……」

 好美は、おずおずと手を挙げた。

「どうされましたかな」

 神父は優しく微笑んだ。質問があるのは、しっかりと話を聞いていればこそだ。

「私達の……地球の神様は、宇宙にいらっしゃるのですか?」

「……ああ、これは失礼しました」

 神父は一つ咳払いをした。

「説明が判りにくかったですね。正確に云いますと、我我の世界、層は、宇宙そのものなのです。地球や他の星を含めたこの宇宙と云う、一つの層。この層に神がいるのですが、宇宙の外の世界にいらっしゃるのです。ですから、我我が実際に神とお会いする事はできません。宇宙の外には行けませんので」

「宇宙の外には、行けない……」

 神父はゆったりと頷いた。

「学校で、幾何学については習いましたかな。縦の長さと横の長さだけを持つ世界を平面、或いは二次元と呼びますね。そこに更に高さと云う長さが加わると空間、三次元の世界。我我の世界は、この三次元の世界と云う事になります」

 好美は頷いた。

「さて、二次元世界の人は、三次元方向へ目を向ける事ができるでしょうか」

 これは、確か授業でも聞いた話だった。例えば、紙の上に線を引く時、縦や横に引く事はできるが、紙を飛び越えて手前や奥に線を引く事はできない。

「層というのは、このようなものなのです。いわば三次元の神は、四次元世界にいるのですな。宇宙の外、我我は認識できませんが、きっと四次元の世界なのでしょう。縦、横、高さ、そしてもう一つの方向がある世界」

 好美はこの話を、ここまで突っ込んで聞いた事はなかった。何だか面白くなり、夢中になって話を聞く。成程、他の事に集中していれば、悩みは取り敢えずどこかへいくようだ。

「では、二次元世界の神は、私達の世界にいらっしゃるのですか?」

 好美が訊ねると、神父は少し首を傾げたようだった。

「これまでのは、飽く迄例え話ですので、二次元の神、というのは居ないだろうと思いますが……。そうですね、例えば我我の世界には、小説と云うものがありますね」

「私、小説大好きです」

 神父は満足そうに頷いた。

「例えばその小説は、我我の世界の中に存在するもの。いわば下層世界ですな。そしてその小説を書くのは、我我の世界の誰かですな。そしてその彼……いわゆる作者と云う存在ですが、彼はその小説世界を自由に制御できる。それはもはや、神と呼べる存在かもしれませんな」

 小説の作者は、その小説世界に対する神である。好美は、この説明に大いに納得した。

「成程、確かにそうですね」

「もしかしたら、我我の世界も、四次元世界に於ける小説なのかもしれませんな。そして、我我共が信仰している神と云うのは、四次元世界に於ける、ただの人間であるかもしれません。いずれにせよ、我我には認識できるものではありませんが」

 神を、認識する事はできない。

 好美は、幼い頃から疑問だった事を、訊いてみる事にした。

「あの……」

「何でしょう」

「こんな事を訊くと、お叱りを受けるかもしれませんが……」

「ふむ。まあ少くとも、直ちに破門だと云うような事はありえませんからな。お説教とはそもそも、自身の過ちに気付いたり、省みるためのものですから、お叱りを受けるとなれば、真摯に受け止め、反省すれば良いのです」

 好美は納得し、思い切って質問した。

「我我の祈りは、神に届くのでしょうか」

 神父は、キョトンとしたようだった。しかし、次第に表情は柔らかになる。

「成程成程。やはり若い方は、そこが気に掛かるようですな」

「……と仰ると?」

「貴方は今こそ、次の段階へ進む時が来た、と云う事ですよ」

 何やら神父は嬉しそうだ。

「ではご想像の通り、お説教をしましょう。何、恐がる事はありません。しかし、大事な事ですから良くお聞きなさい」

 好美は緊張気味に頷いた。

「さて、質問をしてみましょう。貴方は、もし神が助けてくれないとしたら、神への信仰を辞めてしまいますか?」

 余りにもあけすけな質問に、好美は戸惑った。神父はにこやかに笑っている。

「もしかしたら、その通りだと頷く人もいるかもしれません。そして、それならそれでも、良いは良いのです。何をどうするかは、その人の自由ですからな。しかし信仰と云うのは、そもそもそうした、打算的なものではないのですよ」

