第10話
「はぁ?!そんな、急に言われても困るよ!出ている場合じゃない?そんなこと言ってる場合じゃないだろう。スーツがない?僕の余ってるのがあるから貸すって!」
【惣菜の金剛】の閉店準備が終わり、余りもので夕飯を済まし、食器類を洗っている時に廊下でそんな兄さんの声が聞こえてきた。
ため息をつきながらリビングに戻ってきた兄さんに、「多聞兄さん?」と訊くと、答えることすら億劫なのか、壊れた機械のように歪に頷いた。
「明日が法要だっていうのに、今ちょっと人間関係がごたごたしていているから出なくてもいいか?って。父親の法要ぐらいちゃんと出ろって言ったら渋々って感じだったけど」
良知兄さんはごそごそと冷蔵庫から何かを取り出すと、どんっと勢いよくテーブルに叩きつけた。500ミリ缶ビールだ。
「え?兄さん、明日法要だけど大丈夫?しかも、そんなにお酒に強くないのに500ミリって……250ミリにしといた方がいいんじゃないの?」
「いいんだよ、俺だって、たまにはがつんと飲みたい時もあるんだよ」
飲む前から呂律が若干まわっていない兄さんに心配しつつ、俺はまぁ、しょうがないかと息を吐いた。
事の発端は今日のお昼時の忙しい時間帯だった。今日は土曜日だったので、駒さんは不在で二人でフル回転で店を動かしていた。土曜は大体の会社も休みで、平日と比べるとお昼の稼働率も低いはずだったのだが、近所でもう桜の季節でもないはずだがお花見と称した中小企業の飲み会に必要なお弁当を30ほど事前に注文を受けていた。それをまず完成するために動いていたのだが、運悪く、同じ公園でピクニックをするというママさん会の団体と時間帯がかぶってしまった。そして、どちらも約束の時間帯に数個足りなかった。
ママさんたちからはしょうがないわよ、頑張ってねという労いの言葉だけで済んだが、中小企業の管理職からは数日前から注文しているんだからしっかりと仕事をしてもらわないと困る。自分たちの仕事もクライアントの提示した納期までに出来上がらないと信用問題に関わる、それと同じことだと釘を刺された。
兄さんは俺を下がらせて、ひたすらに深く頭を下げて謝罪を繰り返した。
「……タイパが悪いって、こういうことを言うのかな」
中小企業の人が去り、兄さんは小さくそう呟いた。
「タイパ?タイムパフォーマンスのこと?」
「いや、単に僕の作業効率が悪いってだけなんだと思う。本当にそうだよね、注文していたのものがちゃんと時間通りに渡せないって、お店として最悪だよな。駒さんがいなくて人員が足りなくて出来ませんでしたっていうのは、いいわけにしかならないし。これを教訓にしてきちんとまわせるようにしないと……広見にも、カッコ悪いところを見せちゃったな」
ということもあり、その後は笑顔で料理提供をしていたが、兄さんはずっと気にしていたのだと思う。
自分がうまく厨房をまわせないのが悪い、自分がうまく俺に指示を出せないのが悪い、自分が自分が自分が―――
父さんが死んだのも自分が悪い、とか多分今回のミスとは関係のない理由まで持ち出してきて自責の念に駆られているのだろう。でも、俺が兄さんが悪いんじゃないよと声を掛けたとしても何の慰みにも癒しにもならないので、敢えてそういう言葉はかけなかった。
「うん、じゃあ、ほどほどにしておきなよ。あと、俺はもう風呂に入って寝ちゃうけど、兄さんも早く寝てよ」
「何だよ広見、母さんよりずっと母さんらしいこと言うなぁ」
ビール片手に呟く兄さんの言葉は、どこか寂し気に響いていた。
次の日、七時前には目が覚めたので俺はベッドから下りて厚手のカーテンを開いた。
休日の朝の空には似つかわしくない清々しくない空模様だった。
スマホで今日の天気を調べてみると、午前中には雨が降ってくるようだった。法要に持っていく位牌や遺影は風呂敷で包んでいくつもりだけど、大きめのビニール袋にも入れて持って行った方がいいかもしれない。
