死にたい少女を天使と死神が奪い合うようです

館凪悠

第1話

 膿んでいる。

 倦んでいる。

 熟んでいる。

 車の音、廃ガスの匂い。

 靴の音、アスファルトの匂い。

 風の音、埃の匂い。

 広告塔の音、油の匂い。

 人が話す音、珈琲店の香り。

 喧噪。

 雑多。

 その中を、歩く。

 ああ、そのどれもが、疎ましくてたまらない。

 ……いや、違うか。

 正確に言うならば、疎ましく思うのも、疎ましい。

 多分。

 そう思う。

 それすら詳しく精査する気が起きないほどには、疲れていた。

 今日──という話じゃない。

 昨日から、という話でもない。

 雨のように降り注いだ疲労は、既に私の中で汚泥を孕んだ沼となり、心の所在をもわからなくさせていた。

 体が、重い。

 頭が、怠い。

 心が、重い。

 命が、怠い。


 ──死にたい。


 とても、疲れていた。

 昔は楽しかったはずの街の雑多は、今では私の精神をすり減らすだけ。灰色のアスファルトとコンクリートに包まれた世界は、まるで私の心を映した鏡のよう。

 ……昔は、なんて、何年前の話をしているのか。

 もう、この街に──世界に、楽しみを見出せなくなって久しい。

 そんな余裕は、なかった。

 それほど、疲れていた。

 とてもとても、疲れていた。


 ──死にたい。


 そう、疲れているのだ。

 例えば今、この場で、私に向かってトラックが突っ込んできたとして。

 通り魔がやって来たとして。

 隕石が降ってきたとして。

 それを避けようとする気力がわかないほどに、私は疲れていた。

 足が、重い。

 体が、重い。

 そんな体を引きずって、私は大通りから路地裏へと入る。

 別に、そこに用事があるわけではない。

 路地裏に入ってすぐを、右に曲がると、通りに面した廃ビルの中に入れるのだ。

 不法侵入?

 今更そんなこと、どうだっていい。

 というか。

 全てがどうでも良かった。

 

 ──死にたい。


 カツカツ、とローファーの音が階段に響く。

 この廃ビルに、特に思い入れがあるわけではない。

 確か半年ほど前だか、一年ほど前に、ここを使っていた会社の社長が、何らかの犯罪に手を染めて捕まり、そしてそのまま会社は瓦解。土地所有者が雲隠れしてしまったせいで、誰も解体を行う責任者がいなくなってしまった──とか。

 会社の名前は知らないし、何をする会社だったのかすら知らない。

 それでも、『らしい』というあいまいな知識を仕入れられるほどには、私はこの廃ビルのことを知っていた。

 都市伝説、というものがある。

 いわゆる、近現代に制作された、主に口承にて伝えられる、怪談話や妖怪話、その他の不思議話の総称だ。

 このボロい廃ビルも、いつしかそのターゲットになっていたのだ。

 独りで教室の席についていても聞こえてくる、噂話。

 曰く、幽霊が出る。

 曰く、旧日本軍の怨霊が住み憑いている。

 曰く、異界へと繋がっている──。

 話の細部や、そもそものディティールに違いこそあれ、どうやら人々は、この廃ビルに妖しい魅力を感じたらしい。

 ──だけど、人の噂も七十五日。

 最初こそ肝試しなんて名目でここに来る輩はいたみたいだが、今はもう既に落ち着いている。

 スプレーで書かれた落書きも、既に増える気配はなかった。


 ──死にたい。


 だから、ちょうどいいのだ。

 そろそろ人の記憶からも忘れられそうな廃ビルと。

 そろそろ生きるのに疲れてしまった私と。

 時間を潰すには、おあつらえ向きの場所だった。

 あるいは──今日なら、ここで死ねるかもしれない。

 そんな、淡い思いがある。

 期待でもなく、絶望でもなく。

 ただ、死にたい。死ねるならば。

 明確な理由など、ない。

 心当たりは、なんて聞かれたら、多すぎてわかりません、としか答えられない程度には、死にたいことに対して、明確な理由がなかった。

 蝶番の緩んだ扉を開けて、再び曇天の下へと出る。

 屋上だった。

 ボロボロの屋上は、あるいは飛び跳ねたりすれば崩れてしまいそうなほどみすぼらしかった。

 そんなみすぼらしい屋上から、下を見下ろす。

 人が、歩いている。

 車が、走っていく。

 ここの七階建ての建物から見下ろせば、彼らがいかにもちっぽけな存在に思える。


(──そんなちっぽけな人たちに虐げられる私は、塵か何かかな?)


