胡蝶道
そうざ
Phantom Butterfly Road
市営の自然公園は家から電車で一時間程の市街地の外れにある。いざ訪れると手付かずの自然がそのまま残されているようで、その広大さに驚かされた。
こんな場所ならば色んな虫が居る。綺麗な虫が、可愛い虫が、面白い虫が、珍しい虫が、新種が居たっておかしくない――そう思うと胸が踊った。
虫好きが集うSNSはいつも賑わっている。僕にとって唯一の居場所だった。
『ナシアシブトハバチの幼虫、キャワュイ!』
『ラミーカミキリを発見、正にパンダ!』
『大量のコメツキムシを跳ねさせてみた!』
いつも他人の自慢気な投稿を見せ付けられている僕としては、皆をあっと言わせるネタが欲しくてしょうがなかった。
ちらちらと灌ぐ木漏れ日に軽い眩暈を覚え、僕は
木々は鬱蒼となるばかりだった。さっきまで
幾ら何でも変だ。広大と言っても無限ではない。なのに、さっきから同じ所をぐるぐると彷徨っているような気がする。
頼りのスマホもまるで今の僕みたいにローディングを続け、バッテリーを乏しくするだけだった。
特別に持参して来たものと言えば虫捕り網と虫籠だけで、喉の渇きすら癒す術がない。
僕は、事前の下調べが甘過ぎた事を覚った。
親に電話をするか――。
僕が中三になると母は口煩くなった。勿論、受験の話が多い。去年、離婚して母子家庭になった事が関係しているのかどうかは、よく分からない。
それは兎も角、週末も暢気な自由時間ではなくなってしまった。だから今日も行く先を言わずにこっそりと――逃げ出して来た。
電話帳の表示を閉じ、溜め息を吐く準備をしていた時、視界の端にちらちらと影が瞬いた。
どうせ普通の蝶だろう――顔を上げると、
木漏れ日を受けた半透明の翅がしゃぼん玉のように艶めき、光の粒を弾けさせながら尾を引いて遠ざかって行く。天使が存在するのなら、こんな風に見えるのかも知れない。
僕はふらふらと引き寄せられた。スマホで撮影する事も忘れていた。
茂みを掻き分けながら必死に突き進むと、不意に視界が開けた。
河原だった。
雨上がりのような水量だ。さっきまで水音一つ聞こえなかったのは何故だろう。
大小の丸い石が無数に転がっているその向こうに、人工的な色の塊があった。
「吃驚したぁ」
僕が言いたかった台詞を盗られた。男性がキャンプ用品に囲まれて座っている。僕より十歳くらいは年上だろうか。
「ハイキングかい?」
「虫を探してるんです」
「どんな?」
「ついさっき珍しい蝶を見掛けて。もしかしたら新種かも」
周囲を見渡しても、もう蝶の影も形もない。その代わりに、マシュマロを焼く匂いが僕の腹の虫を無様に鳴かせた。
「あっはっはっ、食べて行きなよ」
男性は、
「どんな蝶なの?」
「不思議な……幻みたいな」
「胡蝶の夢に出て来そうな?」
「コチョウ?」
「知らない?」
蝶になった夢を見た男が、蝶こそが本当の自分で、人間の自分は蝶が見ている夢に過ぎないのではないかと戸惑う――聞いた事があるような気がした。
「そう言えば、胡蝶の夢に出て来る蝶の種類は謎だなぁ」
コーヒーまでご馳走になり、何気なく時計を確認して驚いた。
「もうこんな時間?!」
ほんの少し休憩しただけなのに、もう午後六時を回っている。
「今から一人で山を下りるのは危ないなぁ」
「山?」
宇津瀬さんはきょとんとして紙の地図を開いた。現在位置は標高六百メートルの山中で、しかも遥か遠い別の県だった。
「君があんまり軽装なんで、変だとは思ってたんだけど」
「何処をどう歩いてこんな事に……」
「標高は大した事ないけど、山道が整備されてないからなぁ」
もう焚き火がなければ互いの表情も読めないくらい陽が落ちていた。
「ご両親は何て?」
「一応、納得したみたいです」
友人宅だと勉強が
今夜はここで一泊するしかない。
