026●第四章⑤二つの月と、スライムの月の謎。

026●第四章⑤二つの月と、スライムの月の謎。



       *


 初夏の訪れを思わせる、ぬるらかな夜風が心地よい。

「今宵は快晴と占われております、猊下、われらがエリシン教の汎神はんしん天母コスモマザースライムーンに直接お目通りになりませんか?」

 シェイラがそう提案したのだ。

 夕食は公王府パラティヌス事務室の休憩茶屋パントリーと職員食堂からトモミが運んできた拉麺ラーメンとワンプレートの定食で済ませた。“猊下の毒殺未遂事件”のあとは、満願全席をやめて、そのようにしている。

 拉麺ラーメンは積んである袋物の在庫からランダムに引き抜き、定食の方は、一般の女性職員が配膳カウンターから受け取ったものをトモミが頼んで配食チケットと引き換えに譲り受けてきたものだから、毒入りの心配はないだろう。

 これで僕を毒殺しようとしたら、数百食分の食材に毒を仕込む必要があり、僕が食べる前に何十人もの職員が毒に当たってしまう。そこまで大仕掛けな陰謀を仕掛けても、俺を毒殺することはできない。敵もそのような無駄打ちは避けるだろう。言い換えれば公王府パラティヌスの職員全員が毒見役みたいなもので、気が咎めてならないのだが……。

 それでもトモミは言い張って、僕専用の毒見役を務めてくれた。ほんの少しずつだが、おかずと主食をそれぞれに口に入れて、安全を確かめる。

「君の食事は?」と聞くと、トモミはちゃっかり顔で「お毒見の量で十分です。それ以上食べたら太りますし」

 見事に食費を浮かせている。ちゃっかりなのか、しっかりなのか。

「“気を付けよう、その一口が背脂せあぶらの元”……かい? 油断するとトモミはまるまると肥えて、ギトギト拉麺ラーメンの具になってしまうのかな?」

「まあ猊下」トモミは顔を赤らめて、「あたし、丸顔なものですから、これ以上横幅が増えないように願っているのです。でも、あたしの背脂が拉麺ラーメンの具になったら、毒入りではありませんので、安心してお食べになって下さいませ」

 真顔で言われた。どうも、トモミは心から、僕に食べられても平気なようだ。

 そしてシェイラの招きで、公王府パラティヌス図書館の屋上に上がった次第だ。

 日は暮れていて、そのまま市民運動会ができそうなほど広大に敷き詰められた芝生のへりに点々と、護衛の図書騎士ブックナイトたちのシルエットが見える。

 星空の眺望を妨げないように、公王府パラティヌスの建物はみな、消灯するか、窓に遮光カーテンを引いてくれていた。建物の外側を囲む公城デュクストラの城壁は一辺六ロキメートルもの正方形で、一つの村がすっぽり収まるほどの大きさだが、一般市民は住んでおらず、公室近衛兵の兵舎などの要塞施設があるばかりで、それらも今は灯火管制を命じられて真っ暗になっている。

 枢鬼卿すうきけいの“望月礼拝ぼうげつらいはい”が通知されたからだ。

 そこまで照明に気を使ってもらうのは悪いような気もしたが、すぐに言いようのない感動が押し寄せて、何も考えられなくなってしまった。

「おーっ!」僕は声を上げずにおれなかった。「なんて素晴らしい……世界一巨大で華麗なシャンデリアだ」

 天はあふれんばかりの星々で満たされていた。

 前世記憶ぜんせきおくから古い言葉が紡ぎ出される。

神よマイゴッド星輝満天たりイッツ・フル・オブ・スターズ……」

「はい、猊下」とシェイラもうなずく。「神々のおわす世界、エリシン教の信仰のすべてが、太古の夜、この星々のもとに始まったとされております」

「そりゃそうだろうなあ、星々の天蓋、煌めく無数の宝石のドーム。これはもう、このうえない天然の神殿だよ」

 僕は前世記憶ぜんせきおくに残る星座を探そうとしたが、明るく大きな星々の隙間を埋める細かな星々もまばゆく感じられて、大小の判別がつかない。天の川の壮大な流れはどうにか見分けられるが……

「これが宇宙の本当の姿なのですね」と、トモミが感極まってつぶやいた。「昼間はお日様のまぶしい光に隠されてかすんでしまっているけれど、青空の上にはいつだってちゃんと夜空があって星々が瞬き続けているって……そう聖典に書いてありました」

「そうだね、こんなに綺麗な星空なら、天が回ろうが、地が回ろうが、どちらでも良くなってくる。天動説でも地動説でも、研究したい人はすればいい、でも争うのは馬鹿げてる。こんなに美しくて清らかな星々の下で、人と人がののしり合い、剣を抜いて殺し合うなんて、最低だ。みんな黙って星を見上げてれば、それでいいんだ」