「打算的なものではない……」

「そう。例えば、神など存在するものか、と考える人も居ます。存在しもしないものを信仰するのは莫迦莫迦しい、と考える人も居りますな。そしてその考え自体は、決しておかしなものではない。そうでしょう?」

 好美は、曖昧に頷く。

「さて、我我教徒には、神の存在は認識できないと申しました。つまり、彼らの仰る通り、神なんて実は、存在しないのかもしれない。可能性としては、十分にあり得る事ですな。何しろ、我我にその存在を認識する事ができないのだから」

 まさか、神父から神の非存在可能性が語られるとは思わず、好美は酷く驚いた。

「しかしそれでも、例えば私は、神への信仰を取りやめたりなどしませんし、莫迦莫迦しいとも思わない。虚しいとも思いませんし、神の存在性を疑いもしません」

 神父は、ゆっくりと好美を見据えた。

「何故だか、お判りになりますか?」

 好美は、何も答えられなかった。どうにも、理に適っていないように思える。

「理に適っていない事が、気に掛かりますか? しかし、理に適っていない事は、実は問題にならないのです。何故なら、信仰とはそもそも、理屈とは無関係のものだからなのです」

 信仰は、理屈とは無関係……。

「私が神を信じるのは、私が信じると決めたからなのです。神が存在していようがしていまいが、それは信仰とは無関係なのです。神は居る。そう信じる。いつでも神は、我我を見守っていてくださる。そう信じる。これが、事実であるかは関係ないのです。そう信じる事により、私は神に反する行為を行うまいと決心できますし、邪に染まるまいと決心できる。そうして自身を律せられる。信仰とは主観的なものであり、理屈と云った客観的なものではそもそもないのです」

「私が、信じると決めたから」

「そう。例えば私は、貴方がそこに居る事を知っている。これは、そう信じているからではなく、事実そうだからです。……まあ、哲学的な話は脇に置いておきますが。これは理解というものであって、信仰というものではありませんね」

 好美は、神父をじっと見詰めた。彼は今、確かにそこに居る。これは事実であり、信仰ではない。

「信仰とは主観的なもの。理屈とは客観的なもの。主観と客観は独立しており、互いに混じり合う事はない。だから、信仰が理に適っていないとしても、それは当然な事であり、飽く迄も自分にとってどうであるか、それだけなのです」

 好美は、微動だにできなかった。しかし、内心打ち震えるものがあった。

「神を信じるかどうかは、貴方次第です。別に、信じても信じなくても良いのです。そして、存在するとか助けてくれるとか、そうした客観的な要素とは、無関係なのです。信じたければ信じて良い。ただそれだけなのです」

「は……はい」

「もし神が助けてくださらないとしても、それは信仰とは無関係なのです。人間を救うのは人間でしょう。ですから、人間である私は、貴方の力になります。教会とは、その為にもあるのです。ですから、仮に神を頼れないとしても、いつでも私を頼ってください。力になりますからね。そして、神の信仰は自分自身の決心に依るのであり、ただそれだけなのだとお知りなさい」

「はい……私は、神を信仰します。存在していようとしていまいと、お救いになってくださろうとくださるまいと」

「結構。新しい段階へ昇られましたな。教会として、神父として、そして私自身として、大変嬉しく思いますよ」

 にこやかに微笑み、神父は法典を閉じた。お説教は終わりのようだ。


   *


 どこか夢心地で、好美は家へ向かう。

「たとえどうでも……私は、神を信仰します」

 大きく深呼吸し、気持ちを落ち着ける。

 ……すると。

(う……)

 また、誰かに見られている。好美は、それを強く感じた。そして当然のように、周囲には誰の姿も無い。

(どうして……誰なの?)

 そこで、好美はある考えが思い浮かんだ。

(もしかして……神?)

 好美は、取り敢えず空を眺めた。宇宙の外に神が居ると云うなら、きっと空の向こう、宇宙の向こうから見守ってくれているのだろう。

(……神様、なのですか?)

