011●第二章④最高の晩餐はスッポンの風味
011●第二章④最高の晩餐はスッポンの風味
そこは事務室だった。我輩の
そこに木製の事務机がずらりと並び、百人は下らない女性事務員が勤務していた。机に積み上げた書類を分類し、付箋や参考資料をつけて一冊のレポートに仕上げているようだ。あるいは
みな一様に白いブラウスでサイドにスリットの入ったタイトスカート。それが制服で、首元のリボンとスカートの色で、業務管掌と職場の地位を識別しているようだ。
なるほど、
しかし今は夜だ、というのに広大な室内にひしめく机はほぼ満席で、事務の女性たちは忙しく立ち働いている。
そうか、残業だ。本日はなにか特別な行事でもあって、事務量が跳ね上がっているのだな……と考えて思い至る。
そりゃそうだ、本日は先代の
てことは、皆様に一斉残業を強いている元凶は我輩である、誠に申し訳ない。……と考えて直感する。……そうだ、無数の机の上で処理されている書類の山はいずれ、俺の執務机の上に高層ビルをなすのではないか!
「猊下、ここは事務管理部のオフィスでございます。ご休憩処は回廊の向こうでして、どうぞ、こちらにお越しを……」
が、俺は無視して鼻をひくつかせる。
適度に腹を満たした普通の人なら気に留めないほどかすかな香りだが、目下、胃袋がガス欠の真空状態である我輩の嗅覚は高感度センサーモードに入っていた。胃袋の中でぴーぴーと鳴る探知音。そうだ、あそこに、とてもいいものがある!
「ごめん、ちよっと寄り道するよ。いいだろう?」
シドの返事など聞かずに、俺はつかつかと、事務広間の真ん中を横切った。
「あっ猊下!」
「
「えっ?」
「新しい猊下よ! ワガ=ハイ様!」
そんなささやき声が室内に波打って広がるそばから、妙齢のオフィス
そりゃそうだ、僕は金ラメ銀ラメに玉虫色の
正直、超恥ずいぞ!
「いやいや皆さん、ちょっと道草するだけだから、どうか気にしないでお仕事してくださいね」
僕は手を振ってひょこひょこと頭を下げてしまった。いつぞやの
作り笑いで選挙用の愛嬌を四方八方に振りまいてしまったが、それがなおさらオフィスの皆様を盛り上げてしまった。
「猊下! ご降臨おめでとうございます!」
笑顔に笑顔を返されて、すっかり照れてしまう僕。なにしろ大歓迎の拍手付きだ。
嬉しいことに、彼女たちにとって、新しい
ニコニコ笑いを絶賛サービスしながら、オフィスの突き当たりで
チラリと見たが、ドアには“
「そうか! 残業食なんだ!」
俺は納得して叫んだ。情けなくも叫んでしまったが、わが心をわしづかみにする鶏ガラ風の香りの正体が判明したのだ。そしてもっと重要なことは、ここに来たからには食い物にありつけるという明白なる幸運であった。
「げげげげげ猊下!」
残業食三人娘は立ったまま硬直した。
まあ驚くのも無理はない。この国では
オフィスで「光あれ
夢にも思わなかっただろうなあ……と、いささか申し訳ない気分の僕だったが……
「そそそそそ、それ、それはなんだね、その、ドンブリの中身って……」
人目をはばからず指さして尋ねてしまった。ここはなんとしても、同じ食い物をゲットしたいのだ! 見れば、残業食三人娘の一番若そうなひとりが手に持つ箸には、一本の麺がからまったまま垂れ下がっている。
「おおっ、黄ソバだ。してみれば
我ながら素っ頓狂に感激してしまったが、転生を重ねても
「は、はい、猊下、これのことでしょうか」
うろたえながらも、残業食三人娘の一人が戸棚を開けてそれを取り出す。
油紙の防水袋に密閉した
「即席スッポン
「さようでございます、猊下、これは最近一番のヒット即席麺で、スッポンエキスの濃厚な風味が売りでございます」と、事務管理部長のシドが横から説明してくれる。
