216 孵化、そして闇の大精霊

 不思議な感覚だった。


 結界の中。深い深い闇の中。

 光の届かぬ深海めいた暗闇の中で、外の喧噪もいつしか遠い世界の出来事のように耳に入らなくなっていた。

 聞こえてくるのは、ささやくような精霊たちの声。

 俺を気遣う声音はやさしく。彼らは俺の味方なのだと信じられた。


 俺はもっと味方が欲しくて、闇の術を唱えた。

 顕術。

 基本にして奥義とも言える、闇を生み出す術を。


 直径3メートルに満たない狭い結界の中、極限まで濃縮された闇が胎動し、出口を求め結界の内壁を侵食。外へ、外へと。まるで卵から雛が生まれる時のように、少しずつ、でも確実に闇が外へと漏れ出していく。


 結界を構成していた鋼のごとき強靱な精霊力すらを飲み込み、闇が急速に漏れ出し拡散していく。

 爆発するかのように急激に世界を飲み込み、光から闇へと反転していく。


 俺はそれでもなお、そこに留まり続ける濃密な闇に抱かれ、いつになく近くに聞こえる――『私を喚べ、私を喚べ』という声に促されるまま、その呪文を唱えた。


「サモン・エレメンタル」


 ドクン、と。

 力強い鼓動がひとつ木霊した。

 それは俺の心臓の音だったのか、あるいは別の何かなのか。

 術を唱えた自分ですら、わからなかった。

 

 ソレを俺が喚んだのか。それとも、喚ばされたのか。


 世界へ拡散していた闇が、周囲の精霊力を強引に巻き込みながら凝縮していく。

 世界が元の姿を取り戻し、俺の姿もまた露わになってしまうが、そんなことは関係がなかった。

 収斂しきった闇が、闇そのものが、確かな存在感を持ち、俺の横に立っていたからだ。


 周囲にはまだたくさんの人たちがいる。さっきまで闇に包まれ右往左往していたが、今はあっけに取られて、そのを見詰めている。

 すぐ近くにリフレイアとグレープフルーがいるのが確認できた。無事にフルーを保護して戻ってきてくれたのだろう。

 そんな2人も周囲の人々と同じように、息を止め目を見開いている。


 そして俺もまた、その闇の姿に言葉を失っていた。


「うふ、うふふふ。自分で呼び出したくせに、そんな顔をしないで?」


 立体感のない完全な闇で形作られた人型。

 帽子を被った長い髪の少女のアウトライン。

 を俺は1度みたことがあった。

 忘れもしない、あの森の中で燃える大猿をあっというまに殺した、闇の主――


「闇の……大精霊……?」

「やっと、やっと逢えた。小さな私たちとはずっといっしょだったけど、こうしてこの姿で逢うのは本当に久しぶりだものね、愛しい人……いえ、主様と呼ぶべきかしら」


 俺が「闇の大精霊」と言ったからか、周囲にいた人たちのざわめきが大きくなる。

 が、それは俺が想像していたようなものとは違っていた。


「闇の大精霊さまだって!?」

「初めて見た!」

「うおおおお! 大精霊様万歳!」

「水の大精霊さまが神殿から出ていたのは、闇の大精霊さまをお迎えする為だったのか!」


 ワッとあがる歓声。

 さっきまでは結界に石すら投げつけていた住民たちの、恐ろしいまでの手のひら返しだった。

 元日本人の俺には理解しがたいが、彼らにとっては大精霊は味方であり、ありがたいものなのだ。

 こんな風に唐突に現れたような存在であっても。


「闇の大精霊なのか……? 本当に? 俺が呼び出したのか? お前を」

「あなたの今そのままの力では、まだ私を呼び出すのは難しかったと思うけど、あの不思議な術――確か結界と言ったかしら、それがあったからね。うふふ……、そんなに警戒しないで? 召喚者を食べたりしないわ。今の私は、あなたのもの。召喚術で呼び出された存在なの。だから、安心して」

「召喚術……」


 サモンを枕詞として使用する術は、闇ノ喚だ。

 俺はステータスを確認してみたが、位階は上がっておらず、「サモン・ダークナイト」のまま。だが……これはつまり、レベルが上がっていくと最終的には大精霊を呼び出せる……ということなのか。


