死にたくないので婚約破棄したのですが、直後に辺境の軍人に嫁がされてしまいました 〜剣王と転生令嬢〜

I.Y

第1話 待ち望んだ婚約破棄

 空一面に、濃紺のうこん絨毯じゅうたんが敷かれる。煌々こうこうとした輝きを放つ星屑ほしくずは見られない。代わりに、巨大な満月が浮かぶ。極限まで洗練された月光は、迷える子羊たちを導く。

 多くの傘下国を従える世界有数の大国、レイティーン帝国。広大な海にも茫々ぼうぼうとした森にも面する資源豊かな国だ。そんな帝国の皇都の心臓部分、帝国の要を担う皇城、空漠くうばくとした間で行われていたのは、凱旋がいせんを祝う式典。安全保障の契約を結ぶ傘下国へと攻めてきた他国軍を、僅か三日という短い期間で制圧することに成功したのだ。間の花道を挟み、一糸乱れぬ列で並ぶのは、史上最短の終戦記録を叩き出した此度の戦争にて英雄として名を刻む軍人たち。レイティーン帝国軍の本部所属の精鋭せいえいたちだ。

 唐紅からくれないの絨毯が敷き詰められた花道の奥、九段の階段の上には、洋紅色ようこうしょくの布地に金色の装飾が施された玉座が鎮座ちんざしている。本日、その玉座に座ることが許されたただひとりの青年が、堂々と足を組んでいた。

 青年の名は、アデル・エディ・ロクス・レイティーン。レイティーン帝国第二皇子。軍階級において最高級の階級、元帥げんすいの称号を皇帝よりたまわった逸材いつざいだ。僅か20歳にして、レイティーン帝国軍の総司令官でもある。額の中央で分かれたゴールデンブロンドの髪は、絹糸きぬいとのようにつやがかる。整えられた眉毛に、二重瞼ふたえまぶたが美しい。金糸が広がる下、レイティーン皇族直系としての証であるウォーターブルーの双眸が光り輝く。厚めの唇はうるみを含み、への字に曲げられた。青年は、黒生地に金色の繊細せんさい刺繍ししゅうが施された軍服をまとっている。玉座の傍らには、光沢に溢れた黒鞘くろさやに納められた名剣が。

 人智じんちを超えた美しさを誇るアデルは、お綺麗な顔には似合わない人殺しの才と軍の頂きに君臨くんりんする圧倒的に多いカリスマを持って生まれてきた皇子だ。此度の戦争にて、指揮官を務め上げた。今宵こよいの月にも負けない鋭い眼光が貫く。



「ラダベル・ラグナ・デ・ティオーレ。お前との婚約を破棄はきする」



 桜色の唇から紡がれた死刑宣告さながらの低い声色。アデルが放つ眼光の先にいるのは、九段の階段の下、花道の中央でたたずむひとりの女性。

 彼女の名は、ラダベル・ラグナ・デ・ティオーレ。レイティーン帝国ティオーレ公爵家の令嬢だ。腰下までしたたり落ちるのは、波打った濡羽色ぬればいろの髪。白すぎず、黒すぎない健康的な肌色。その上に完璧な配置で置かれた顔の部位。長く黒い睫毛が目下に影を作り、見る者全てをき込むトパーズ色の瞳があらわになる。まさしく黄金の宝石である。左目元には、存在感のあるほくろが鎮座し、ラダベルの妖艶ようえんさと清廉せいれんさを引き立てていた。小ぶりな鼻に、赤色の唇。最高級の美を形にして再現したかのような完璧な美人だ。女性の象徴である胸は比較的小さいながらも、パーフェクトなプロポーションを誇る彼女は、繊細なレースの中に金糸が編み込まれた柄が美しい漆黒のドレスを纏っていた。

 ラダベルは、今にも緩んでしまいそうな表情筋を駆使くしする。


(お決まりの台詞せりふね)


「仕方なくお前と婚約したが、今思えば愚策ぐさくだった。根っからの悪女であるお前の罪はこれ以上庇いきれない。まぁ、僕もほかにいい女性ができたし、そろそろ潮時しおどきだろう?」


 ラダベルにちをかけるアデル。花道の両脇で見守る軍人たちは、緊迫きんぱくしていた。ただひとり、ラダベルだけが無表情を浮かべている。


「だがまぁ、お前がどうしてもと言うなら……結婚はしてやろうと思う。僕は慈悲じひ深いからな」


 アデルは大事なところでわずかにどもってしまった羞恥しゅうちに耐えきれず、頬を赤らめた。先程までの絶対的王者の風格はどこへやら。10歳児ほどの生意気さが可愛らしく見える。アデルがもう一度咳払いをした時、ラダベルは唇を三日月形に歪めた。


(この時を、待っていたの)


 ラダベルは表情筋を機能させることを諦め、開き直ったかのように恍惚こうこつとした面様おもようになる。あまりにも最高の展開に、そして待ち望んだ未来に、興奮を抑えきれなかったのだ。


「分かりました」


 喜悦きえつが声色ににじみ出る。ラダベルの返答を聞いて、アデルの美貌びぼうがほんの少し、晴れ渡る。ウォーターブルーの瞳の中心に、穏やかな光が宿った。



「婚約破棄いたしましょう、第二皇子殿下」



 名高い悪女とは到底思えない、純粋無垢じゅんすいむく微笑ほほえみ。アデルに恋をして、執着しゅうちゃくして、無理におのれふところに収めようとした性悪しょうわるなラダベルは、もうどこにもいなかった――。

 アデルは瞠目どうもくする。一部始終を見守っていた軍人たちも、冷や汗を流し焦る。


「これまで、私のわがままで殿下を振り回してしまい、申し訳ございません。心より謝罪をいたします。この罪はどこかで必ずやつぐなわせていただきます」


(償わないけど)


 ラダベルは、完璧な作法で一礼をする。禍々まがまがしくも、美しい黒髪が重力に従ってさらりと流れる。


「失礼いたします」


 堂々たる風格。ラダベルはきびすを返し、二度と振り返ることなく、扉に向かって歩を進める。巨大な扉が開かれたと同時に、新たな未来の始まりを告げる鐘が鳴らされた。


(さぁ、本当の物語の幕開けよ)

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