123 海釣り、そして夢
「海か」
ぶらぶら歩いていたら、海まで辿り着いていた。
潮の香りは日本のそれより薄いような気がするが、あの臭いはプランクトンの腐敗臭だと本で読んだ記憶があるから、地球とは違うのかもしれない。ただ、この世界が地球とかなり類似した世界だということだけは確かだった。
全く違うのなら、この磯臭さ自体が存在しないに違いない。
俺は専門でもなんでもないから、詳しくはわからないが……。
木造の帆船が十数艘も停泊している、大きな港だ。
どうやって造ったのか、堤防まであり釣りをするには都合が良さそうだ。
そういえば、俺は唯一釣りだけは趣味として続けていた。
やってみてもいいかもしれない。
港沿いを少し歩いていると、釣具屋を見つけることができた。正確には、漁師の為の道具屋という風情だったが、個人用の釣り竿も置いているようだ。
俺はとりあえず、竹のような素材の延べ竿の先端に、糸を括り付けるだけの、原始的な竿を購入した。漁師が使うような品には見えないから、これは海遊び用だろう。
エサまで売っていたので、港湾部での釣りはこの世界ではそれなりにメジャーなレジャーなのかもしれない。
竿をかついで、良さそうなポイントを探す。
大きな岩を削って作られた岸壁部には船が並び、桟橋の上にも釣り人が数人いる。
波止場として、消波ブロックの代わりに、どうやって運んだのか巨大な石が海に積み上げられている。高レベルな土の精霊術士がやったのか、あるいは土の大精霊に手伝ってもらったのだろう。
この世界は科学力がない代わりに、精霊力がある。
遅れた世界とはとても言えない程度には暮らしに不便がない、文字通りファンタジーな世界であると言えた。
(桟橋でやってみるか)
日本ではあまり考えられないが、桟橋の上も釣り人立入禁止というわけではないらしい。
まあ、漁師や荷下ろしの仕事の邪魔をしたら、ぶん殴られて海に投げ捨てられそうではあるが、この時間帯は特段働いている人もいないようだ。
適当なところで、腰を下ろし、針先にゴカイに似たエサをつけ海に放る。
日本では、上手くやらないとクサフグばかりが掛かったものだが、異世界ではどうなのだろう。まさか魔物が掛かるということもないだろうが……。
俺はふと思いついて、ズルをしてみることにした。
「ダークセンス」
知覚の波が、足下の海の中まで探っていく。
この精霊術は、闇の中を見通す術だが、普通にどこでも使えるし、なんなら壁の向こう側に人がいるかどうかを看破したりするのにも使えたりする、意外と便利な術だ。
迷宮の第四層で水の中にいるサハギンを見つけるのに使えたわけで、当然魚がいるかどうかを知ることができるはず。
(なるほど、けっこう大きい魚がいそうだぞ。水深は五メートルほどか)
ダークセンスはまだ熟練度が低いからか、正確なサイズがわかるわけじゃないが、100センチを超える魚がゴロゴロいるようだ。
知覚の範囲だけで2メートルを超えるものもいる。やはり異世界の海は、日本とは違うな。
まさか魔物ではないだろうが、食べられる魚なのかどうかは謎だ。
まあ、そもそもそんなデカいのは、この安物の竿では釣れないだろうが。
「おっ」
糸を垂らして1分程度だろうか、さっそく魚が掛かった。
延べ竿だし、そもそも糸が短くタナを探ることもできないが、回ってきた魚が食いついたようだ。
釣り上げてみると、意外と大きい青魚で、アジに似ている。
当然アジとは別種だろうから、食べられるかどうかはわからない。1クリスタルを使えば調べられるが、さすがにそんなことにクリスタルを使うのはバカバカしい。
俺はシャドウストレージに魚を放り込み(この影収納の中では物がゴチャゴチャにならないから、食べ物をそのまま入れておいても問題ないのだ)、次のエサを付けた。
さすが異世界というか、魚がスレていないようで、次の魚もすぐに掛かった。
そうしてしばらく釣りを楽しんだ。
こんな天気の良い真っ昼間だけど、しばらく地球からの視線のことを忘れることができたわけで、つまり、だんだん俺はこの状況に慣れ始めている……そういうことなのかもしれない。
心に吹きすさぶ寂寥感だけはどうしようもないけれど、それもそのうち慣れるのではないかと思う。
――俺が誰にどう思われていようが。
――真犯人が捕まろうが、捕まるまいが。
ナナミは死んで、おじさんもおばさんも死んで、俺の家族は日本にいられなくなり、俺は、どうあろうとこの世界で一人で生きるしかない。
そのことに変わりはないのだ。
なにもどうにもならない。
それが事実で、変えようのない俺の現在地なのだ。
(――なんて……そう簡単に割り切れればな)
それなら、きっと楽だろう。
もう地球には戻れないのだし、あっちのことは完璧に忘れて、この世界で生きることができるなら。
暖かい風が吹き、水面がサーッと浅く波打つ。
――誰も見ていませんよ。お月様以外はね。
リフレイアはそう言った。
結局、彼女が何億人もの人間に見られているというのがどういうことなのか理解することはなかった。
だが……本当にそうなのだろうか。
正しいのは彼女で……俺が間違っている可能性は?
