19 アルタシルヴァ
翌朝、いつもより早くカミーユは目覚めた。
というより、あまり寝付けなかったと言う方が正しい。
フィンと約束した時刻に、表のベルが鳴った。
今日のフィンは、足元にはがっしりとしたブーツで、腰には剣を佩いた探索者のような恰好をしている。
淡い金髪に緑の目。すっきりと整った貴族的な顔立ちだが、こんな少し崩した服装も男らしさが増してなかなかいいと思う。
カミーユも今日はプリムローズのお下がりで、上はチュニックで、下はピタリとフィットするパンツ。腰に小さなナイフと鞄を付けている。足元は膝あたりまでカバーできるロングブーツを、これは買った。ケープだけは調香術師のものだ。
「おはようございます!」
「おはよう。……ん、その恰好なら問題ないな」
フィンはカミーユを上から下までチェックして、うなずいた。
何を着ていいかわからない、服もそんなに持っていないと言ったカミーユを、プリムローズのところに連れていったのはフィンだ。
「探索者ギルドで待ち合わせだ」
ランク1のエリアで、ランク1の素材採集とはいえ、カミーユは初心者だ。
そのため、街の子供たちが最初に森に行くときのように、探索者が付いてくれることになっている。
「よお」
「おはようっす」
探索者ギルドで待っていたのはアルバンとジャックだ。
「おはようございます。えっ! ジャックさん、もう大丈夫なんですか?」
「大丈夫っすよ。昨日起きてピンピンしてたっす」
「なんかすみません。またお二人にお手間を取らせて……」
アルバンが手をヒラヒラと振った。
「問題ねえよ。もともとフィンが森に入る時は、俺がいつもバックアップなんだよ」
フィンも頷いた。
「今日は探索者ギルドの新人支援ということになってるから、まあ、私より君のサポートだ」
「わかりました」
「よし。それじゃあ装備確認からだが、見たところは良さそうだな」
アルバンがささっとチェックしていく。
「水は、カミーユは属性持ちだし、今日はいいとしよう。だが、傷薬は、ああ、フィンが持っているか。森に行くときは必ずそれぞれが、水、食料、薬、特に傷薬と魔力回復薬は十分に持っていたほうがいい。水も魔術道具があるほうがいい」
「ふふふん。大丈夫です」
カミーユが得意げに腰の鞄を開けた。
「噛みつき豆を持ってきましたっ! 食べ物と魔力回復用です」
必要とされるものも、昨日プリムローズに聞いていたのだ。
「噛みつき豆……」
「噛みつき豆……」
アルバンとジャックがポカンとしている。
「カミーユ、それにはリチェスビーナと言う名前がある。栄養価に富んだというか、優れた豆っていう意味だな」
「噛みつき豆じゃなかったんですか。昨日教えてくださいよ……」
噛みつき豆と優れた豆じゃあ、だいぶイメージが違ってしまう。
「すまん」
「まあ、いい。カミーユ ナイフは使えないな?」
「料理と畑で使うぐらいです」
「じゃあ、かえって触るのは危ないな。まあ、今日は必要ないと思うが。じゃあ、行くか」
アルタシルヴァの森はとにかく広く、深いという。
ランク1はその辺縁部を指し、今日は森に入るというより、ぐるりと回るという方が近いらしい。
「ローザゲラニウムは、こっちっす」
ジャックが先頭に立ち、職人街を抜けるとすぐ海とは反対側に歩き始めた。
その次をフィン、カミーユ、アルバンの順で続く。
森の側で、カミーユは思わず立ち止まった。
「え、なんか、大きい」
森が広いというのではなく、木々の背が高い。
葉が少ないので暗くは感じないが、迫ってくるような力を感じる。
「そうだな。奥に行けば、横にも縦にももっと大きなのがあるぜ」
ジャックは森に踏み込むと、そのまま縁を回るように進んだ。
しばらく行くと、木々の途切れた場所へ出た。
「うわっ、すごい! こんな立派なローザゲラニウムは初めてですよ」
森と野原の間、ずっと先の方まで、もこもことしたローザゲラニウムが帯のように続いていた。
それもカミーユの膝に届くぐらい、勢いよく繁っている。
花はさすがにないが、葉はしっかりとしているようだ。今日必要なのは葉なので、目的は達成できる。
切れ込みの入った、もさっと見える葉を手に取り、指の間でこする。
その名の通り、ローザに似た、重たく甘いフローラルな香りが立ち上がった。リモーナのようなすっきりとした香りも強い。
「いいですね。芳香成分のシトロネロールがしっかり香ります。ゲラニオールももちろん。これなら虫除けにぴったりです。あとはなんの成分があって、外のものより効果がより強いのか……。
カミーユがさらに進もうとすれば、アルバンが手で遮った。
「ちょっと待ってろよ。安全確認からだ、ジャック」
「安全確認?」