 好美の不安は、まだ晴れなかった。


   *


 翌日、ホームルームでの事。

「最近、不審者が町を徘徊しているようです。ストーカー被害を訴える声も多くなっていると云います。まだ殆ど何も判っていないとの事なので、皆さんも充分注意してください。登下校や外出時など、できるだけ複数人で行動する事。夜中に出歩かない事……」

 ストーカー被害。まさか、そんな事件まで起こっているとは。

「何だか、こないだの事件が可愛く視えてくるわね」

 隣の席の凛が話しかけてくる。

「事件だなんて、可哀そうだよ」

「あんたもお人好しだよね。まあ直弥君は別に悪い子ではないけどさ、恐かったのは事実でしょ。傍目にも怯えてるのが丸判りだったんだから」

「……うん」

 好美の重い表情に、凛は目聡く気付いた。

「……好美、もしかして」

「ん……気のせいかな、とは思うんだけど」

「……今度のは、本当に警察沙汰なんだからね。絶対に一人で抱え込まないでよ」

「うん、ちゃんと相談する……」

 好美は、今も誰かに見られているような気がした。これは気にし過ぎなのだろうか。神経が過敏になっているだけなのだろうか。それとも……。


   *


 その日の帰り道、好美は凛と一緒に帰った。

「ねえ、今も感じる? 誰かに見られてるように」

 好美は、神経を研ぎ澄ませた。

「……感じる。見られてる」

「うーん……」

 凛は、首を捻った。

「でも、いつでもじゃないんだよね。授業中とかは、感じなかったんでしょ?」

「うん……巧く云えないんだけど、感じない時は本当に感じないの。でも今は……」

「まあストーカーだって、学校にまで入っては来れないだろうし」

「でも……この間の屋上では、二人が居なくなった後、誰かに見られてる感じがしたよ」

「……嘘でしょ」

 いつも気丈な凛も、さすがに躰を震わせた。何しろ、ストーカーが学校にまで入り込んでいるとなったら大変だ。

「ねえ、先生達に云った方が良いんじゃないの」

「でも気のせいかもしれないし……」

「気のせいなら気のせいでも良いじゃない。怒られるなら一緒に怒られてあげるから。何かあってからじゃ遅いんだもん。事件に巻き込まれるくらいなら、何事も無くて怒られる方がマシだよ!」

 凛の云うのも、その通りかもしれなかった。

 その時。

「えっ、何!?」

 突然目の前の曲がり角から、サングラスを掛けた不審な男が飛び出してきた。

「ちょ、ちょっと何なのよ!」

 顔を青褪めさせて、凛が叫ぶ。好美は声も出せなかった。

 男はジリジリと迫ってくる。

(どうしたら……どうしたら良いの……)

 好美は、ギュッと目を閉じ、手を握り合わせた。

(神様……助けて……)

