第4話 ファームズヴィルの朝 前編

 穏やかな起伏が続く丘陵の上端から徐々に日が射し夜霧を追い払っていくと、屋根裏部屋の窓からは広大な領地が見渡せるようになります。

こうして見ると昨日木道を渡ってきた湿地は、この領地のほんの一部に過ぎないことが分かります。

 今は枯れ草に覆われている草原ですが、春になればきっと見事な緑野となることでしょう。

点のような遠くの影が集団となって動いているのは、丘赤牛おかあかうしの群でしょうか。森の手前を横切っていきます。

丘赤牛は三本角の短い六本足の巨獣で、なだらかな丘陵地帯に多く住み、その背が燃えるような赤い色をしていることから、そう呼ばれています。

肉質が柔らかく、よく増えるのでこちらの地方では常食獣とされているようですが、僕は群を見るのが初めてなので、もっとよく見ようと身を乗り出したところで、冷たい風がびゅっと吹き付けてきました。

紛うこと無き北の大地に吹く風です。

僕は慌てて窓を閉めて念入りに錠を掛けました。北側に有るこの部屋の窓が小さいのは、こうした理由があるのでしょう。

 逆立ってしまった顔の毛繕いをしていると、階下から三姉妹の声が聞こえてきました。

僕は身支度を整えると、階下の居間へ下りて行きました。

「おはようございます」

「あら、トビーさん、お早いんですね」薪の入った籠を持ったマリアンが微笑みました。

「おはようございます。トビーさん」メリアンは振り向きもせずに、灰を寄せた暖炉の火を掻き起こしています。

「ダメだわ、完全に消えちゃったみたい」

「あなたが最後に確認を怠ったからですよ」

「だって、昨日は遅くまで話し込んで、その間何回か薪を足したから大丈夫だと思ったのよ」

「仕方ないわね、キッチンから焚き付けを持って来ましょう」

どうやら暖炉の火が消えて困っているようです。

「僕がやりましょうか」

「それが、焚き付けの藁と火打石を、今持って来ていなくて」

「ああ、大丈夫ですよ」

 僕はマリアンの籠から薪を一本もらい、爪を出して表面を引っ掻いて毛羽立たせました。

それを数本作り暖炉の中に山形に組み上げると、その中心に指先から炎玉を出して放り込みました。

よく乾いている薪なので、瞬く間に火が回ります。

「まあっ、まあまあまあ、トビーさんは、火術が使えるんですね」マリアンが目をキラキラさせて僕を見ています。

「ええ、少しだけですけど」

小さな頃から祖父に習って神気を扱い続けていた為に、地・水・火・風の神気術はいつの間にか習得していました。

それでも普段は、せいぜいが火種や掃除に利用するくらいです。

「とっても便利‥あ、ごめんなさい」

うっかり便利屋扱いしそうになって、マリアンは申し訳なさそうに眉尻を下げました。

「いえ、いえ。僕も旅の途中、野営の時には何度もこれで助けられましたからね。いつでもご利用ください」

 それではと、早速客間の火起こしをお手伝いして戻ってみると、起きだしてきたワシュフル先生が肘掛け椅子にゆったりと座っていらっしゃいました。

「先生、おはようございます」

「やあ、トビー君。おはよう。早速マリアンにこき使われているのかね」

「イヤですわ先生。これはトビーさんが自主的にお手伝いくださったのですからね。ありがたいことに、トビーさんは火術を使えるんですのよ。おかげですごく助かってしまいました」

「ほう、ほう。君は何度も私を驚かせてくれるね。神気術は決して珍しい訳では無いが、私の調べたある町では僅かでも神気を使える者は、住民の三割もいなかったし、神気術士として業を為していた者はたった一人だけだったよ。我が家ではミリアンが水術を使って料理をするのに重宝しているし、キンネルが風術で速く走れるので、時々使いを頼むのだよ」

「それで昨夜は居られなかったのですね」

「そうなんだ。君はポロからどの位かかってここへ着いたんだね」

「えーと、ポロからマクマの港まで二日、そこからバスカブの港まで船で一日、ここまで歩いて一日ですから四日ですね」

「ふふん、キンネルはね、わずか一日でポロまで行くのだよ」

先生は自慢げに鼻の穴を膨らませました。

「それは、すごいですね。僕は初めてのことで地理が分からなかったものですから、街の人に言われるがまま船を使いましたが、ひょっとして陸路の近道がありましたか?」

「ふふっ、気付かれたか。実はこことポロまで山道が通っているのだよ。君は丁度三角形の二辺に三日を掛けたのだが、ここからは残りの一辺を使って抜けられるという訳だ。但し、道は険しいし馴れないと迷うので、キンネルのようなベテランで無いと難しいがね」「なるほど、そうだったんですね。そのうちキンネルさんのお供をすることにしましょう」