 なんて。

 また無駄に精神をすり減らすような、意味のない考えが脳裏に浮かんで、私はそれを溜め息と一緒に吐きだした。

 今日も、私はここで下を覗き込みながらゲームをするのだ。

 下の道を、車も人も通らなくなったら、ここから飛び降りる。

 人の往来が消えないうちは、ここから飛び降りない。

 それを、家に帰る時間ぎりぎりまで試すのだ。

 死にたいなら、人の往来を気にせずに飛び込んでしまえばいいのだろう。

 ほら今も、このままぐらりと体を前に傾ければ、この命は十秒と経たずに、真っ赤な血しぶきを上げて失われるだろう。

 だが、とわずかばかりに残った正常な思考回路が、私の体を屋上へと縫い留める。

 私が死ぬのは、いい。

 むしろ、死にたいと思っているのだから、それ自体は好都合以外の何物でもない。

 だが、行きずりの人を巻き込むのは違うだろう。

 手のひらに、爪が食い込む。

 ──巻き添えにするなら、せめて……。


「こんにちはお嬢さん。あなたも〝死にたがり〟ですか?」


 え、という声が、私の喉から洩れる。

 ありえない。

 ここに人が来ることが、ではない。

 私が入り込んでいるのだ。

 ほかの人が入り込んでいても不思議ではないだろう。

 だから、誰かに声をかけられることだって、あるだろう。不思議なことじゃない。

 問題なのは、声の聞こえた方向。

 前だ。

 この廃ビルは、この周辺でいっとう高い建物だから、向こうの建物から声をかけられた、なんてことは通用しない。

 だから、ありえないのだ。

 私の前方から、人の声がするなんて。

 何もない中空から、人の声がするなんて。

 ……それこそ、都市伝説じゃあるまいし。

 目を上げると、そこに人が立っていた。

 そこ──空中に。

 まるで、透明なガラス板があるかのように、二本の足で、当たり前のように立つ、男。

 煤けた薄灰色の髪に、濃灰色のジャケット、臙脂色のネクタイ。

 超常的な現象を目の当たりにして、私の思考は鈍麻する。認識に、思考が追いつかない。


「……なんで──?」


 自然と零れた言葉を、その男は人差し指を口に当てて、制止する。


「お静かに。僕との〝会話〟は、良くないモノを招きますから、結界を張るまでしばしのご辛抱を」


 そう言いながら、彼は空中を、まるで階段を下りるかのように歩く。

 硬い靴音が鳴ると同時に、彼の足下が淡く光り、ガラス片をぶつけ合わせたような、細く高い音が鳴る。

 私がぽかんと口を半開きにしている間に、彼は私の横を通り過ぎ、屋上へと降り立った。

 トン、と革靴がコンクリートに当たる音がする。

 そして彼は、私には知覚できない言葉を口の中で唱えた。

 するとどうだろう。

 私たちの四方を、薄い光の壁のようなものが包み込む。


(──閉じ込められた?)


 いや、さっき結界がどうとか言っていたような?

 ジャケットの裾を手で払ってから、彼は私の方を振り返った。何かに気が付いたのだろうか、片眉を上げ、そして苦笑した。


「まったく、そんなに警戒しなくても大丈夫ですよ」


 ……警戒、しているのだろうか。

 指摘されてから、私は自分がどう思っているのかを精査しようとするが、出てきた結果は、〝わからない〟。

 意味が解らないとは、思う。

 空中を歩くことも、この光の壁のようなものも、そして、彼の背中に羽が生えていることも。

 ──だから、なんだというのだろうか?