「待てお前! 何者だ!」

 背後から声がした。三人程の男子が飛び出してくる。

「あいつら……」

 凛が目を見張る。クラスの男子達だ。

「広助、正樹、行け!」

 クラスのリーダー格の男子、貴志が叫ぶ。二人は不審者目掛けて全力で走った。

 突然の事に驚き、不審な男は反対側へ逃げ出す。二人は必死に追い掛けたが、相手の足が速く、すぐに引き離されてしまった。

「くそー、逃したか」

 戻ってきた広助が、悔しそうに地団駄を踏んだ。

「あ、あ、あんたたち……! 助けてくれてありがとうだけど、危ないじゃない! 何してんのよ!」

「勿論、学校の周辺を見張ってんだよ。まさか本当に現れるとはな」

 呼吸を整えながら、正樹が云う。

「あ、危ないよ……」

「大丈夫だ。学年皆で見張ってるからな!」

 そう云って、貴志は拳を握ってみせた。一体、何が大丈夫なのか。だがそれでも、確かに助けられた事は事実だ。好美と凛は互いに寄り添いながら、その場にへたり込んだ。

「こ、恐かった……」

 さすがの凛も、目に涙を浮かべている。好美も同様だ。

「実はさ、俺達少し前からずっと見張りをやってんだぜ」

 どこか誇らしげに、広助が云う。

「え、そうなの?」

「ほら、広助のお父さんって、警察官だろ。だから、不審者が居るらしいって話は、実は前から聞いてたんだよ」

 正樹の言葉に、貴志も胸を張った。

「俺が学年中の男子に声を掛けたんだぜ。……まあ、来なかった奴も居るけど」

「それは仕方ねえよ。ホントは俺だって恐いんだし」

 正樹が云う。その割には勇敢に不審者に向かっていったのだから、大したものかもしれない。

 好美と凛は顔を見合わせた。貴志はカッコつけたように肩を竦める。

「ほら、良いからお前らは早く帰れ。本当に、洒落にならなくなってきたからな」

「う、うん……ありがとう、皆……」

 二人は三人にお礼と別れを告げて、早足で家に向かう。

「男子って……いつもクラスで莫迦やってるのに……」

 凛の言葉に、好美も頷いた。

「うん……カッコ良かったね」

「そうだね。あいつらが見張っててくれるなら、安心かな……なんて、それはさすがに無いか」

 凛が笑う。頬が赤く染まって見えるのは、気のせいだろうか。

 しかし、凛は急に足を止めた。

「どうしたの……?」

「あいつら、ちょっと前から町を見張ってた、って云ってたよね」

「うん……」

 好美も、ある事に気がついた。

「もしかして、あんたが感じてたのって、あいつらだったんじゃない? あの三人だったら、学校内で視線を感じてもまあ不思議はないし」

「ううん……まあ、そうかなあ」

 好美は、頷きかねていた。例えば彼らが、夜の自室まで見張れるだろうか。

「まあでも、不審者が居たのは事実だし……とにかく、今日はもう帰ろう」

 凛に促され、好美はトボトボと歩き出す。色色な事があって、好美はすっかり混乱していた。


   *


(今も、感じる。一体、誰なの……?)

 その日の夕方。好美はベッドの上で膝を抱えていた。

(感じない。今は、見られて……)

 好美は、跳ねるように顔を上げた。

(……感じる! 見られている!)

 好美は辺りを見回した。自分の部屋に、自分以外の誰もいる訳がない。

(嘘……どうして? 今まで誰の視線も感じなかったのに……)

 好美は、神経を集中する。

(やっぱりそうだ、見られている……)

 好美は、恐る恐るカーテンを少しだけ開ける。隙間から外を眺めるが、人影は無い。

(でも、見られている……)

 堪らず、好美は部屋から飛び出した。階段を降りて、リビングへ向かう。

 両親は共働きで、まだ帰ってきていない。今この家には、好美が一人だけのはず。

(いや……感じる。見られてる……)

 しかし、誰かがいるようには思えなかった。

(き、気にしすぎなんだ……きっと、気にしすぎ……)

 好美は、あちこちの扉を開いてみた。恐かったが、じっとしている事もできなかった。しかし、どこにも誰も居ない。

 風呂場の扉を開ける。誰も居ない。

(……お風呂に入ろうか。気持ちが落ち着くかも……)

 好美は風呂場の窓を開けて、外を見てみる。誰も居ない。

(……でも、見られてる)

 好美は風呂場を飛び出し、また自室へと駆け上がった。

 扉を閉め、窓も閉め、鍵も閉め、カーテンもしっかりと閉めた。

 そして、布団を被って丸くなる。

 それでも。

(……見られてる。見られてる。見られてる)

 好美は、泣き出しそうだった。

(今、この布団の外に、誰か居るの?)

 思い切って、好美は布団を跳ね除けた。だが、誰も居ない。

 しかし。

(見られてる、見られてる、さっきからずっと見られてる!)

 両親が帰ってくるまで、まだまだ時間がある。

 外は夕暮れになっていたが、まだ暗いと云う程ではない。

 居ても立っても居られず、好美は部屋を飛び出した。

 階段を駆け下り、玄関へ。

 靴をしっかりと履いて、扉を開ける。

 すぐに鍵を掛けて、必死に走る。

(見られてる、今もずっと、見られてる)

 好美は、教会に向かって走っていく。

 途中で、町内の人達とすれ違う。

(違う。あの人達じゃない。あの人達は、私を見てなんか居ない。でも、見られてる、見られてる)

 必死に走り抜け、教会が目の前に見えてきた。


   *


 好美は教会の扉に飛びつき、勢い良く開く。

「あ、あら好美さん……?」

 突然の事に、シスターが驚いた顔をした。

「どうかされたのですか? 顔色が……」

「し、シスターさん……」

 好美の目から、涙が溢れた。泣きじゃくりながら、好美はシスターに抱きつく。

「何か恐い事があったのですね。さあ、ここにいれば安全ですよ。神が見守ってくれていますからね」

 好美を優しく抱き締め、シスターが云う。好美にとっては、神よりも、シスターの方がありがたかった。

 騒ぎを聞きつけたか、神父がやってくる。

「好美さん、どうかされたのですか」

「神父様……どうか、お助けください」

「大丈夫ですよ。さあ、どうぞ中へ。ああ、すっかり息が上がって……お疲れになったでしょう」

 神父に好美を任せ、シスターはどこかへ行った。神父は礼拝堂の奥、神像の前へ好美を連れて行く。

「さあ、まずは心を落ち着けましょう。お祈りをしますか?」

 好美は、目の前の神像を見上げた。

 実在するか判らない、神。

 それでも信じると決めた、神。

(神様……)

 好美は、手を組んで、お祈りをした。

(神様……それとも、貴方なのですか?)