一階に降りると、リビングのテーブルには空の缶がそのままになっていた。テーブルに兄さんが突っ伏して寝ていなくて一先ず安心した。蛇口をひねり、まずはコップ一杯の水を飲む。そのままリビングの奥の和室に移動すると、父の位牌と遺影が目に飛び込んできた。こんなに早く亡くなると周りの誰も思っていなかったので、遺影に使用した写真の父はまだ頭部に毛髪が大分残っている頃のものだった。十年以上前のじゃないだろうか。だけど、形式ばったしっかりとした写真ではなかったので、厨房で調理をしている普段の父が写っている。視線は合っていないが、父らしくていいんじゃないかと俺は思う。
冷蔵庫にベーコンと卵が余っていたので、たまには朝食らしい朝食を作ってみることにした。いつもは兄が仕事の準備と並行して朝御飯を用意してくれているので、たまには俺が作ろう。昨夜の滅多にしない深酒が効いているに違いない。
じゅわー
俺も兄さんも半熟よりしっかり焼いたベーコンエッグが好きなので、長めに火を通す。俺はしょうゆで兄さんはケチャップをかける。ふと時計を見ると八時を過ぎていた。そろそろ兄さんも起きてこないと間に合わない。
急いでベーコンエッグを皿によそうと、俺は二階への階段を駆け上った。
「兄さん、起きてる?八時過ぎてるからそろそろ用意しないと間に合わな―――」
ドアの向こうから苦しそうなうめき声が聞こえてくる。俺は勢いよくドアを開けると、良知兄さんが半身だけベッドからずり落ちていた。
「ひ、びろびぃいい……」
「ちょっ……どうしたんだよ、どこか具合悪い―――」
「頭ががんがんする……」
「―――それって」
「ごめん、多分、二日酔い」
「もーこんな大事な法要の日に!だから昨夜弱いんだから飲むなって―――」
「おーい、来たぞー」
階下からもう一人の兄の声がした。俺は下に聞こえるように叫んだ。
「多聞兄さん!ちょっと二階に来て手伝って!」
「へぇー珍しいじゃん。兄貴が酒を飲むなんて。しかも500の。何か嫌なことでもあった?」
頬杖をつきながら多聞兄さんはもしゃもしゃとベーコンエッグを口に放り込みながらそう口にした。具合が悪くて和室で横になっている良知兄さんの分のものだが、食べられなくて残すのも勿体ないので食べてもらっている。
「んーちょっと昨日注文に間に合わなかったんだよね。それでちょっと、色々とお客さんに言われちゃって……」
「それで、やけ酒かよ?はぁー今年28にもなる大人が後先考えずにやることじゃないね。それに、お客から色々と文句言われるなんて、親父だってよくあったことじゃん。ぺこぺこずーっと頭下げ続けてさ。あれを見てまじでこの店で一生を終えるのは心底御免だって思ったね」
多聞兄さんは冷蔵庫を開けて何やら物色している。
「兄さん、まだビール余ってるけど、朝から飲まないでよ」
「分かってるって―の。俺は兄貴と違ってちゃんと分別つく大人ですから」
多聞兄さんは冷蔵庫から牛乳とヨーグルトを取り出した。
「一人だとさ、余らせるから牛乳とか買わないんだよ。ヨーグルトもよく賞味期限過ぎて腐らせちまうし。でも、カルシウム摂らないとイライラしちまうし」
「最近イライラしてるの?兄さん、この家にいたって母さんみたいに大体イライラしてたじゃん。カルシウムの問題じゃないんじゃない?」
多聞兄さんは渋面をつくり、ちっと舌打ちした。
「……広見、おまえ言うようになったねぇ。まだまだ高校生で母さんに大学までの敷かれたレールを辿る人生を用意されている人は、言うことが違うねぇ」
「……法要の前に、喧嘩はよしとこうよ」
よろよろと覚束ない足取りで良知兄さんは顔を出した。クリーニングの袋が掛ったままのスーツを手にしている。
「多聞、それ、まだ僕がそんなに太っていない時に着てた奴。ちょっと袖とか裾が足りないかもしれないけど、着れると思う」
「……痩せてた時って、20代前半の時とか?何でスーツなんか―――」