アルバンとジャックが、ローザゲラニウムの帯の両端を歩いて奥へと進んでいく。
そこにピョンッと飛び出したものがいた。
「出たっす!」
「何あれーっ!」
揺れる長い耳に、うす茶の色合い。大きく飛び跳ねる様でたぶん何かはわかっているが、カミーユの知っているものとサイズが違う。
目を丸くしたカミーユに、フィンがさらりと答えた。
「ラビーナだ」
「……大きすぎますよね?」
「あれはシルヴァ・ラビーナ。魔獣だからな」
「魔獣……。魔力がある?」
「ラビーナは無属性で、後ろ足を強化している。ランク1魔獣だからさほど危険はないが、ぶつかられると痛い。蹴りも効く。ああ、爪も要注意だ」
カミーユは眉間に皴を寄せた。
「普通それは、危険があるって言うと思うんですけど」
「魔獣の中ではランク1だが、油断は禁物ということだ。魔獣は襲ってくることが多い」
「脚力があるなら逃げればいいのに……」
「まあ、ラビーナのほうから近寄ってくるなら、探索者としてはありがたい。ランク1の魔獣としては、高く売れる。毛皮も、肉も。ローザゲラニウムの葉が好物のせいか、肉の香りがいい」
「へえ……」
アルバンとジャックが、ラビーナの突進を避け、飛び跳ねる。とうとう二人がラビーナを追い詰めた。
「仕留めましたね」
「よし。あの二人はこのまま端まで歩いて確認するだろうから、私たちはこちら側から採取だ」
「はい」
鞄から大きな麻袋を取り出し、ローザゲラニウムの帯のあちらとこちらを歩きながら、一枚一枚葉を摘んでいく。
パキパキと千切るたびに、指先はどんどん甘く香る。
好みの香りだ。香料を採る時に、化粧水やクリームを作ってもいいかもしれない。
「ここはいい採集地ですね。家から近くて、品質のよい原料が採れる。ラビーナだけ困りますけど」
「いや、ここに出る魔獣はあのラビーナだけだ。少し慣れれば、子供でも対処しているぞ?」
カミーユは首を振った。
「ダメだと思います。私、どんくさいらしいのです」
「どんくさい……」
あまりの言い様にフィンは呆然とするが、カミーユは大まじめだ。
「ローザ畑を歩き回ったので、体力はあるんですよ。でも、普通のラビーナが胸に飛び込んで来ても捕まえられないし、罠を仕掛ければ鳥が逃げてから籠罠を落とすし、狩りでは役立たずで。だから、テオドール先生係になりました。それが、たぶん九つの時です。それから狩りはしたことがなくて……」
「そうか……」
フィンにはなんと言っていいのかわからなかった。
「……それなら、探索者に護衛を頼むか、代わりに採集してもらうか、だな」
カミーユはコクリと頷いた。
しばらく黙々と葉を摘めば、フィンの麻袋が先にいっぱいになった。
アルバンとジャックの狩りも一段落着いたらしく、同じような袋を抱えてやってくる。
カミーユの袋もあと少しでいっぱいだ。
フィンの袋へ、カミーユの袋から葉を移してギュッと押し詰めた。
くらりとするような香りがカミーユを包む。
「頭の芯が溶けそう……」
原料でこれなら、抽出したらどれほどのものになるだろう。
カミーユは両手を麻袋に突っ込み、ローザゲラニウムの葉を一掴み取り出すと、大きく深呼吸した。
「アルタシルヴァに繁るローザゲラニウムよ。
目覚めよ。仄めけ。匂い起こせ。
その香を女神に捧げよ。歓喜とともに」
ローザゲラニウムに細く魔力を流すと、最初はいつものように原料が解ける気がした。
隅から隅まで魔力を通せば、素直にスルスルと入っていく。
香りが糸のように解け、分かれ、芯が見えるようだ。
いけると思った。
「
香りの糸が物語を紡ぐ、いつもなら。
「キャアッ」
カミーユが押し返された。原料の魔力を引き出し、流した以上の魔力が襲い掛かる。
ビュウと風が唸るのは、ローザゲラニウムが風属性ということだろうか。
魔力の糸がすごい勢いで、カミーユに絡みついた。押し返そうにもカミーユでは力不足だ。
ダメだ。完全に巻かれる、と腕を上げて頭をかばうと、その魔力がプツリと切れた。
フィンが側で魔力を巻き取っている。
風が止み、はあ、と三つの大きなため息が聞こえた。
「調香術は使えないと言ったはずだ。どのような変化が起こるかわからないものを無造作に使うなど、うかつすぎる」
言われて当然だった。
「ご、ごめんなさい。なんだかぼうっとしてしまって……」
フィンが眉を寄せた。
「ローザゲラニウムにそういう効果があるのかもしれない。調香術師だからよけいに香りに惑わされたのか……?」
「鼻が利くのも危ねえな」
「危ないっすね」
このことで、カミーユが森に行く際は必ず護衛が必要と判断されたのは、仕方のないことだった。
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