 彼がなんであろうと──正直私には関係がない。

 死にたいことに、変わりはないのだから。

 私の沈黙をどう捉えたのだろうか。

 彼は「これは失礼を」と、まるで執事がそうするかのような所作で頭を下げてから、


「僕は都築つづきめぐるといいます」


 上げた顔を、ずいと近づけてくる。

 たれ目がちな鳶色の瞳が、私の奥までを見透かすように、私の目を覗き込んできた。


「それから、〝天使〟です。どうぞよろしく」

「……天使?」

「そう、天使です。……なんですか、その顔は?」


 いきなり天使だなんだと言われて、はいそうですか、と受け入れられる人類が、この世にどれだけいるのだろうか。

 なんだかよくわからない力を持っているというのは、わかる。

 空中を歩く人間は存在しないし、この結界(?)を出すことだって、世間一般で人間と呼ばれている大多数の生き物は出来ないだろう。

 それよりなにより──


「……輪っかは?」

「は?」

「だって、天使って光の環があるものでしょ?」

「ああ、そういうことですか」


 そう頷くと、都築は自分の頭上を指差しながら語る。


「あれはあくまで、を、絵画という芸術の中に取り入れた、抽象的な表現に過ぎません。もし着けている者がいたら、詐欺か何かを疑った方がいい。天使を騙る、偽物の恐れがありますから」

「……あなたも十分に怪しいと思いますけど」

「これは手厳しい」


 都築はそう苦笑すると、害意はない、という意思表示か、両手を顔の辺りまで上げて見せた。

 私はしばらく彼の顔を見て、彼が何を考えているかを推し量ろうとして、しかしすぐにそれを諦めた。

 面倒くさくなったのだ。

 正直、どうだっていい。

 彼が何であろうと。

 私の邪魔をしなければ、それで。


「……で、何か用ですか。何もないなら、どこか行ってくれますか。誰かと関わりたい気分じゃないので」

「おや、冷たいですね」

「別に。これが普通なので」


 そう、別にわざとじゃない。

 普通にしゃべると、この声色になってしまうだけ。そして、わざわざ他人に対して、普通じゃないようにしゃべるだけの気力がないだけ。

 そうですか、とどうでもよさそうに返事をしてから、彼はにこりと笑顔を見せた。


人材募集ヘッドハンティングとでも言いましょうか」

「はあ……?」


 いまいち、言っていることがピンとこない私に、彼は説明を続ける。


「昨今の人口増加や戦争、自殺率の増加に関してはご存じですか?」

「まあ、一般常識くらいは……」

「それはよろしい、説明を省けてありがたい。それらのせいで、天界の方が未曾有の人材不足に陥っておりまして。なにせ人が増え争いが増えれば、処理しなければならない事象も、自ずと多くなります。そこで急務なのが、働き手の募集、というわけです」

「はあ……」


 天使やら天界やら、理解しがたい単語がぽつぽつと聞こえてくるが、とりあえずは、彼は働き手を探すスカウトマンであるらしいことは、今の話で理解した。

 だが、どうしても気になってしまうのは、


「……スカウトするなら、もっと現役世代の所へ行けばいいのに」


 ぼそりと呟く。

 私みたいな、十代後半そこそこをターゲットにするよりも、もっと現役バリバリの、三十代四十代を狙った方が、人手不足には効果的なのではないだろうか。少なくとも、私みたいなヤツなんかよりは、戦力になるだろう。


「もちろん行ってはいますがね。しかしあなたも〝死にたがり〟だというのなら、こちらとしては、見捨て置くことはできないんですよ」


 〝死にたがり〟。

 そういえば、先ほども聞いた単語だ。

 確かに私は死にたいと思っている。


「……まさか、それを止めるつもりですか? ……私の命です、放っておいて──」

「お手伝い、しましょうか?」


 低く、甘い、優しい声。

 思っていた言葉とは逆の言葉が、自称天使の口から聞こえて、私は「え」とぽかんと口を開く。


「ええ、もしあなたが、こちらで働くと確約してくださるならば、痛みも苦しみもなく、サクっとそのお命をいただけますよ。〝死にたがり〟のあなたとしては、好都合なのでは?」


 ドクン、と心臓が鳴る。

 ああ、私にも心臓があったんだっけ、なんて、そんな考えが頭をよぎった。

 つまり──、彼の言っていた〝天使〟も、〝天界〟も、そして〝死にたがり〟も、全て何かの比喩ではなく、言葉通りの意味だということ?