 神父は言葉もなく、傍に付き添ってくれている。

 扉の開く音が聞こえ、シスターがやってきた。どうやら温かいお茶を淹れてくれたらしい。

 好美が顔を上げると、シスターがそれを差し出してくれる。

「さあ、心が落ち着きますよ」

 好美はカップを両手で包み込んだ。

 温かい。良い香りがする。

 一口。

 気持ちが安らぐ。

(……でも、見られてる)

 大きく、溜息を吐く。

(見られてる。私の、一挙一動を、全て見られてる)

 再び、涙が溢れてきた。

「好美さん、何があったのですか? 噂になっている、例の不審者ですか?」

「……いいえ」

 好美は、自分でも判らないままに、首を横に振った。

「多分、違うのです」

「何でもお話になってください。我我は、貴方の味方です」

「はい……」

 好美は乱暴に涙を拭い、神父を見詰めた。

「神父様。神は、私達を常に見守っていてくださるのでしょうか」

「……貴方が、そう信じるのであれば」

「いいえ、信仰の話ではないのです。事実の話なのです」

「ふむ、事実ですか……」

 神父は、真面目に話を聞いてくれる。

「私達から神を認識できずとも、上層に居る神が下層の私達を認識する事は、きっとできますよね」

「それは……そうかもしれませんな。勿論、神が実在するのが前提ですが」

「神は……人間を、恐がらせたりするでしょうか」

「……好美さん、一体、何があったのですか?」

 神父もシスターも、真剣な眼差しで見詰めてくれる。

「実は、最近……誰かにずっと見られている気がするのです。えっと、巧く云えないんですけど」

「大丈夫、こちらで汲み取りますから。思うようにお話になってください。さあ、椅子にお坐りになって」

 促されるまま、好美は長椅子に腰を下ろした。神父は目の前に屈み込み、シスターは隣に坐って、頭を撫でてくれる。

 好美は、まだ見られていると感じたが、不安はどこかへ消えていた。

「えっと……少し前から、たまに、誰かに見られていると感じるようになったんです。ずっとではなくて、たまに、なんですけど」

「ふむ……感じたのは、どのような時でしたか」

「それは……色色です。夜、自分の部屋なのに感じたりとか……学校の屋上とか、帰り道とか」

「うーん……余り法則があるようでもなさそうですね」

「そ、それに……」

 好美が涙ぐむと、シスターは一層寄り添ってくれた。

「今日は……今……さっきからずっと、ずっと見られているんです」

「ずっと、ですか」

「ずっとです。友達と別れて、家に帰って……部屋に居て……その時は、感じてなかったんです。見られてるかなって思っても、見られてる感じはしなかったんです。でも、ある時急に感じ出して。それからは、ずっと、ずっとです」

「成程……まるで人間業ではないようですな」

「はい……」

 神父は腕を組んだ。

「それで、もしや神なのではないか、と」

「はい……良く神父様もシスターさんも、神はいつでも見守ってくれているから、と」

「ふうむ……」

 神父とシスターは、顔を見合わせた。

「我我は、そう信じています。しかしそれは、もっと慈愛に満ちた……ああしかし、神に見られていると思うと悪い事ができない、と云うような事もあります」

 少し考えるようにしてから、神父は好美にゆっくりと訊ねた。

「好美さん、飽く迄参考としてお訊ねするだけですが、何か疚しい事をなさいましたか? 貴方は熱心な教徒ですから、もしかしたら罪悪感や自責の念が、神……或いは誰かに見張られていると云う気持ちを生んでいるのかもしれないと」

 罪悪感。成程、確かにそう云う事もあるのかもしれない。

「でも、私、何も憶えはありません」

「そうでしょうとも。貴方が何かをするような人でない事は、私達は良く知っておりますよ」

 シスターが、優しく抱きしめてくれる。

「気の持ちようというのはその通りでして。実際に何もしておらずとも、何かをしてしまったのではないかと云う不安が、貴方を苛んでいる場合もあります。心当たりは、本当にありませんか?」