 僕の言葉に、トモミもシェイラも、共感するところがあったようだ。

 左の二の腕を、ギュッと掴まれた。トモミが僕の肩に、後ろから頬を寄せていた。

 右の二の腕も、ギュッと掴まれていた。顔を向けると、シェイラが目をきらきらさせて、俺を上目遣いで見つめていた。あなたを信頼します、と伝えるかのように。

「ワガ様、わたくしたちの大地ムー・スルバには、三つの月が巡っております。エリシン教ではその最大の月スライムーンを汎神はんしんと崇めております。ですからエリシン教は、太陽よりも星々を崇拝する、夜の宗教です。宗教行事は昼間でも執りおこないますが、そのときは、わたくしたちの神様は青空のさらに高みの星空におられるわけです。まもなく、汎神はんしん天母コスモマザースライムーンが地平線にお出ましになりますが、その前に……」

 シェイラはそう告げて、木製の三脚に支えられた、鏡筒の長さ一メルトほどの反射望遠鏡を操作した。「二つのお月さまをご案内させていただきます」

 望遠鏡の筒の下には複雑な歯車とおもりを組み合わせた装置がついていて、星々の間を進んでゆく月の軌道を自動追尾できるよう、あらかじめ調整してあった。

 キリキリ……と歯車が回り、接眼鏡のレンズが光を集めて明るくなった。

 シェイラは腰に提げていた黄色魔法石のランタンを消灯し、どうぞ、と促した。

 接眼レンズを覗く。視界一杯に月があった。

「ボスムーンです。これは動きが早く、西から東へ、たった四時間で天を巡ります。一日でムー・スルバを三周しているわけです」

 シェイラは歯車に付随したクランクを回して、鏡筒を動かした。するすると動いて、視界を離れようとするボスムーンを追いかける。

「無粋な岩の塊だね、ごつごつした芋のような」

「はい」とシェイラ。「軌道を駆け足で走り抜けますので、足腰の健康にご利益のある神様となります。公王府パラティヌスでは、全国の教会の畑で芋を栽培し、体力増進に寄与する“ボスムーン・ポテト”と称して頒布しております」

 ちょっと笑ってしまった。月を神格化することで、教会の現金収入を生み出しているのだ。

 しばらく観測したのち、第二の月に望遠鏡の焦点を移した。

「お次はモスムーンです。小さな月でして、東から西へ、とてもゆっくりと動いています」

「ああ、こちらの方がのっぺりしていて、ハート形に見える」

「そうですね」とシェイラ。「聖典では、愛をもたらす月と位置付けられています。公王府パラティヌスでは、全国の教会を通じて、ハート形の石のペンダントを恋愛成就のお守りとして頒布しております」

 こちらも教会の現金収入だ。意外とこれ、大事なことかもしれない。こうした物品販売は教団の経営に少なからぬプラスとなっているはずだ。シェイラの経営手腕だろう。宗教も経済だ。

「それでは猊下、最大の月、スライムーンが地平にお姿を現わします。こちらは望遠鏡が無くても、よく見えますので」

 僕はきょろきょろと、地平線に月の出を探した。「東、それとも西?」

「いいえ猊下」と、シェイラは厳かに汎神はんしんの位置を告げた。「北か南です。今宵は南となります」

 南の地平線……といっても公城デュクストラの城壁に沿った木立の上になるが、そこに、それの姿があった。

 最初はぼんやりとした、薄明るい影のように、それは見えた。

 そしてゆらゆらと、地平から全貌をあらわすと、ぽっ、と淡い輝きを放ち始めた。

 金ぴか、とは言えないが、明るい黄色は滑らかな光沢を伴って、まるで新品の電球のように、傷ひとつない。

 そして、大きかった。

 両腕を延ばして左右の親指と人差し指の先端をそれぞれ接して輪を作ると、その中にすっぽりと収まる、そんなスケールだ。

 巨大でつややかな黄色の球体は、上下に少しひしゃげており、上部がやや尖っている。

「でかいな……どうみても金色の玉ねぎだ。ひょっとすると直径百キロメルト以上、いや、千キロメルトを超すんじゃないか?」

「でもワガ様、とてもとても神々しいです」

 トモミは頭上へと昇りゆく神様を見上げて感極まっている。信心深い娘なんだ、と思う。

 しかし、もやもやとした疑問が俺の胸中に渦巻いた。

 これは……ただの月ではない!