 ようやく、私の認知と思考が合致する。


「それ、本当に?」

「ええ、嘘はつきません」

「……本当に?」

「本当に」


 そう言って彼は、再びにこりと笑顔を見せる。


「決めていただければ今すぐにでも。血の一滴も流さず、痛みも、苦しみも与えずに、この場ででも」


 ドクン、と心臓が鳴る。

 それは、あまりにも甘美な誘いで──。

 だが、そんな私の意識を、現実がつなぎとめる。

 耳に入ってきた、音だ。

 階段を一段飛ばしで上がってくるような、軽やかな足音。

 続いて、ダン、と廃ビルのドアを開ける音に続き、蝶番が悲鳴を上げる。

 そして──


「話は聞かせてもらったっ!!」

「え?」

「はっ? ──っ!!」


 黒い服が宙を舞い、それに気が付いた天使は体を反転させ、先ほど結界を張った時のように、指を立てる。

 だが、それは何の意味もなさなかった。

 次の瞬間には、何か黒い力が私たちの頭上を通り過ぎ、そして都築の張った〝結界〟は、光の粒となって消えてしまった。

 今の黒い力は、鎌──?

 ふわりと屋上に着地したのは、二つに縛った肩口くらいの長さの黄色い髪に、ヘソの出た黒い衣装を身に纏った少女。

 黒や灰色が好きなのか、髪や手首についたアクセサリーも黒、黒、時々灰色。

 私よりも、身長も低いように見える。

 何より目立つのは、その頭の上に浮かぶ光輪。それはまるで、〝天使〟のようで──。

 そんな少女が、ぱっと顔を上げて、はじけるような笑顔で叫ぶ。


「呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃじゃん!!」

「…………は?」


 いきなり出てきたこの少女が何を言っているのかが心底わからず、私は口をあんぐりと開ける。〝天使〟を見た時よりも、大きく。

 都築が面倒なことになった、と言わんばかりの表情を浮かべて、片手で顔を抑えた。


「……流行があまりにも遅れすぎています。出直していただけませんか?」


 怒りか、呆れか。

 疲れたような震え声で、都築が言う。

 しかし、少女は何も気にしないと言わんばかりに、ビシ、と彼を指差して再び宣言する。


「話は聞かせてもらった!!」

「二度も言わなくていいですし、そもそも聞こえてないでしょう。あなた今来たばかりなんですから」

「結界を張らないと〝良くないモノ〟を招くんだっけ? いやー心外だなァ、〝良くないモノ〟呼ばわりなんて!」

「……なんで聞こえてるんですか」

「たまたま通りかかったから! 運が良かったねそこの少女、あるいは悪かったのかもしれないけどさ、話によっては」


 そう言いながら、彼女はハーフブーツを鳴らして、私の方へと歩み寄ろうとし──、 

 ──私と彼女の間に、都築が立ちふさがる。


「待ちなさい、まだ僕と彼女が話している途中でしょう」


 目つきの鋭くなった都築に対し、しかし少女はけろりとしている。


「そうなんだ? でも、早い者勝ち言った者勝ちはどうかと思わない? そうじゃない? だって、彼女の逝き先を決める話なんでしょう?」


 それに対して、都築は一瞬だけ眉をピクリと動かしてから、観念したように溜め息を吐いた。


「その通りですね」


 と都築が首肯する。

 ……どうやら、彼女と都築はお互いがどういう存在なのかわかっているらしい。

 つまり、わかっていないのは、私だけ。


「……その、あなたは?」

「ん? アタシ?」


 少女が自分の顔を指したので、私は首肯する。

 ──この男をどれだけ信用していいのかはわからないけれど、先ほどの忠告も気になるのだ。『光輪を着けている者がいたら、それは詐欺を疑った方がいい』という話。

 もし、仮に、死後の世界があるとして、その先のことを詐欺られてしまうのは冗談では済まない。

 死にたいとは思うけれど、死んでもなお、死にたいという気持ちになるのはごめんだから。

 少女が、よくぞ聞いてくださいました、と言わんばかりに、得意げな表情を作って言う。


「よくぞ聞いてくださいました!」


 実際に言った。


「アタシは生流いずるかいり。見た目は超絶怒涛の美少女、中身は死を司る地獄の使い」


 仰々しい言葉を選んだかと思うと、彼女はいたずらっぽく、ニヤリと笑った。


「わかりやすく言えば、〝死神〟さ。以後よろしく」

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