「……ない、と思います」

「ふむ……」

 神父は少し唸り、口を開いた。

「貴方は熱心な教徒ですから、もしかしたら神や上層を認識する事もできるのかもしれない、とも思います。しかし、神が、と云う事は……。貴方に疚しい事が無いと云うなら――いえ、勿論そうなのでしょう――ですから、恐らく貴方を神が見張る、と云うような事はないでしょう。神が罪人に容赦が無いとしても、貴方には関係の無い事のはずです」

「でも、ずっとと云うのは解せませんわね。人間業ではないような……好美さん、今も感じるのですか?」

「感じます。ずっと、ずっと見られています」

「それは勿論、我我の貴方への視線ではないのですね」

「はい……他の、誰かの……」

「ふうむ……」

 神父は、真剣な眼差しで好美を見据える。

「その視線は、貴方を咎めるようなものですか?」

「えっと……」

 そんな事は、考えた事がなかった。ただひたすらに、見られている事が不安だっただけ……。

「いえ、咎められているようでは……」

「ではやはり、貴方側に何か落ち度があっての事ではないのでしょう」

 シスターが優しく撫でる。

「では……そうですね、何か悪意のようなものを感じますか? 例えば、嫉妬であるとか」

 嫉妬。どうなのだろう。

「いえ……そう云う感じはしません」

「成程。では、そうですね……何か、興味を持たれているような感じがしますか?」

 じっと、好美は神経を研ぎ澄ませる。

「判らない、です……。でも、そう云う感じも、少しするかも……」

「ううむ……何か、身の危険や、悪質なものを感じますか? それこそ、ストーカーに追われているような」

 好美は、再度集中する。

「……いえ、身の危険とかは感じない、ですね。悪質……とも……」

「ふーむ。となると」

 神父も、好美の頭に優しく手を置いた。

「貴方はとても熱心な教徒だ。神の存在を認識できてもおかしくないだろうと思います」

「神の、存在……?」

「実はですね、好美さん。神は、実在するのですよ」

「え……」

 好美は驚いて、顔を上げた。

「私は、神の存在を認識できます」

「……私には、まだできませんが」

 恥じるように、シスターは顔を伏せた。

「宜しいですか。先日お話したのは、信仰についてのお話でした。しかし、それとは別に、神は実際に存在するのです。何しろこの世界は、神によって作られ、紡がれ、成立しているのです。なればこその、神なのですよ」

「神……」

「それは勿論、上層が存在する、と云う事でもあります。神は我我の世界の外、上の世界に、確かに存在するのです」

「上の、世界……」

「そして、この世界に複数の人間がいるように、神の世界にも、複数の人が居るのでしょう」

「複数の人……」

「もしかしたらその人達も、ある世界の神となりうるかもしれませんね。しかしまあ、少くとも、我我のこの世界の神は、たった一人ですが」

「複数の、神……?」

 一体、何の話が始まるのか。好美は言葉も無く、神父を見詰めた。

「この世界は、神に依って作られた世界です。それはまるで、小説の世界」

「小説の世界……」

「飽く迄も、喩え、ですけれどね。いえ、もしかしたら実際に小説の世界なのかもしれませんが」

 この世界は、小説の、世界。

「小説と云えば、作者の他につきものなのは……読者と云う存在ですね」

「読者……?」

「彼らは、小説の世界に対して、ほぼ何もできません。唯一できるのは、観測する事。つまり、お話を読み進める事、ですな。それは大抵、主人公の動向や出来事に興味を持って為されるでしょう」

 興味を持って。

「貴方はたまに、見られていなかったようですな。それはきっと……小説で云えば、場面が飛んだからなのでしょう。まさか主人公の一生を描く訳にもいかんでしょうから」

 場面が、飛んだから。

「怯える事はありませんよ。彼らは敵ではありません。まあ見られ続けて不安になるかもしれませんが、決して悪質なものではありません。普通は上層なんて認識できないから問題にもなりませんが……貴方はとかく、熱心な教徒ですからな。何か上層を認識できるような、特殊な能力でも付与されたのかもしれませんな。……まあ、そんな突拍子もない小説が面白いかは判りませんが。小説のセンスが無くても、神は神ですからな」

 そう云って、神父は悪戯っぽく笑った。

 この世界が小説の世界だとしたら。神の他に、読者が居て、彼らが成り行きを見守っているのだとしたら……。

 思わず息を呑み、好美は貴方の方へ顔を向けた。

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下層観測 哲学サークルDreal @dreal

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