「本当に食べない……のか? ジリジリと距離を詰めてくるのはなぜだ」

「前に会った時は、触れ合うこともできなかったから……。大丈夫よ。警戒しなくても大丈夫。絶対大丈夫。えいっ!」


 気を抜いていたわけではなかったが、闇の大精霊のその一歩は目にも止まらない速度だった。

 気付いた時には、ピットリとくっ付かれていた。

 さすがに、驚いたが、その感触は先ほどまで結界の中で感じていた質量のある闇そのもので「これが闇の質感……」などと冷静に考えてしまった。

 なんにせよ闇の大精霊が加勢してくれるなら心強い。


 闇の大精霊にまとわりつかれながら、状況を整理する。


 俺が狙われていることには変わりが無い、状況を打破するにはとにかく水の大精霊をなんとかする以外にはない。

 逃げるか、倒すか、諦めてもらうか。

 選択肢はそれくらいだろうか。


 闇の大精霊の出現で驚いて諦めてくれる可能性もあるか……? そんな弱気が心の中に現れたが、離れた場所にいた水の大精霊が両腕を広げて高らかに嗤い、希望的観測だと思い知らされた。


「まさかまさかまさか! 上位召喚術を実際に行使する人間がこの世に存在しうるとは! そんな人間ならなおさら美味であろうな!」


 図体がデカいからか、その声はよく響いた。

 だが、さすがに闇の大精霊を警戒しているのか、すぐにこちらへ攻撃を仕掛けにきたりはしないようだ。


「ヒカル! ヒカル! ど、どどどどどどういうことなんです? これ? どういう状況なんですか? なんで、その人、ヒカルにくっついてるんですか? っていうか、人なんですか?」

「そうにゃんそうにゃん。わけがわからにゃいにゃん」


 リフレイアとグレープフルーが興奮気味に駆け付けてくる。


「わからない。なんか大精霊を召喚しちゃったみたいだ」

「なんか召喚ってなんですか。っていうか、召喚なんですか……? ん? え? えええええええ? 大精霊さま……なんですか? 闇の。は? 本当に、大精霊さま?」

「そうよ。私は本物の闇の大精霊よ」

「えええええ? 召喚? 大精霊さまを召喚? ヒカルが? 術で? ちょ、ちょっと何を言っているのかわかりませんね……」

「お、おちつけ。俺にもよくわからないんだよ。だけど、大精霊が味方になってくれるなら、この状況もなんとかなるかもしれない」


 前に会った時は、完全に俺を食べる側の感じを出していた闇の大精霊だが、召喚されたこいつは同一個体なのか、そう見えてそうじゃないのかよくわからないが、とにかく俺を食べる気はないらしい。


 というより、ダークナイトやナイトバグと同じように、精霊力で繋がっている感覚があるのだ。

 だからわかる。

 疑う必要が無いほど、彼女は俺の味方だった。


 水の大精霊と違い、人間の少女のようなサイズの闇の大精霊だが、そこにいるだけで、凄まじい精霊力が内包された存在だとありありとわかる。


「それより、グレープフルーは無事だったんだな。どこにいたんだ?」

「フルーちゃんは互助会にいました。モアさんが守ってくれたみたいで、私が着いた時にはもう誰もいませんでしたよ」

「そっか。じゃあ、あとはこの状況を乗り切るだけだな」


 フェルディナントといっしょにいた仮面の男はまだどこかにいるのだろうが、今のところの脅威は水の大精霊のほうだ。


 野次馬たちは、この状況が理解できていないのか、闇の大精霊を見ようとどんどん集まってきている。

 というか、すでにリフレイアと話をするのも、ちょっと微妙に難しいレベルに人でごった返し始めているのだ。

 戦闘になったら、彼らが巻き添えになるのは間違いない。


「なあリフレイア。水の大精霊って、この街の人間には危害を加えないんだろ?」

「どうでしょう……? 一般的には大精霊さまは人間には友好的ですけど……、絶対ではないと思いますよ。大精霊さまって、魔王が迷宮から出てきたら、街の人間もろとも殺すくらい苛烈に応戦するらしいですし。大丈夫って思いたいですが……あの様子だと、期待できないかもですね」


