1 採用取り消しは突然に
「あなたの採用は取り消しとなりました、カミーユさん」
突然のことに、おはようございます、と言った口を閉め忘れていたらしい。そこから
「は? と、取り消し? どういうことですかっ⁉」
調香術師を目指すカミーユは、研修先となっているドリス工房に呼び出された。
暖かくなる前の、今日が最後の冷え込みかというような日に、戸口に立たされたまま伝えられたのがこれだ。
数日後に始まる研修開始に備えて、伝達があるのだろうと、新生活への少しの緊張と大きな期待で胸を弾ませてきたのに。
早口で告げたのはカミーユの指導術師になるはずだった女性だが、気まずそうに目も合わせてくれない。採用が決まった時に、よろしくね、と見せてくれた笑顔もない。
「工房の方針が変わったらしくて。だから申し訳ないけれど」
「突然困ります! ご存じでしょう? 花の季節からの研修は必須で……!」
「ええと、その、ごめんなさいね。じゃ、そういうことだから」
「そういうことって、どういうことですかっ! 待ってください! お願いです。もう一度検討して……」
術師に詰めよっていると、彼女の後ろから遮る声と強い香りが近づいた。
「まあ、こんなところで騒ぐなんて、迷惑ね」
声も香りも工房主であるドリス調香術師のものだったが、その後ろに王立高等学院の制服が見え、カミーユは目を見開いた。
深い緑色をした制服とケープで、裏地は聖なるローザの赤。胸に刺繍されたローザの蕾で、一目でカミーユと同じ調香術科のものだとわかる。
それも、全く仲良くない同級生の。
「リリローザ様……」
「あら、カミーユさん。ごきげんよう。……では、ドリス術師、研修は来週からですわね。よろしくお願いしますわ」
「楽しみにしておりますね。リヴァスガルド伯爵夫人にもよろしくお伝えくださいませ」
「ええ。承りました。お母さまに伝えます。ごきげんよう」
目の前での会話に息を呑んだ。
「そんなっ! 待ってください!」
抗議するカミーユの鼻先でバタンと扉が閉められた。
漂っていた甘く、コクのあるローザの香りが消えると同時に、カミーユは工房に一歩も入れてもらえないまま、研修先がなくなったのを知った。
「リリローザ様、どういうことですか ⁉ あなたの研修先は別に決まっていたはずです。それなのに……。まさか奪うなんて!」
王都でも有名なドリス工房での研修が決まり、以前にも増して、リリローザから嫌味や小さな嫌がらせを受けてきた。でも、まさかここまでするとは、思ってもいなかった。
リリローザがくるりと振り返ると同時に、カミーユの鼻に髪の香りが届いた。
新種のローザを使っているようだが、甘くてきつい。不快な香りに眉を寄せると、リリローザの赤い唇が機嫌よさそうに弧を描いた。
「あら、人聞きの悪い事をおっしゃらないで。知らないわよ。先方からお話が来たのだもの。そうね、やっぱりあなたでは、いろいろと不足だったのではないかしら? 失礼」
リリローザはツンと顔を反らすと、待っていた馬車に乗り込んだ。
カミーユは、グラシアーナ国の王都ロザウィンにある、王立高等学院の調香術科四年に在籍している。
この国で発展してきた調香術という知識と技は、ここでしか学ぶことができない。
すでに三年間、基礎教養以外に調香術の知識と技を学んできた。最終学年の今年は工房での研修が必須だ。
研修なしでは調香術師の資格は取れず、正式にギルドに登録もできない。このままでは将来工房に勤めても、調香術師のアシスタントとしてしか認められず、調香もさせてはもらえない。
調香術師を目指して頑張ってきたが、夢のままで終わるだろう。
「どうしよう……」
工房は白いドアで、調香に携わる建物という印に、赤いローザの飾りが付いている。その飾りを見つめていても、未来への扉は開かない。
カミーユは大きなため息を吐くと、まず、高等学院へと向かった。
過去にグラシアーナ国を救ったという慈愛の女神は、いつしか花の女神と呼ばれ、女神を祀った教会はどこも、ローザの香りで満たされている。
過去には生花が奉納されていたが、
調香術で作られる香水はこの国の主要産業となったし、調香術師の地位はとても高い。
高等学院は、王都の一等地にある。
工房から商業街の大通りを抜け、貴族街に入る。さらに進むと、奥の静かな一角に、白亜の、大きく荘厳な建物が見えてくる。花の女神教会と高等学院だ。
教会に近づくにつれ、先ほど工房で嗅いだばかりの、甘く、ストレートなローザの香りが感じられるようになった。
◇
今年から研修担当となった職員は、カミーユから話を聞くと、露骨に顔をしかめた。
「あなた、何か失礼なことをしたのではないの? 困ったわ。来年の研修に響かないといいけれど」
この担当は来たばかりで、カミーユのことを全く知らない。それを差し引いても、これはない。
「失礼をした覚えはありません。まだ働いてもいませんし、理由も教えてもらえず、いきなりでした」
職員は大きなため息を吐き、立ち上がった。
後ろの戸棚からファイルを取り出して、めくっていく。
「あなたが気づいてないだけではないの? あちらは人気の工房で、理由もなくそんなことをするとは思えないもの」
我慢だ。今までだっていろいろ言われてきたのだから。
「それで、他に研修先の当てはあるのかしら? お家のお抱えの工房なら融通が……」
資料をめくっていた職員の手が止まった。
「あら。あなた、ローザハウスの出身なの。……そう、あなたでしたの。それでは家の伝手は無理ね」
ファイルがパタリと閉じられた。
「あの、他の研修先を紹介してもらえるのでしょうか」
不安だ。研修は必須なのだから。
「難しいわ。……もともと学院の紹介できる工房は少ないの。忙しい花の時期から研修生を受け入れるのは大変ですもの。家のお抱えや紹介で見つける学生が多いわ。御実家の領地にある工房だったら、なんとでもなるでしょうから」
カミーユは思い出した。
今回取り消された研修先が決まるまでも、大変だった。
昨年までいた職員がたくさん問い合わせ、あの工房は常に人手が足りないということで、カミーユを頼み込んでくれた。
カミーユの成績が良く、推薦人がいたこともあって、やっと受けてもらえた工房だった。
「人手の足りない工房とか、ないでしょうか……」
「もしあったとしても、この時期よ。調香術師ギルドが手配済みのはず。……私の方でも一応当たってみるけれど、あなた自身も探してみてちょうだい。まあ、あなたの場合、研修が無理でも、ローザハウスでのお仕事なら見つかるでしょう?」
これで話は終わりとばかりに、職員は立ち上がった。
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