 我輩はシェイラに尋ねた。

「あのスライムーンの正体はたしか、スライムだって言ったよね?」

「はい、正体は神様のお住まいそのものですが、成分的には文字通りスライムだという言い伝えです」

「言われてみれば、そう見える。太古の遺物のはずだが、表面はすべすべで、クレーターがひとつもない。ボスムーンやモスムーンはクレーターの穴がいくつも開いていた。しかしスライムーンは傷ひとつない。隕石みたいな小天体に衝突されたことがあるはずだが、その痕跡が表面にまるで残っていない……ということは、やはりスライムでできているのか。表面から何キロメルトだかわからないが、とてつもなく大量のスライム状の化学物質で作った超巨大な団子みたいなものじゃないか? だから隕石などが衝突しても、ドロドロ、ヌルヌル、プヨプヨのスライムだから、その穴はたちまち塞がる……」

 そこまで喋って気が付いた。

 スライムーンは北から南へ、南から北へと天球を動いているのだから……

「極軌道だ。特殊な軌道を回っている。あれは、人工物じゃないか?」

「いいえ、ワガ様、スライムーンは神様がおつくりになった“神造物”です。聖典にはそう書かれています」

 エリシン教の敬虔な信者であるトモミの見解はごもっともだが、我輩の前世記憶ぜんせきおくの知識を当てはめると、スライムーンは人工の構造物と考えた方が合理的だ。

 その本体を種とすれば、周りを取り巻く果肉のように、超巨大なスライムをこってりと分厚くまとった……人工の宇宙船。

 その証拠に……

「スライムーンはムー・スルバを回る月なんだろ? それなら満ち欠けをしているはずだが」

「神様ですから、他の月のように形が欠損することはありません」とシェイラ。「常に完全な、満月のお姿を維持されています」

「ふーむ」我輩は考え込んだふりをして、さらに確認した。「昼間は見えているよね? 太陽光を反射していれば、青空に白っぽく浮かんでみえるはずだけれど……」

「いいえ、昼間は見えません、空の青さにお姿を隠していらっしゃいます。だからエリシン教は夜の宗教でして……」と答えて、シェイラはふと思い出して言った。「ずいぶん昔のことですが、スライムーンが太陽の前を通って光を遮り、ムー・スルバが真っ暗になったことがあると、古文書に残されています。その時はスライムーンの玉ねぎに似た形が真っ黒なシルエットになって、太陽の光を背景に、闇の昼の大空に浮かび上がったとか」

 偶然とはいえ、日食をしでかしたことがある……というのは、昼間もスライムーンは青空の上に存在していたわけだ。

 昼は太陽光を反射せず、青空のはるかかなたの宇宙の闇に溶け込んでいる。そして夜は黄色く光り、満ち欠けが無い……

「まだ、ただの仮説だが、スライムーンはやはり人工物だ」

 トモミとシェイラがじっと我輩を注視する。我輩は淡々と続けた。

「昼の領域にあるときは太陽の光を反射せずに、ひたすらエネルギーを吸収して貯め込む、そして夜の領域に入ったら、余った熱量を光に変えて放出し、自ら明るい黄色に輝くんだよ。隕石の落下でクレーターができても、スライムが自己修復する。そうやって傷ひとつない姿を保ちながら、千年万年と、ムー・スルバの夜の女王として君臨してきたんだ」

 シェイラもトモミも、熱心に新人枢鬼卿の講釈に聴き惚れてくれた。聖典に記されていない、耳新しい宇宙論なのだろう。

「スライムーンは、母船マザーシップじゃないかな。太古の昔に人類を宇宙のかなたから運んできた、移民の方舟はこぶね

「だとしたら、聖典の通りです。神様が、あたしたちのご先祖様を運んできて下さったのですね!」

 ひざまずいて、スライムーンに祈りを捧げるトモミを見やりながら、我輩は考えを巡らせていた。

 超巨大な人工構造体であるスライムーンは、ムー・スルバの衛星として、極軌道を選んで運行している。

 この惑星の北極と南極の上空をぐるぐると通過する軌道は、赤道上空に沿った軌道とは異なり、ムー・スルバの全ての地域をほぼ同じ高度から正確に観察できることになる。惑星ムー・スルバが自転してくれるからだ。

 そしてスライムーンは、はるかな昔のあるとき、無人の荒野でしかなかったムー・スルバを、人の住める豊かな土地に変えてくれたという。

 北極と南極の上を回る極軌道は、惑星の全土になにかをまんべんなく降らせるのに便利だ。

 例えば、種まきとか。

 エリシン教の聖典の記述に従うならば、スライムーンは改造を進める大地の一部に楽園をつくり、最初の入植者をそこに降ろしたことになる。

 では……

 スライムーンは、全ての仕事を終えたのだろうか?

 人類がムー・スルバに繁殖して、いくつかの国家をつくり、それぞれの文明をはぐくむまでに数千年はかかったのではないか?

 それならスライムーンの仕事はすでに完了したはずだ。

 しかし、いまだにムー・スルバの極軌道にとどまっている。

 もしかして、まだ、スライムーンは神々の仕事を終えていない?

 極軌道からこの惑星のすべてを電子の眼で偵察しながら、スライムーンは何を考え、何を意図して、そこで……何を待っているのだろうか?

 我輩の妄想はあてどなく膨らむばかりだったが、最後に一つの問いが残った。

 シェイラとトモミには教えられないクエスチョンだ。それは……


 スライムーンが神ならば、“最後の審判ディエス・イレ”の実施権限は、今もスライムーン自身に留保されているのではないか?


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