 つまり結局、わからないということだ。

 こんな状況自体が初めてのことだろうし、そこは仕方がない。


「うふふ。そんな風におしゃべりしている時間があるなら、あの大きいのは私に任せて逃げて、主様」


 闇の大精霊が真っ直ぐに水の大精霊を睨み付けながら言う。


「逃げるったって……どこに……?」

「街の外へ。あれはこの街に紐付いた大精霊だから、街や水から遠く離れることはできないわ。できれば急いで。私では、街に根付いた大精霊を長く足止めするのは難しいから」

「そうなのか?」

「私は術で生まれただけ。この形を保っていられる時間には限りがあるわ。あなたなら知っているはずよ?」


 召喚術の時間制限か。

 大精霊だしずっと顕現していられるのかとなんとなく思っていたが、そんなうまい話はないらしい。

 なら、こうしている時間すら惜しい。


 と、逃げようとした矢先、水の大精霊が動いた。


「逃がすものかよ」


 凄まじいスピードで空中を飛行して接近。こちらへと手を伸ばしてくる。

 それを、闇の大精霊が身体を張って防いだ。


「させないわよ」

「ふん……。生まれたばかりの身で、我とどれほど渡り合えるかの?」

「うふふ。まあまあ良い線いくんじゃないかしら?」


 周囲にいた人々は、状況が理解できていない表情。

 どうやら大精霊同士が戦うとは思っていなかったようだ。

 だから、未だに逃げることもなく、呆けた顔でこの場に留まり続けている。


「逃げるにしても、この人たちをどうにかしないと……」

「だから、逃がさんと言っておろう。上位召喚術を使う『愛され者』……か。ふ、ふふふふ、どれほど甘美な味であろうな? これほどの好機、2度と来るかもわからん。他の者には絶対にくれてやらん」


 言うが早いか、水の大精霊は闇の大精霊と対峙しながらも、精霊力を拡散、大きな水の壁を俺の四方に発生させた。

 攻撃的な術ではないが、巻き添えになった人々が悲鳴をあげて逃げ惑う。

 水の壁は五メートルほどもあり、前に見たウォータースクリーンと同じように下から上への水流が発生している。

 何人かが水流に飲まれて打ち上げられた魚のように空中を舞った。


「マジかよ……! 人間には危害を加えないんじゃなかったのか?」

「ほ、ほほ。不運はその者の運命よ。我にはどうにもならん」

「くそっ、なんでこんな奴が敬われているんだ。『ディスペル!』」


 破魔の魔力が放射され、水の大精霊が作り出した水の壁を打ち破る。

 さすがに人々は少しずつ距離を取って逃げ出しつつあったが、それでも人は多い。


「おぬし……それは魔術ではないのか? 上位召喚術だけでなく? 何者だ? 本当に人間か?」

「いちおうな」


 魔術を使ったのには、さすがの大精霊も驚いたらしい。

 俺としては、効いて良かったという感じだが、あくまで時間稼ぎでしかない。

 そうでなくても魔術は消費される精霊力――正確には魔力が多いのだ。持久戦は無理だ。

 俺はさっさと背を向けて走り出した。

 人混みはさすがに減ってきている。東のほうへ逃れればなんとかなるだろうか。


「さすが主様。さあ、私のことも無視なさらないでね。水の大精霊さん」

「待て!」

「行かせないって言ってるでしょぉ?」


 闇の大精霊が闇を生み出し、その半径を広げていく。

 俺のダークネスフォグより遥かに深い闇だ。暗視を持つ俺でも、かなり見えづらくなるほどだ。水の大精霊がどの程度の暗視を持っているか知らないが、時間稼ぎにはなりそうだ。


「ヒカル! 私とフルーちゃんはどうしたら!?」

「いっしょに来てくれ。リフレイアは大精霊とは戦えないだろ」


 とにかく今は逃げるしかない。

 闇の大精霊がどこまで足止めしてくれるかはわからないが、全力で走ればかなりの距離が稼げるはずだ。

 

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