第8話 ガストル

 この世界にガストルが現れたのは二百年程前らしく、それまで僕たちは何千年も前から変わらぬ生活を送っていたと言われています。

ガストルの世界とこちらの世界の間には女神様のヴェールが張られていて、それまではそこをくぐり抜けてくる者はいなかったのです。

ところが、ちょっとした弾みでヴェールを通り抜けてきた異邦人が現れたのです。

 女神のヴェールは、その慈愛の神性から弱者、困窮者には優しいところがあります。

隣接する世界が強い時には強固に、こちらの世界を守る為に働きますが、その神性ゆえに困窮者には通過を許すことがあるのです。

 一見何も無いような高山の頂付近や、小さな無人島に異世界との接点は作られます。

これは神々の契約に基づくもので、それぞれの神の創造する世界は、どこかで接点を持ち連続していなければならないのです。

こうすることで、神々は行き過ぎた創造や管理を互いに監視し合い、より良い世界を作ろうとしているのだと言われています。

 最初に女神のヴェールを抜けた異世界人は遭難者でした。

彼は難破した船の唯一の生存者で、運良く異世界との接点がある小さな無人島に漂着しました。

 当時のヴェールはまだ頑強で、異世界の住人が通過することは出来ないはずでしたが、彼は自らの行いで幸運を引き寄せたのです。

元々彼は敬虔な女神の信徒であり、無欲な善人でした。

水も食料も無い無人島で救助の当てもなく困り果て、ひたすら女神に祈ったのです。

そのことが慈愛の女神のヴェールを開かせる事になりました。

 彼は洞窟の奥で揺れ光る透明なヴェールに手を触れました。

すると、ヴェールは溶けるように開いて、その先には見たことも無い街へと続く道が現れたのです。

こうして彼は、この世界へと招かれたのです。

彼の名はジョージ。仕立屋でした。

善良で分け隔ての無い彼は、自分とは全く様子の違うこの世界の住人ともすぐに仲良くなり、異世界の環境にもすぐに馴染んだのです。

 彼は親切にされたお礼にと、麻の繊維を織って簡単なベストを友人達に贈りました。

元々被毛を持つ住人達には全裸という認識が無かったので、このプレゼントは装飾品として喜ばれました。

これが住人達に広まって、ジョージはとても忙しくなったのです。

幸い彼は織機の構造を知っていましたので、糸から布を織る技術を伝えました。

そしてこちらの世界に、服を着るという習慣が広まっていったのです。

 これが女神様のお気に召したのか、ヴェールは岩だらけの無人島から、その東方にあるイングランドと呼ばれる人の住む島へと移されたらしく、度々ヴェールを抜けてくる異邦人が現れ始めました。

彼らは必ずしも女神様の信徒ではありませんでしたが、やはり元の世界では困窮している人々ではありました。

道具を盗まれた大工や鍛冶屋、職場を失った料理人やガラス職人など、その多くが手に職を持つ人々で、来訪した彼らが生活する上で不便を感じた物から徐々にその技術が伝わっていったのです。

 それでこの世界は少し便利になったり、住みやすくなったり、料理が美味しくなったりしたのですが、それ以上発展することはありませんでした。

僕たちは便利な道具や生活にはすぐに馴染むのですが、それからさらに新しいことを思い付くのが苦手なのです。

そんなわけで女神様は、この世界に新しい技術や習慣が馴染んだ頃になると、ヴェールの結界を緩め再び世界を発展させるために異世界人を迎え入れているようです。

 先生が渡って来られた頃には、衣服や道具の文化がありましたし、料理の質もそこそこ上がっていたのです。

それで先生は文化の上書きをするように新しい技術や流行の本を何冊も書き上げて、私たちの生活をさらに豊かにしたのです。

 ところが最近になって先生が住んで居られた世界の、大陸の方では大きな戦争があったらしく、たくさんの人々が流民となったのでした。

戦火で家を失った人、畑を踏み荒らされて収穫の無かった人々、占領された村から追い出された人達、親を亡くした子供達。

そうした人々を救うために再びヴェールが移動し、難を逃れた人々がこの世界にやって来ました。

 しかし、そうした人々の中に戦争を主導して敗れた人や博打で身を持ち崩した破落戸ごろつき達も含まれていたのです。

彼らは流民達がヴェールの前で女神様の聖句を唱え消えていくのを見て、その真似をして来訪した人達なので、元々こちらの世界に敬意を抱いている訳ではありませんでした。

 彼らは最初の内こそ大人しく、この世界の住人達の世話になっていましたが、生活が楽になってくると穏やかな世界に飽き足らなくなったようです。

元々、戦争をして相手を自分の支配下に治めようとしていた人達ですから、徐々に其の本性を現し始めたのです。

曰く、この世界に人間がいなかったのは、その来訪を待っていたためで、人間こそこの世界の支配者である。

曰く、下等生物は人間に支配され、使役されてこそこの世界の秩序が成り立つ。

この思想は当初ここまで過激では無く、この何十年間で密かにガストル達の間に醸成されてきた物でした。

 それは、例えば僕たちが新しい物を生み出すことが苦手だということ。あるいは衣服の観念や、社会構造がガストル達の世界の常識とはかけ離れていること等。

こうしたことが喧伝されて、『だから獣はダメなんだ』という決まり文句が浸透していったいきさつなのです。

 これらをもっともらしく吹聴したのが戦争を主導して負けた人達で、彼らは能弁で如才なく私たちに接しながら、影では流民達の間にこうした思想をばらまいていたのです。

彼らの入れ知恵で破落戸達が博打を広め、疑うことを知らない僕たちをイカサマで陥れ、先生のおかげで普及してきた貨幣を騙し取られる被害が続出しました。

僕たちは今まではあり得なかった、金銭で束縛されるという立場に追い込まれたのです。

 それを知った先生や先生と共に国政に携わった人達が、各種の法整備や警備隊の充実を図って被害を収めようとしましたが、無法の時期に借金をした人達を救う手立てを講じられず、この世界に奴隷という身分制度を作らざるを得なくなったのです。

 こうした歪みはその後も生まれては潰され、また新たに生まれるといったことを繰り返し、単純で長閑だった世界に拭えない影を落としてしまったのです。


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