「うむ、三月に一度はポロのアカデミーに年金を受け取りに行かねばならないから、その機会はあると思うが、果たしてキンネルの脚に付いていけるかな」

「風術で追い風を作るんでしょうか。修練してみます」

「おや、君。風術も使えるのかい」

「少し強い風を起こせる程度ですが」

「ほう、ほう、そりゃ頼もしい。是非とも励んでくれたまえ」

「はい、先生」

「さあさ、皆さん朝食ですよ」

 ミリアンの声に僕たちは食堂に移動しました。

籠一杯に盛られた焼きたてほかほかの丸パンに草原豚そうげんぶたのカリカリベーコン。

タラン鶏の卵をふんわりと溶いたスクランブルエッグとマルカ海牛かいぎゅうのホットミルクが湯気を上げています。

草原レタスとチェシャの葉に粉チーズを塗したサラダに、たっぷりとセサミミルクのドレッシングを掛けて、先生はもりもりと召し上がります。

朝食は三姉妹と先生と僕だけで、フォクシー親子とラルクさんは自分達の住まいで摂るそうです。

マルカ海牛のミルクは濃厚でくせがなく、とても甘い良い匂いがします。

河口から揚がって来たのを沼地で餌付けして、増やしているそうです。

このミルクで作ったフレッシュチーズはまろやかでコクがあります。

熟成が進むと味も香りも濃厚になって、赤葡萄酒との相性は抜群です。

 僕はたっぷりと盛られたスクランブルエッグの味を堪能しながら、焼きたてのパンを頬張りました。

薄茶色のカリッとした表面に薪の匂いがほのかにして、出来たてならではの香ばしさがあり、割ると真っ白な雲のようにふわふわです。

「ミリアンさん、とても美味しいです」

「あら、ありがとうございます。そう言っていただけると作りがいがありますわ」

「このベーコンなんかは」先生はフォークで刺したベーコンをもしゃもしゃと食べながら仰有います。

「ラルクが燻製小屋で燻したものなんだ。今は大型の海峡鱒かいきょうますが揚がっているので、もっぱら冷燻に切り替えているようだから、その内燻製鱒の薄切りも食卓に上がるだろうよ」

「あら、先生。それを今晩召し上がっていただくつもりなんですのよ。昨日ラルクが最初に燻製に掛けた鱒が頃合いだから、今日持って来るって言ってましたから」

「ほう、ほう、それは重畳。今夜はホワイトベリーのワインを楽しもうじゃないか」

「ええ、よく冷やしておきますわ」

「うむ、うむ、時にトビー君は鱒の卵の食べ方について、旅の間に何か聞き及んではいないかね」

「ああ、あの赤い魚卵ですね。航海の途上、丁度時期だったので船の上で漁師達が獲れ立ての鱒から卵を取り出して魚卵漬けを作っているのをよく見ていました」

「ほう、ほう、興味深いね。あの割れやすい魚卵を、どうやって処理しているのかね」

「それが割と大胆で、まず一塊の魚卵を穀物酒と海水を混ぜた温水に浸けるのです。すると表面が白く変色するのですが、その部分が実は魚卵を保護している膜で、温水に浸かると固くなって中の魚卵と分離しやすくなるようです。それを取りだして小魚用の漁網を張った樽の上からゴシゴシと転がすと、樽の中に解れた卵だけが落ちるのです」

「ほーお、考えたものだねえ」

「その樽の中に、こんどは冷えたままの穀物酒と海水を入れて汚れを落とし、最後に水を切ってガラス瓶に移し替えるのです」

「それで完成かね」

「漁師の話によると、その上に秘伝の調味料を僅かに加えるということでしたが、その辺は教えてもらえませんでした」

「ふむ、ふむ。後は色々と試してみる必要はありそうだね。よし、早速ラルクと相談しようじゃないか。食事を終えたら出かけることにしよう」

「はい、先生」

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