見られている根拠は、このステータス画面に表示された数字だけだ。
まわりにドローンが飛んでいるわけでも、カメラマンが俺を付け狙っているわけでもない。
「見られている」それそのものが嘘だとは、俺だって思ってはいない。
だが、気にしすぎていること。それ自体が間違いなのだとリフレイアは教えてくれていたのかも。
月は確かに頭上に浮かび、俺を見ているのかもしれない。
それと同じだ。
気にする必要が本当にあるのか――
……こんなことは、今までに何百何千と考えたことだった。
こうして、長閑な海辺で釣り糸を垂れていれば、なにもかも俺の妄想で、俺は元からこの世界の人間だったんじゃないのか。そんな気すらしてくる。
今はまだ切り離すことはできないけれど、こうして毎日ただ釣り糸を垂れるだけの暮らしを続けていれば、いつかは地球のことが夢や幻だったかのように思う時が来るのかもしれない。
釣り糸を垂れながら、そんな風に考える。
暖かい潮風が頬を撫でる。
白い海鳥が鳴いている。
(眠くなってきたな)
そう考えるのもつかの間、いつしか俺は眠りに落ちていた。
――
――――
――――――――
――夢を見た。
子どもの頃の夢だ。
ナナミが野良犬に餌をあげたら懐かれてしまい、家まで付いてきてしまったことがあった。
可愛い雑種の中型犬で、ペットなど飼ったことがなかった俺とナナミは、犬を撫で回して追加で食べ物をあげてしまった。犬は餌をくれた人間を主人だと認識したのか、そのままナナミの家の庭に居座ってしまった。
犬がこれほど人に懐く生き物だと知らなかったナナミはすっかり感激し、アイと名前を付けた。アイはしばらくナナミの家の庭にいて、遊びに行くときも、尻尾を振ってナナミの後ろを追いかけてきていた。
アイはそのままナナミの家で飼われることになるのだろう。
俺は子ども心にそう思っていた。
そんな日々が何日か続いたある日。
ナナミが泣きじゃくってうちに来た。
学校に行っている間に、父親が保健所に連絡してアイを引き渡したのだという。
ナナミはもう家には帰らないと俺のベッドに潜り込んで、またわんわんと泣いた。
今ならわかる。
彼女の両親は、野良犬は所詮野良犬、すぐにどこかへいなくなると思っていたのだろう。だが、アイはどこにも行かなかった。
昼は学校から帰ってくるまでナナミを待ち、夜は玄関の前でナナミが出てくるのを待つかのように眠っていた。
アイは懐きすぎたのだ。
そして、結果として殺されることになった。
「飼ってもいいって言ってたのに! ご飯だってあげたのに!」
「ナナミ……」
「いつか、私のことだって捨てるんだ!」
悲しいのか、それとも怒っているのか。
おそらく、その両方なのだろう。
うちの妹ほどでなくても、十分に聡明だった彼女は、保健所に連れて行かれた犬がどうなるのかも、もう、子どもにはどうすることもできないということも、すべてわかっていたのだ。
そして、その残虐な選択を自分の親がしたということ自体を、受け入れることができなかったのかもしれない。
「……それか、あの家にいたら、いつか殺されるのかもしれない」
「そんなわけねーだろ。おじさんも、おばさんも優しいじゃん」
「ヒーちゃん、本当に優しいなら保健所に電話するわけないんだよ。私のことだって、気にいらなければ捨てたり殺したりするんだ」
そこで生まれた、彼女の両親との間にできた取り返しの付かない亀裂。
それからというもの、ナナミは両親に対する不信感を拭うことができず、大事なことは両親ではなく必ず俺や妹たちに訊きに来た。彼女の中では俺たちだけが信用のおける人間になったからなのかもしれない。
中学受験をするか公立にするか決める時も、部活を選びあぐねた時も、そして高校を決める時ですら、俺たちに判断を預けた。
彼女の家出騒動はうちで一泊していったくらいで、すぐに沈静化したのだが、去り際にナナミが言った言葉だけは、その後も妙に記憶に残っていた。
――私が殺されたら、ヒーちゃん絶対に仇をとってね。約束だよ。
「――――子どもの……戯れ言だったのにな」
俺は目を開き、虚空に向けて呟いた。
寝る前と風景が変わってない。ステータスボードで時間を確認すると、寝ていたのは、ほんの30分程度だろう。
ずいぶんと、懐かしい夢を見た。
あの犬がいたのは、二週間くらいだっただろうか。
子どもの記憶だ。もしかすると、本当に数日――5日程度のことだったかもしれない。
大人にとっては一瞬。だが、子どもにとっては親友になるのに十分過ぎるだけの時間。
なぜ、こんな夢を見たのか。
ナナミを生き返らせることも、ナナミの仇を討つこともできない無念が、心の奥底で熾火のように燻っているからなのか。
それとも、なにもかもを諦め、地球のことも忘れて生きようと一瞬でも考えた俺を叱る為にこんな夢を見させたのだろうか。
俺は、すでにエサをとられた釣り竿に新しいエサを付けて、海に放った。
しばらくすると、また魚が掛かった。
それを半ば作業的にシャドウストレージに入れる。
何も考えないように、たんたんと時間を過ごし、そろそろ帰ろうかと思った頃――
脳内に声が響き渡った。
『異世界転移者のみなさんにお知らせです! これより、第一回システムアップデートを行います!』
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