54話 魔法が解けて
「なッ、なななななんでジークハルト様がいらっしゃるんですか!?」
横向きになってベッドにいたエリザと同じく、向かい側にはこちらへ身体を向けて寝転がっているジークハルトの姿があった。少し上ボタンが開けられた白いシャツ、という恰好からも昨夜就寝を見届けた際の服とは分かる。
エリザは急速に覚醒して手を奪い返した。
後退しようとしたが、一人用のベッドは余分なスペースが残っていなかった。
「エリザが来る気配がなかったので、俺が会いにきたんです。ほら、目が覚めたら一番に会いたいと言ったでしょう?」
確かに、彼は眠る前にそう言っていた。
(言ったけどっ、確かに言っていたけど!)
そういうことではないのだ。
エリザはパニックになりかけて、ひとまず距離を取るべく飛び起き、足元に転がっていた掛け布団をシャツの胸元に抱き込んだ。
「だからって、なんで人のベッドに勝手に潜り込むの!」
きょとんとして腕で身体を起こしたジークハルトが、そこに座り込んだエリザを眺め、ふっと愛おしげに目を細めた。
それはひどく優しげな笑みだったが、エリザは背中が何やらぞくっとした。
目の前にいるのは女性に無害なヘタレ野郎のはずなのに、なぜ肉食獣を前にしたような威圧感も覚えているのだろう?
「……あの、そもそも呪いは解けたんですよね?」
「そうだと思いますよ。確かめさせるのは怖くはありましたが、モニカに腕をつついてもらっても蕁麻疹は出ませんでしたから」
言いながら彼が向かいに座る。心の底から信頼しきったように、蕩けるような微笑みを浮かべた。
「エリオ」
艶のかかった声は、腰に響く甘さがあった。
エリザは、なぜだか本能的な危機感を覚えて身を引いた。
おかしい。呪いが解けているはずなのに、変わらないこの慕いっぷりはなんだろうか。しかも異性であるはずのエリザに、以前と変わらず本能的に『女性だ』と感じているような素振り一つないのも、危ない気がする。
(うん、なんか、私の本能が逃げろと言っている気がするんだよね……)
けれど残念なことに、ベッドは片方が壁にくっついている。開けたもう片方にはジークハルトが座り込んでいて、彼を倒さない限り出られない。
ひとまず、落ち着きたい。思考が回らない。
まさか彼が分かっていてそこに横になっていた――なんてことは、ないはずだろうし。
ここは治療係として確認もしなければならない。そう己を奮い立たせ、エリザは探るように彼を注意深く観察しながら尋ねた。
「えぇと、解呪薬が効いたか確認したので質問しますね。絵本を読んで欲しいだとかいう大人らしかぬ思考は残っていますか?」
「いいえ。きっとあの薬が効いたのでしょうね」
子供みたいな思考という遠回しのことに応えたのか、にっこりと魅力溢れる大人の微笑みを返された。
エリザは、それなのにどうして寝室に勝手に入ってきたのと思って、口元が引きつりそうになった。
呪いがなくなった。つまり、エリザの聖女の力云々はもう関係がなくなった。
それなのに、ジークハルトの『すぐにでも会いたい』という昨夜までと変わらない反応に、説明がつかない。
(聖女の作用の安心感が消えたら、本能で女性への苦手意識の方が増すはずじゃ……?)
彼の反応からするに、まだエリザを同性だと信じているのだ。
(うん、ちっとも疑っている感じがない)
胸をやや抑えてくれる厚手の肌着を、普段からシャツの内側に着用していたのがよかったのだろうか。
戦闘となった時、邪魔になるから便利な専用の肌着なのだ。
とはいえ、自分に魅力がないのは分かっている。胸の膨らみ云々が見えない横向きの姿勢でエリザのシャツ姿を見ても、彼がまったく女性だと疑わなかった、というわけだろう。
(…………つまり、セーフ?)
まだ残されている治療係の仕事は、できるということか。
エリザは前向きに考えることにする。
「分かりました。とにかく起きますから、先に自室に戻っていただけますか? すぐに伺いますから」
とにかく、この状況を変えようと思った。扉の方を指差したら、ジークハルトが少し悲しそうな顔をした。
ギョッとしたら、彼がその顔をずいっと近づけてくる。
「子供心が残っている方がよかったですか?」
「いや、そういう意味ではないんですよ。治ってよかったですよ」
エリザは片腕で掛け布団を抱き寄せたまま、慌ててジークハルトの頭を手で撫でて慰めた。
(どうしよう、何やら傷つけてしまったみたいだ……)
彼が自分より一つ年上の、十九歳の男性なのは分かっているのだが、昨日までの様子のせいで弟か子供を泣かしたような罪悪感がある。
「本当にそう思っていますか?」
「もちろんですよ。急に子供っぽくなって人の目も構わず甘えてきて、あれだと問題になります。私がどれくらい心配したと思っているんですか」
「ああ、それはすみませんでした。あれはからかい過ぎたと反省しています。勘違いだと、ひどいことを言うものですから」
「……はい?」
気のせいだろうか。
一瞬、あの幼児精神は〝ふり〟だと言われたように感じたのだが――
「あなたの勘違いの元はなくなりましたし、大人心しか残っていない今の俺なら、もう問題ないですよね?」
問題とは、何が、とエリザは思った。
だが過ぎったその思いは口にできなかった。彼の手が肩を掴んだ思ったら、視界が回って、ぼすんっとベッドに押し倒されていた。
掛け布団が剥ぎ取られた。その代わりみたいに、ジークハルトがまたがってくる。
そうなるまで、本当にあっという間のことだった。
「…………は?」
理解が追いつかず、エリザは数秒ほどこちらを見下ろしているジークハルトの美貌を見つめていた。
彼女はベッドに仰向けに横たわっていた。
そして目の前には、自分にまたがっているジークハルトの姿がある。
彼はいつの間にかエリザの手首も掴んで、左右に開かせるようにして押さえつけていて、シャツ姿を隠せない。
「え、何これ」
ようやく、まともな声が出た。
困惑のままに問い掛けたつもりだったが、ジークハルトが状況に似つかない、人懐こい顔でにっこりと笑いかけてきた。
つられてエリザも笑い返したものの、笑みは当然引きつっていた。
「……あの、ジークハルト様? なんで私は押し倒されているのでしょうか?」
危機感が現実味を帯びてきて、彼女は膝頭を合わせて身をよじる。大人が、ベッドの上で相手を組み敷く意味が分からない年齢ではない。
すると彼が、天使のような純真無垢な極上の笑みが浮かべた。
「その辺の知識はあるようで安心しました」
そんな言い方をされたら確信が持ててしまって、安心などできなくなった。
頼むから、顔と合わない台詞を口にしないで欲しい。余計に怖い。
(――じゃなくって!)
「というか、あなた様はそういう経験とか欲求も全然なかったのでは!? というかっ、ほんとなぜそんなことになるんです!? 意味が分かりません!」
エリザは混乱の末、思わず叫んだ。
「ずっと我慢していたんですよ? ほら、この前の、お忘れですか?」
「あ」
この前、というと、今と同じ状況になった日のことだ。
(そういえば二回目でしたね。私の頭、『危機感を覚えるのなんでかな』とか、なんでそうすぐ前回の危機感も忘れるのかな!?)
ジークハルトがあまりにも子供っぽかったから、すっかり忘れていた出来事だった。
「えぇと……つまり、キスしようとした時の……ですよね?」
「ええ、続きをさせていただきます。もちろんそれ以上もしますけど、今度こそさせてくださいね」
ジークハルトは実に爽やかな笑顔だ。
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