「ということは」と我輩は袋を破って「これをドンブリに入れてお湯を注いで三分待てば食べられるのだ!」
「よ、よくご存知ですね、猊下」と驚く、と言うより、あきれるシド。
「これまでの転生先が文明国なら、たいていこんなのがあったのだ。お湯をかければ食べられるインスタントフードが。どこの異世界でも、なぜか待つのは三分ルールってことになっていたがね」
「ここムー・スルバでも、概ねそうでございます」とシド。「常温でも保存性がよく、残業食にぴったりなので、各種大量に取り揃えておりますのです」
「え、もしかして無料で?」
「はい、福利厚生の一環として、
シドに指図されて残業食三人娘が他の戸棚を開けると、スッポン以外にもいろいろな種類の即席麺がぎっしりである。ちなみに手元のスッポン
「みんな、この
「はい、猊下、みんなスッポンが大好きです!」と口を揃える残業食三人娘。
「そうか、それじゃ、僕もこれをもらおう、さぞかし精がつきそうだ」
残業食三人娘のご推薦をもらったので、我輩は戸棚の前に伏せて積んであるドンブリから、念のため一番上は避けて数個下のものを勝手に取って、
ならばお湯をかけるのみ。
「お湯だ、お湯はどうやって?」
「これでございます、猊下」
シドがすばやく、簡易キッチンの木製鍋敷きの上に載せてある、水筒みたいな形状の平底やかんを取り上げた。そうしないと我輩の手がやかんに伸びたからだ。やかんの口は
しかしキッチンには、水道の蛇口とコンパクトなシンクがあるものの、コンロに類する設備はなかった。木製の鍋敷きがあるだけだ。
「ひょっとしてIHか? としたら凄い文明力だ」
首をひねった我輩に残業食三人娘とシドが口々に教えてくれたのは……
「魔法湯沸かしでございます」
つまり、やかんの内側底面に、直径数ミリの赤玉と青玉の魔法石がはめ込んであり、何もせずとも数分から数十分で水がたまってお湯が沸くという仕組みだ。
「すばらしい! 文字通り魔法の魔法瓶じゃないか」
ひとりだけ感激して浮き上がる我輩の目の前で、シドは“魔法湯沸かし”のやかんから丼の
テーブルには
ジジジ……と計時が進み、時計の針が一分半のあたりで、俺は丼に被せていた蓋を取った。
「猊下、まだ三分には間があります」
「三分経過しそうになったらタイマーがピコンピコンと鳴りますので」
「食べごろを教えてくれる、
残業食三人娘が助言してくれたが、俺は言った。
「いいんだいいんだ、二分でも美味いんだよ、こういう食品は。俺の好みは一分と40秒だね。麺がアルデンテでさ、ちょっと固めもいけるんだ」
「ある……でんて?」と面食らうシド。
「ああいや、ムー・スルバからみてどこかの異世界で高く評価されている、麺の一様式だよ。それよりきみたちも遠慮して待たずに食べたまえ」
猊下のお食事が出来上がるまで、残業食三人娘は健気にも、自分たちの食事を中断してくれていたのだ。かまわずに食べなさいと勧めたが、立場上、そうはいかないらしい。そこで僕も、待ち時間を短縮したわけだ。
「猊下、お毒見はわたくしが」
シドが深刻な表情で申し出た。数分前の
「ここは大丈夫だよ、こちらのみなさんが安全に食べているんだからね」
そう、ここの食事は安全だ。我輩の毒殺を計画した犯人どもも、事務の女性たちが常時ランダムに入り代わり立ち代わり利用する
このスッポンテイストなパリパリな即席ラーメンこそ、今の我輩にとって最も安全な最高のディナーってわけだ。
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