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 レインは十時過ぎ頃、ロンドンにあるトレーニングセンターのエントランスに到着すると、ようやくひと息ついた。

 サッカーイングランド代表に初召集されて、一日遅れの合流となった。三日後に、欧州選手権大会予選リーグ、ホームでギリシャを迎えての試合がある。イングランドチームは現在三位。この試合に勝たなければ予選敗退という現実が待っていた。

 誇り高きサッカーの母国は、この難局を乗り越えるために、監督交代という大技をうった。新しく代表監督になったゲイブリル・ハーツは、選手を一部入れ替え、新たに数名を招集した。若干十七歳で、名門ノーザンプールのトップチームでレギュラーになったレインもその一人だった。

 センターに入ると、関係者と思われる背広姿のスタッフたちがロビー内を歩き回っていた。みな難解なパズルを解きあぐねているかのような厳しい顔をして、携帯電話で喋ったり、少人数で肩を寄せ合っている。センター内に一般人はおらず、マスコミ関係者もシャットアウトされていた。ここ数日、マスコミの取材攻勢に悩まされていたレインには、それだけで天国のようだと感じてしまった。

 簡単な荷物を入れたボストンバッグを肩で担いでロビーを横切ると、近くにいた数名のスタッフたちが気づいて、笑顔でレインに挨拶をした。


「やあ、レイン! よく来たね! 名誉ある地獄の入り口へようこそ!」


 談笑していた年配のスタッフがレインの背中に腕をまわした。レインは顔馴染みのジョークに苦笑いして、抱き返した。


「やだなあ。オレ、ようやくマスコミ地獄から逃げてきたっていうのに」

「負ければ、あの世逝きは確実だね」


 イングランドサッカー協会の広報を担当しているサム・ドーソンは腕を離すと、皺にかこまれた目でウィンクして、手を差し出した。


「ようこそ、イングランドへ。君が我々を選んでくれて、本当に嬉しいよ。心から歓迎する」

「うん、ありがとう」


 レインもその手を握り返す。

 その場にいた他のスタッフたちも近寄ってきて、新たな代表選手を祝福した。レインも全員と握手を交わす。


「チームのみんなは、もうグラウンドに出ているの?」

「ああ、縛り首にされないために頑張っているよ」


 レインはくすっと笑った。初めての代表召集に緊張していたのだが、ちょっとだけ肩がほぐれたような感じがした。


「それじゃあ」


 レインは手を振ってロビーを後にしようとした。すると、ちょうど奥の方から人の言い争うような声が聞こえてきて、反射的に足をとめた。怪訝そうに目をやると、背の高い金髪の男が、大股の足取りで自分の方へ歩いてくる。その後ろからブラウンの髪の小柄な男が、急いで追いかけてくる。 


「監督に今すぐ謝るんだ!」

「いやだね」


 現れたのは、強豪クラブアリーナ所属で代表チームのガイ・バトラーだった。白いワイシャツに黒いスーツ姿で、肩越しにボストンバッグを背負っている。バトラーを後ろから止めようとしているのは、代表チームのキャプテンで同じクラブ所属のジョナサン・ヴェールだ。


「問題を起こすんじゃない! 何度言ったらわかるんだ!」

「俺は悪くないぜ。ちっともな」


 二人は言い争いながら、ロビーに近づいてきた。


「ガイ!」

「あのな、ジョナ」


 バトラーは歩きながら、肩越しに振り返って、皮肉げに言った。


「問題なら、もうとっくに起きているぜ」


 ロビーで立ち尽くしているレインはびっくりした。バトラーは明らかに帰り支度である。だが、レインに気がついたバトラーは、「よお」と手をあげた。


「ようこそ、ワンダーボーイ。ゴシップまみれのイングランドを選んで、後悔するなよ」

「えっ……」

「ガイ!」


 背後でヴェールが怒鳴り、バトラーは肩をすくめた。


「じゃあな、頑張れよ」


 レインの肩を軽く叩いて、トレーニングセンターのエントランスから出て行く。ガイ! とヴェールが再三呼ぶが、バトラーは振り返りもしなかった。

 一瞬、ロビーは沈黙に包まれた。が、すぐにため息と困惑と呆れでいっぱいになった。


「困った男だ」


 レインのそばにいたサムが、苦々しく吐き捨てた。レインは何が起こったのかわからずに、バトラーの消えたエントランスの透明なガラスドアを眺めていたが、同じように見つめていたヴェールに呼ばれ、我に返った。


「レイン・クロールだね?」


 確認するように問いかけられ、レインは短く頷いた。すると、強張っていたオリーブ色の瞳が和らいだ。


「挨拶が遅れたね。僕はジョナサン・ヴェール。よろしく」

「あ、よろしく」


 慌てて手を握った。ヴェールはレインが所属するクラブチームのライバルチームに所属している選手で、日頃あまり接点はない。だが、その手は柔らかくて小さくて、元々小柄な選手なのだというのを目の前にして思い出した。


「さあ、部屋を案内するよ。こちらへおいで」


 ヴェールは何事もなかったかのように先に立って、レインを手招きした。レインは慌てて小走りで後をついてゆく。

 センターの内部には様々なトレーニングルームはもちろんのこと、サッカーグラウンドや選手たちが宿泊できる施設もある。ホテルのような豪華さとサービスは期待できないが、選手たちが集まり練習に集中するにはうってつけの場所だった。

 二人は階段を上がり、さらに奥へ進む。

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