「俺はタープ泊するから、君はテントを使って」
「タープ?」
「このシートの事さ。通販で買った安物だけど、これを張ってその下で寝るんだ。俺は野営に馴れてるから全然平気だよ」
精悍な顔が笑う。
その後、宇津瀬さんは夕食まで振る舞ってくれた。考えてみれば、キャンプなんて生まれて初めての体験だ。
ゆらゆらと揺れる炎は、自分が自然の一部になった気分にさせる。見上げれば満点の星だ。宇津瀬さんは星座にも詳しかった。
「さっきの、夢の話ですけど……」
「胡蝶の?」
「自分が蝶だったらな〜って思っちゃいました。勉強から解放されて飛んで行きたいです」
「俺が勉強を投げ出して野営を始めたのは、君くらいの年齢だったなぁ」
「僕も始めようかな」
「お勧めするよ。自然から色々と学べるしね」
「どんな事を?」
「例えば……
「それは聞いた事があります!」
蝶は気紛れに飛んでいるように見えるけれど、実は見えない道を通っていると言われている。ただ、どうやって道を決めるのか、何の為に道を通るのかは、詳しく解明されていないらしい。
「……起きて」
「ん……もう朝ですか?」
テントから出ると、辺り一面が朝靄に覆われていた。
「寝心地はどうだった?」
「快適でした。本気で野営を始めたくなりました」
「先ずは
「はい」
軽く笑い合うと、宇津瀬さんは急に真面目な顔になった。
「何か見えるかい?」
白い闇に光の粒が流れて行く。昨日、ここへ迷い込んだ時に見たものと同じだ。
「……胡蝶!」
その羽搏きは、行く先に迷っているかのように同じ空間で円を描いている。
「残念ながら、俺には見えないんだ」
「えっ、どうして?」
「胡蝶は道に迷ってる者にしか見えないらしい」
確かに、宇津瀬さんの焦点は僕が見詰める先には合っていない。
「そんな事って……」
「でも、見えないけど判るよ。そろそろ胡蝶が道を見付ける筈だ。さぁ、追って!」
柔らかい口調ながらも、宇津瀬さんの目は有無を言わさなかった。
「頑張ってるお母さんを支えてあげなよ」
「……え?」
「見失わないようにね。振り向いちゃいけないよ」
別れの言葉は交わさなかった。胡蝶を捕まえたら直ぐ宇津瀬さんに見せに戻るつもりだったから当たり前だ。
でも、再会は叶わなかった。
朝靄の向こうは自然公園の一部だった。そんなに広大でもなく、迷いようのない場所だった。
もっと不思議なのは、野営で一晩を過ごした筈なのに家を出てから数時間しか経っていなかった事だ。
家に電話をしたら、いつまでもほっつき歩いていないで帰って勉強しなさい、と小言を喰らった。それだけだった。
今度こそはと撮影した動画に胡蝶の姿はなく、朝靄しか映っていなかった。
その後、あれだけ勉強嫌いだった俺が何とか高校に入学し、今はもう大学生だ。相変わらずくさくさすると一人で虫を探しに行くけれど、そこにキャンプが加わった。
テントで一人、横になっていると、宇津瀬さんの事を思い出す。
あの人が俺と同姓だったのは、単なる偶然だろうか。
正確に言えば、あの頃の俺はまだ別の苗字だった。その後、母が再婚した事で俺は宇津瀬になったのだ。
まさか、と思ったが、再婚相手はあの宇津瀬さんとは似ても似つかない、良い人だけれど小太りのおじさんだ。決して同一人物ではない。
あの日の出来事は、全て胡蝶が見せた夢に過ぎないのかも知れない。でも、何事に付けても自信がなかった僕が、日に焼けた、がっしりとした体格の俺になったのは本当だ。俺は今、本気で虫の研究者に成りたいと思っている。
今度の週末は、いよいよあの山へ、あの河原へ野営に行く。俺はもう見えない胡蝶と、そして僕と再会するのだ。
胡蝶道 そうざ @so-za
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