放浪編 ゼイメルケルの想い
三百年
透き通るほどの白が、見ている。
揺れながら、優しく。
離れているようで、傍にいる。
手に触れられなくとも、傍にいる。
◇ ◇ ◇
朧気な何かに、ライラは手を伸ばした。
その手もまた、朧気になる。
不思議だなと首を傾げると、遠くから声が聞こえた。
その声が、ゆっくりとライラに近付いてくる。
「おい、ライラ! いつまで眠ってんだ!」
全身の肌を叩くような声。
声の主が、部屋中のカーテンを開けて回る。
薄暗い部屋に、光が射しこんだ。
拡散した光の欠片が、ライラの目に飛び込んでくる。
「……おはよう、ブラム」
ライラは光に目を細めた。
ブラムと呼んだ白髪の男を見て、小さく欠伸をする。
するとブラムが苦々しい表情で、ため息を吐いた。
「寝惚けるな。もう昼だ」
「そうなの? ……まだお腹が空いてないわ」
「寝てばかりならそうだろうよ。だが腹が減っていても食い物はないぞ。食材は昨日使い切ったからな」
「じゃあ、買いに行ってきて……」
ライラは再び目を閉じ、枕に顔を埋めた。
ライラは光というものがあまり好きではなかった。
以前は好きとも嫌いとも思わなかったが、ここのところ夜のほうが生きやすく感じる。
「なに言ってんだ」
二度寝しようとするライラに、ブラムが寄った。
勢いよくライラのベッドに腰かけてくる。
その衝撃に、ライラの細い身体が一瞬浮き上がった。
「な、何するの?」
「何するの、じゃねえ」
驚くライラに、ブラムの顔が迫る。
ブラムは口が悪いが、端正な顔立ちであった。
美しい白髪の奥に、力強さを宿す瞳。
そういえばブラムは最近、この街の女性たちに評判がいいと聞く。
確かにそうかもしれないなと、ライラは片眉を上げた。
しかしライラは片眉を上げるだけで、微かにも胸が高鳴らない。
その理由は、この後ブラムが何と言うか知っているからだ。
「おい、お前が財布なんだ。お前がいないと何も買えないだろうが」
悪びれもなく、ブラムが言った。
「さっさと着替えろ」と言い加えて。
ライラは肩をすくめ、着替えるために寝室からブラムを追い払うのだった。
ライラには、特別な力があった。
欲しいものを手に入れるための貨幣を、手のひらから出すことができるのだ。
出てくる貨幣の量に上限はない。
どんなときでも、どんなものでも、お金で買える物であれば買うことができる。
ライラはその力を、「お金に困らない力」と呼んでいた。
「とりあえず飯を食いに行こうぜ。俺は腹が減って、食材があったとしても飯を作る気力が無え」
着替えて外へ出てきたライラに、ブラムが言った。
「そのお金は私が出すのですけど」
「そうだが?」
「私が出すのになあ」
「ああ? ……ああ、そうだな。分かったよ」
「分かったの?」
「分かった分かった。……さあ“お嬢様”。参りましょうか」
ブラムが畏まったふりをして、ライラの後ろに控えた。
その様子を見て、ライラは小さく笑う。
表向き、ライラとブラムの関係は主従関係であった。
容姿の良いライラは貴族の御令嬢のふりをし、体格の良いブラムが従者のふりをしている。
そうしておけば贅沢な生活をしていても、街の者に違和感を覚えられることはない。
どの地域、どの街に行っても、二人はその表向きの顔を通してきた。
メノスの村を出て、三百年。
ずっとそうして生きてきた。
「五年経ったな」
比較的大衆向けの食堂に入った二人。
窓の外を見ながら食事をしていたブラムが言った。
「この街に来てから、ですか?」
「ああ。そろそろ化粧を変えたほうがいいんじゃないか」
「変えていますよ」
ライラは頷き、自らの顔を指差した。
「不老」となってからも、三百年。
ライラは表向きの年齢に合わせて化粧をしていた。
そうしなければ、十代中頃の容姿を衆目に晒しつづけてしまうからである。
化粧だけではない。
滞在する街を変えるたび、表向きの名前も変えていた。
同じ名前のまま生きていれば、いつかどこかで、不老だと気付かれる恐れがある。
ライラだけでなく、ブラムの正体も気付かれるわけにはいかなかった。
ブラムは魔族であった。
人間と見た目が変わらないのに、長寿で力が強い。さらには魔法も扱える。
そんな魔族は、人間から嫌われていた。
今もどこかで、魔族と人間の戦争がつづいているほどに。
「ブラムは鈍感ですね」
「うるせえ。最初のころはひどい化粧してたくせによ」
「それはつまり、今は綺麗になったということですか?」
「ああ? 馬鹿じゃねえの?」
「あ、馬鹿って言わないでって、言ってるのに!」
ライラはブラムを睨む。
そしてブラムの皿から、肉を一切れ奪い取った。
「あ、てめ……」
肉を奪われたブラムが、両目を丸くする。
しかし大声では怒れない。
表向き、ブラムはライラの従者なのだ。
「……っち、ガキかよ」
「見た目はね」
「三百歳の婆さんとは思えねえな」
「……次言ったら殴りますからね」
ライラは拳を握り、にこりと笑う。
はっとしたブラムが、両手のひらを見せて首を横に振った。
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