「父さんたちに黙って、就活とかしてたから。その時の名残」
良知兄さんは何だか苦しそうに小さく呟いた。
多聞兄さんが遺骨、俺が遺影、良知兄さんは負担の少ない位牌を持って出発した。
「兄さん大丈夫?会場まで十五分くらい歩くけど」
「うん、さっきよりは少しましになったかな。インスタントのしじみ汁が効いたかも」
「なぁ、お布施とか、あと供花とかはどうすんの?」
「そこは母さんが用意してくれてるはず」
俺と兄さんたちはそこまで話すとあとは無言でせっせと歩いた。レインボー商店街を抜けようとした時、離れた場所から名前を呼ぶ声がした。
「おーい、金剛兄弟ー」
勢いよく近づいてきたと思うと、ききいっと大きな音を立てて自転車が止まった。
「玲」
「今からおじさんの法要?そうだ、父ちゃんからこれ預かってたんだった」
背負っていた鞄から何かを取り出すと、手渡してきた。
「これって……」
「香典。本当はもう少し前に渡すはずだったんだけど、学校と家業で忙しくて当日になっちゃった。悪いね」
「玲ちゃん、わざわざ有難う。おじさんにもお礼言っといて」
「うん」
「玲、おまえ見ない間にますます男らしくなっちゃって。何かスポーツやってんの?」
「ソフトボール。中学から始めたら楽しくてさ。高校は数人数で弱小だったんだけど、人を集めて練習しまくったら全国高等学校女子選抜大会に出場出来たんだ。一回戦負けだったけど。これからまた練習」
「へぇー逞しいなぁ。広見なんか科学部辞めちゃったしなぁ」
「え?部活、辞めたの?」
「今はその話はいいよ。急ごう、間に合わないと母さんにどやされるよ」
これ以上玲に色々と詮索されるのが嫌だったので、逃げるようにその場を離れた。
「たもっちゃん、その恰好、場末のホストみたいでいかしてるよー」
離れた先で、玲が大声で叫んだ。多聞兄さんは「場末じゃなくて歌舞伎町な」と明るく返している。
昔から、基本的にテンションが一緒の多聞兄さんと玲は仲が良かった。俺たち三人と玲が遊ぶこともよくあったが、七歳も離れていたのに、大体二人が同じことをして双方の親に怒られたりしていた。俺は玲と同い年で幼馴染ではあるが、性格が真逆すぎて他のクラスメイトに関係性を不思議がられたりすることもよくあった。
だけど真逆だからこそ、色々と心に抱える悩みなんかをさらっと話せるところがあった。それを玲はけして揶揄したりしないことを分かっていたからだ。明るい玲だからこそ、時には深刻な悩みも気楽に流してくれる対応が嬉しかった。
それに、多分、玲は俺が部活を辞めた理由についても薄々勘付いているだろう。
でも、今はそのことに触れて話を広げていく余裕はなかった。時間が空いた時にでも、玲に連絡してあらためて話を聞いてもらおうと思う。
会場に到着すると、入り口に不機嫌そうに仁王立ちしている母がいた。
「あんたたち、時間ギリギリじゃないの。もうお坊さん、到着してるわよ」
「母さん、ごめん、僕がちょっと具合悪くなって二人を待たせちゃっただけだから」
「お経の時に居眠りしてていいから、ちゃんと法要には参加して頂戴よ」
そんな非常識なことを言う母に苦笑しながらも、俺たちは会場に入ろうとした。
「―――金剛さん」
金剛家の四人が一斉に後ろを振り返った。
そこには黒の喪服に身を包んだ女性が、神妙な面持ちで立ちすくんでいた。
「……え?駒さん?」
良知兄さんの戸惑いの声に反応することなく、駒さんは一直線に母の方に向かっていった。
母は無表情で駒さんを見つめている。
「金剛眞純さん、ですよね?ご無沙汰しております。矢代澄夫の娘の矢代駒です。今は手塚の姓を名乗っています」
「……矢代、澄夫。ああ」
母はすっと目を細め、柔らかな笑みを浮かべた。「駒ちゃん、大きくなったわね」と一言呟いた。
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